13 彼には、何が「席」なのか分からない
リーゼロッテと母夫人が出ていきながら、一方では温室の奥へ、アネットが連れて行かれた。
白い帽子の菫色の造花が、葉の影の向こうへ消える。
マルヴィン伯爵夫人の侍女は慣れた手つきで彼女を支え、控え室の扉を開ける。
アネットは一度だけこちらを振り返りかけ、すぐに顔を伏せた。
そしてヒューバートは、その場に立ったままでいる。
――追いかけるべきなのか?
――リーゼを呼び止めるべきなのか?
――マルヴィン伯爵夫人へ、もう一度詫びるべきなのか?
彼にはその順番が分からない。
温室では、何事もなかったように茶が注がれている。
白いテーブルクロスの上で、銀の匙が小さく鳴る。誰かが冬咲きの花の話をしている。別の小テーブルでは、王都の慈善音楽会の日取りについて笑い声が立つ。
だが、そのどれも、今の彼には、自分のことを噂しているように感じられる。
やがて彼は、椅子の背に置いた手を、ようやく離した。さっきまでアネットが座っていた椅子だった。彼自身が背を引き、彼女を座らせた。
――だってそうだ、具合の悪い女性に椅子を引くのは、当然のことだ。紳士ならそうする。父も、礼儀の教師も、幼い頃からそう教えてくれたじゃないか。
だがリーゼロッテはそこを指摘してくる。
椅子――部屋――呼び方。
彼女は、この数日ずっとそればかりだ、と彼は思う。
だが、ヒューバートには、その三つがどうして一つの話になるのか、まだよく分からない。
――リーゼは婚約者だし、アネットは客人だ。
――婚約者と客人とは違うだろう。自分がアネットを気遣ったからといって、リーゼを軽んじたことになるのだろうか?
そう考えようとすると、先ほどのリーゼの声が戻ってくる。
――婚約者へ知らせず、王家筋に近い茶会へ別の未婚女性を伴うことですか。
《《別の未婚女性》》。
そんな言い方をされると、まるで自分がアネットを特別な相手として連れてきたように聞こえるではないか。
――違う。そんなつもりはない。アネットは弱っていた。
彼は思う。
青の客間へ移ってから、彼女は落ち込んでいた。南棟二階の部屋に置いてきた帽子や詩集のことで、何度も不安そうにしていた。あの部屋にいると安心できたのだと言っていた。急に移されて、自分が邪魔者になったようで苦しいと泣いた。
――泣いている女性に、何もしないわけにはいかないじゃないか。
だから、少し外の空気を吸わせようと思ったのだ。
それにマルヴィン伯爵夫人の茶会は、堅苦しい公式行事ではない。母も何度か招かれている。
顔見知りのご婦人たちが集まる、穏やかな席だ。
温室は暖かいし、花もある。アネットの気分も晴れると思った。
リーゼは婚礼準備で忙しいし、南棟二階の件で気も立っている。
それなら、今日の茶会へわざわざ呼び出すより、あとで話せばいい。
そう考えた。それだけだ。
――それだけなのに、どうして三度目などと言われるんだ?
一度目は南棟二階の部屋。二度目はその部屋の返却。そして三度目が本日の茶会。
エーレンフェルトの母夫人の数える声には、全くの迷いがなかった。まるで最初から、ヒューバートが同じ失敗を重ねるのを待っていたようだった。
――いや、違う。待っていたのではない。彼女たちは、ずっと見ていたという。
――では、何を?
ヒューバートの考えは、そこでもう一度つまずいてしまう。
――一体、彼女たちは何を見ていたというのだろう? アネットの体調? リーゼの部屋? 自分の振る舞い?
どれも、大きな悪意から出たものではない。少なくとも、彼の中ではそうだ。
アネットを南棟二階に休ませた時、あの部屋が一番静かで、日当たりもよく、寝具も整っていたから、急な体調不良で倒れた令嬢なら硬い客間の寝台へ運ぶより、少しでも楽な部屋へ入れる方がいいと思った。
そんな自分の思いやりを、リーゼなら分かる、と思っていた。
――リーゼはしっかりしているし、母上よりも落ち着いている時があるし、使用人への指示も穏やかで、家の予定も乱さないし。王家の意向で婚約が進んだ時も、彼女は戸惑いを見せず、礼を整え、婚約者として隣に立ってくれたし。家のために必要なことを理解し、感情を荒らさず、周囲の事情を汲む人だし。
そしてヒューバートは、《《そんなリーゼを》》好ましいと思っていた。
恋に浮かれるような相手ではない。だが、妻に迎えるなら申し分ない。
父も母もそう言っていた。
――エーレンフェルト家は堅実で、王家からの信も厚い。
――リーゼロッテ嬢なら、ラドクリフ家の奥向きもいずれ任せられる。
その時、ヒューバートも頷いた。
――彼女なら、ラドクリフ家を常にきちんとさせて支えてくれる。
そう思った。だから、今も思う。
――その考えのどこが悪いというんだ? 妻になる人が、夫の家を助ける。困っている客人がいれば、手を貸し、屋敷に病人がいれば、手順を整えるのは普通だろう?
――リーゼはそういうことが得意なんだから、見事にやれるはずだろう?
だから彼は、アネットのことも、最後にはリーゼロッテがうまく収めてくれると思っていた。
だが彼女は、収める代わりに一線を引いてきた。
――この部屋は誰のものなのですか?
――この席は誰のものですか?
――その呼び方を許したのは誰なのですか?
問いばかりが増えていき、ヒューバートには、そこが今、どこか息苦しい。
一方のアネットは問いを増やさない。彼女は、ただ困っている。震えながら謝る。自分が悪いのだと言う。ここにいていいのか分からないと言う。
――そんな顔をされれば、いていいと言うしかないだろう? 弱っている女性を守るのは、男の役目だ。間違っていないはずだ。
――父も、若い頃は母をよく気遣ったと聞いている。騎士物語でも、詩でも、男は傷ついた女性に手を差し伸べる。手を差し伸べた相手が男爵令嬢だからといって、何が変わるのだろう?
アネットは身分が高くない。家も強くない。だからこそ、こちらが守る必要がある。
リーゼは違う。彼女にはエーレンフェルト家がある。父も母も、家令も侍女も、皆が彼女を支えている。彼女自身も強い。今日だって、母の隣で少しも乱れなかった。
アネットには、それがない。ならば、《《自分がそばにいることは自然ではないか》》。
ヒューバートはそう考えたが、胸のどこかにしこりが残る。マルヴィン伯爵夫人の声が耳の中で繰り返される。
――席を替えるなら、まずご婚約者へお話しになるべきでした。
席。また席だ。
《《席》》など、あとから足せばいいと思っていた。
《《椅子ならある》》。茶器もある。茶会なら、急に一人増えることも珍しくはない。
今日だって、リーゼとシュザンナ夫人は来たではないか。そして席を用意した。温室は広い。誰も立ったままではなかった。
――なのに、皆が怒っている。どうしてだ?
怒っていたのはリーゼとシュザンナ夫人だけかもしれない。だが、周囲の視線は違った。
同情でも驚きでもなく、見定める視線だった。
――あの目は苦手だ。
彼は思う。
――こちらが何かを言う前から、すでに答えを持っている目だ。ああ、リーゼも最近、ああいう目をする。昔はもっとやわらかかったはずだ。少なくとも、自分の前ではそうだったはず。ああ、君は本当に変わった。そして昨日そう言ったら、変わったのは部屋です、と答えたけど。
彼にはあの返事も分からなかった。どうして、そんなふうに返すのか、と。
そして同じことがひたすら心の中でぐるぐると渦巻きだす。
――自分が見ていたリーゼは、こんな言い方をする人ではなかった。もっと穏やかに、物事を収める人だった。少しくらい気に入らないことがあっても、家のために笑える人だった。
婚約した時もそうだった。王家の意向があってヴァルトハイム侯爵が調整して、両家の結びつきは望ましいと父がそう説明してくれた。だから自分もリーゼも、それを受け入れたんだろうし。
燃えるような恋ではないけど、貴族の婚約とは、そういうものだろう? 互いの家を見て、利を見て、責任を見て、それから少しずつ情を育てる。そう教えられてきたし、それでよいと思っていたんだ。
だから、リーゼも同じだ、と彼は思った。そして同じだと思ったから、少し甘えた。
――婚約者なのだから。
――いずれ妻になる人なのだから。
――妻になるなら、夫が守ろうとしているものも分かってくれるはずだから。
そこまで考えて、ヒューバートはふと立ち止まる。
――夫が守ろうとしているもの。
それはアネットのことだ。では、リーゼは何なのか。
――妻になる人。婚約者。ラドクリフ家へ来る人。家を整えてくれる人。
そこまで並べて、なぜか彼の頭の中で、言葉が止まる。
リーゼ自身が何を望んでいるのか、彼にはすぐに思い浮かべられない。
婚礼準備――部屋――布見本――エーレンフェルト家――礼儀――怒り。
断片ばかりが浮かんで、リーゼが何を好むのか、何を嫌うのか、どんな花を好むのか、茶には砂糖を入れるのか、 疲れた時に、どんな顔をするのか――
知らないわけではないけど、すぐには答えられない。
アネットの好きな色は分かる。菫色だ。甘い菓子も好きだ。詩集を読む。花のある部屋を好む。眠れない夜は、薄い灯りを残してほしがる。そういうことは、この数日でいくつも知った。
だけどリーゼについては? もっと長く知っているはずなのに。
そのことに気づくと、椅子の背から離した手が行き場を失う。なのにまたすぐに別の考えが浮かぶ。
――そうだ、リーゼは、そういうことを表に出さない人だ。だから分かりにくい。アネットは分かりやすい。つらければつらいと言う。寂しければ寂しいと言う。不安なら涙を見せる。だから手を差し伸べられる。リーゼは、手を差し伸べる前に自分で立ってしまうじゃないか。
だが今日の彼女は、自分の席について言った。
――彼女は、そんなふうに感じていたのか?
ヒューバートは温室の入口へ目を向ける。リーゼとシュザンナ夫人は、もう戻ってこない。
馬車でエーレンフェルト家へ向かったのだろう。帰れば、ヴァルトハイム侯爵への報告が出る。母夫人はそう言った。
ヴァルトハイム侯爵。父が聞けば、顔色を変える。
王家そのものに訴えるわけではない。だが、王家の意向に沿って婚約を整えた家へ報告が行く。つまり、これはラドクリフ家の内輪の話ではなくなる。
――でも、そこまでのことだろうか?
また、その考えが回り始める。
部屋のこと。席のこと。呼び方のこと。アネットを連れてきたこと。
どれも、ひとつずつなら説明できる。仕方がなかったと言える。悪気はなかったと言える。弱っている人を助けたかったと言える。
だが、リーゼたちは三度目と言った。彼女たちは、ひとつずつではなく、並べて見ている。
――そんなに並べられると、急に逃げ場が少なくなるじゃないか?!
ヒューバートは、そこで初めて少し苛立った。
――なぜ、そんなふうに数えるばかりで、こちらの気持ちを見てくれないのか?
――何も悪いことをしようとしたのではない。アネットを傷つけたくないし、リーゼを傷つけるつもりもなかった。マルヴィン伯爵夫人の茶会を乱すつもりもなかった。少しずつ分かってほしかった。アネットは弱いしリーゼは強い。だから、強い方が少し譲れば、丸く収まると、そう思っただけだ。
やがて、温室の奥の扉が少し開き、マルヴィン伯爵夫人の侍女が出てきて、彼へ一礼する。
「カーライル様は、控え室でお休みです。薄いお茶を少し召し上がりました」
「そうか」
「本日は、このままお帰りになった方がよろしいかと、奥様が」
ヒューバートはうなずく。
「分かった」
分かった、と彼は言う。
だが本当は、何も分かっていない。
アネットを帰し、父に報告する。
リーゼに謝る。マルヴィン伯爵夫人にも、もう一度詫びる。
やるべきことは浮かぶが、一番大事なところだけが見えない。
――なぜリーゼは、あんな目をしたのか?
――なぜ母たちは、部屋や席をあれほど重く見るのか?
――なぜ自分が優しくしたことが、こんな大きな話になってしまうのか?
ヒューバートは、アネットの座っていた椅子を見る。
椅子はもう空いていて、誰も座っていない。
ただ、その椅子の周りだけ、先ほどの配置が残っている。
――席というのは、座っている間だけのものではないのか?
そこまで考えて、彼は眉を寄せる。やはり、よく分からない。
空いた椅子を見ても、リーゼが言ったことの半分も掴めない。
けれど、もう遅いのだということだけは、少しずつ分かり始めていた。




