14 三度目の報告
「戻りました」
「早かったな」
「ええ、早々に色々と」
リーゼロッテと母夫人が帰宅した時、父は書斎にいて、椅子に座ったまま二人を迎えた。
窓際の大きな机には、すでにハルトマンがヴァルトハイム侯爵宛ての報告書の草案を置いていた。
まだ封はされていない。余白に今日の茶会のことを書き足すためである。
母夫人はいち早く夫の部屋と飛び込んだため、帽子のままだった。この日は、支度を解く前に報告を済ませる必要があった。
「それでは聞こうか」
ハルトマンが扉の横に控え、アニーはリーゼロッテの帽子箱を持ったまま、少し後ろに下がる。
書斎の中には、父と母とリーゼロッテ、そしてハルトマン。この場に必要な人員だけがいる。
母夫人は、マルヴィン伯爵夫人から届いた手紙を机に置いた。
「こちらが、茶会前に届いた確認の書状です」
「どれ」
父伯爵は取り上げ、文面を読む。
――当初、リーゼロッテ・エーレンフェルトの名を伺っていたのですが、ご同伴者の変更を承りました。
――ヒューバート・ラドクリフは、アネット・カーライルを同伴する、と。
父は読み終えると、ふん、と鼻を鳴らし、机に戻す。
「で? リーゼに打診は」
「ありませんわ」
「ラドクリフ家から、エーレンフェルト家への知らせは」
「それも! 来ておりません」
「ヒューバート本人からもか?」
「ええ! ございません」
父は顎を少し引く。
「それで、茶会はどうだった?」
「それはもう、酷いものでしたわよ」
マルヴィン伯爵夫人が席を用意していたこと。ヒューバートがアネットの椅子を引いていたこと。アネットが静養中の身で茶会へ出ていたこと。彼女がまた、ヒューバートを愛称で呼んだこと。
母の報告を、父は途中で遮ることなく、ひとつずつ、起きた順に確認していく。
怒りを足さず、言葉を飾らず、見たものと聞いたものを机の上へ並べていく。
帽子、椅子、呼び方、席次、夫人の言葉。
そしてマルヴィン伯爵夫人が、ヴァルトハイム侯爵夫人への説明を申し出たことまで話すと、父は大きく息を吐いた。
「さて、これで三度目だな」
「ええ。一度目は南棟二階の部屋。二度目は、その部屋の返却。三度目は、今日の茶会です」
父は机の端に置かれた草案を見る。
「よし、屋敷内の不手際で済む段階は終わった」
「ですわね、そう判断致しましょう」
「マルヴィン伯爵夫人の席で起きたなら、こちらが黙っても残る」
「ええ。夫人は席次を記録していらっしゃいます」
「ラドクリフ家は、王家の意向を受けた婚約者の席を、社交上の席でも守らなかった」
父の声は低かった。怒鳴る訳でも、机を叩く訳でもないが、部屋の温度がひとつ下がるような重さがあった。
「ハルトマン」
「は、こちらに」
「草案を正式文へしろ。今日の件を加える。ああ、文面は強くしすぎるな。こちらはあくまで事実を報告し、判断を求めるだけだ」
「承知いたしました」
「宛先はヴァルトハイム侯爵。マルヴィン伯爵夫人へ写しを送る必要は、《《今は》》ない。ただし、夫人の名前と申し出は記録に残しておく」
「そのように」
ハルトマンは机へ近づき、草案を取った。それからようやく、父はリーゼロッテを見る。
「リーゼ」
「はい」
「茶会で、奴等は何を言った?」
リーゼロッテは、そこで初めて少しだけ迷う。
報告すべきことは決めていた。
けれど、自分の口からもう一度言うとなると、なかなかどこから切り出していいか迷う。
茶会の温室――白い帽子――菫色の造花――ヒューバートの手が椅子の背に置かれていたこと。
それらが、まだ彼女の目の前にある。
だが言わねばならない。ならば一番大切なことを。
「お父様、私は、ヒューバート様に尋ねました」
「何をだ?」
「私は何を分かるべきでしたか、と」
父は黙って聞く。分かるべき――《《分かってやるべき》》なのか。
「病人が婚礼準備の部屋を使うことなのか。その部屋の私物を残すことなのか。婚約者へ知らせず、王家筋に近い茶会へ別の未婚女性を伴うことなのか、と」
「彼は何と言った?」
「答えませんでした」
父の眉が少し動く。
「そのあと、私は申し上げました。家と王家のご意向を踏まえて、この婚約に礼を尽くすつもりだった、夫として迎えるなら、支えるつもりもあった、けど、それは私の席を誰かへ譲る約束ではない、と」
書斎から音が消える。父はまっすぐ娘を見た。
「よく言った」
短い言葉だ。リーゼロッテには、それで十分だった。胸の中に残っていたものが、ほんの少しだけ下がる。
「……お父様」
「何だ」
「私、怒っているんです」
「知っている」
「失礼なことをされたからだけではありません」
「そうだな」
父の返事は、すぐに来る。
「お前は、自分の席を勝手に使われた。自分の礼儀を、相手の都合に使われた。婚約者として踏んでいた手順を、恋心のように扱われた」
リーゼロッテはうなずき、父は続ける。
「その怒りは正しい」
父の肯定に、声が揺れそうになる。だから、リーゼロッテはカーテンの房飾りを見た。深い緑の紐が、窓の横でまっすぐ垂れている。今はそれくらいでいい。
ここで泣きたいわけではない。泣いたら、少し違う話になってしまう。
「婚約の破棄を、正式に申し立てますか?」
父は、黙って机の上の書状に視線を移し、草案を見、そして母を見る。
それからもう一度、リーゼロッテへと戻る。
「ああ、申し立てる準備を始める」
「準備、ですか」
「まずはヴァルトハイム侯爵への報告を出す。なにせ王家の意向を受けた婚約だ。その《《趣旨》》を確認していただく。そしてラドクリフ家がその趣旨を《《どう扱った》》かも、あわせて確認していただく」
「はい」
「その上で、こちらから婚約破棄を申し立てる。この順番を飛ばしてしまうと、あのラドクリフ家は、『若い二人の行き違い』という曖昧なものへ戻そうとするだろう」
父は、マルヴィン伯爵夫人の手紙を指で押さえる。
「今日の茶会は、その行き違いという言葉を使いにくくした。だが再び使おうとする可能性はある」
「ヒューバート様は、おそらくそう思っているでしょう。ほんの僅かな行き違いだ、と」
「そうだろうな」
父の声が少し冷たいものになる。
「あの小僧は、自分が何を言ったのか、したのか分かっていない。だからこそ厄介だ。悪意がないと言えば、礼を逸した行為も消えると思っている」
そう父が判断を決めると、母は椅子へ座り、ようやく帽子を取る。アニーが静かに受け取り、帽子箱へ入れる。深緑のリボンが箱の縁に少しだけ触れ、すぐに収まる。
「ウィリバルト」
母は夫に向かい、そう呼びかける。
「皆にも知らせましょう」
「そうだな」
父は頷く。
「アドルフを呼べ。ヒルデガルドにも使いを出す。エーミールはどこにいる」
「午後は厩の方へ。馬具の点検を見に行くと言っていました」
母が答える。
「戻ったら書斎へ」
「ええ」
リーゼロッテは顔を上げる。
「お兄様たちにも?」
「無論だ。知らせる」
父は当然のように言う。
「これはお前一人の恥ではない。エーレンフェルト家が侮られたということだ。家族が知らずに外で笑っていられる話ではない」
「ヒルデガルドは放っておいても社交で耳にするでしょうね」
母の声は落ち着いている。
「マルヴィン伯爵夫人の温室で起きたことなら、夕方にはいくつかの家へ届きます。あの子が下手によそから聞く前に、こちらから知らせるべきです」
「アドルフは怒るだろうな。あいつは何をやらかすか」
「怒らせておけばいいわ。外へ出す前に、ここで怒らせます」
父が少しだけ口元を動かす。
「エーミールは――」
「あの子は、口を滑らせますから――」
母が即答する。
「では、最初に釘を刺す」
「ええ。でも、刺しても少し漏れます」
「なら、強めに刺す」
そのやりとりで、リーゼロッテは少しだけ笑いそうになった。父も母も、弟のことをよく分かっている、と。
彼女はようやく家の中に戻ってきた感覚になった。
ラドクリフ家では、誰が何を見ているのかが曖昧になって分からなくなっていた。椅子が足され、茶器が増え、呼び方が流されていった。
この家では違う。誰が怒るか。誰が社交で受け止めるか。誰が口を滑らせそうか。皆が分かっている。
「お父様、ウォルフにも、私から書きます」
父は少しだけ目を細める。
「今すぐか?」
「……婚約が正式にどう動くかは、侯爵からの返答を待ちます。でも、社交で先に耳に入るかもしれません。あの人にはきちんと、私から知らせたいのです」
母は何も言わずにリーゼロッテを見、父もしばらく黙る。
ウォルフは、婚約が決まった時に身を引いた。王家の意向と家の責任を分かって、遠方の仕事へ行った。
リーゼロッテの婚約者の近くで、馴れ馴れしい幼なじみの顔をしないために。
そうやってけじめをつけてくれた人が、よそからの噂であれこれ気を回すのは嫌だった。
「よし、書け」
父が言う。
「ただし、婚約破棄が決まったようには書くな」
「はい」
「あくまで事実だけを書け。王家の意向を受けた婚約について、ラドクリフ家との間で重大な確認事項が生じた。ヴァルトハイム侯爵へ報告する。自分は無事で、家にいる。それで足りる」
「分かりました」
「ロッテと呼ばれても、返事はまだするな」
急にそんなことを言われ、リーゼロッテは思わず目を開き、父を見た。母が、今度こそ少し笑う。
「あなた」
「順番の話だ」
父は真顔だ。
「ウォルフは分かっているだろうが、こちらも分かっていると示す」
「はい」
リーゼロッテはうなずく。
「まだ、私はリーゼロッテ・エーレンフェルトです」
「そうだ」
父は静かに答える。
「お前のことは、その名をもって守る」
ちょうど話の区切りの良いところで、ハルトマンが、書き足した草案を父へ差し出し、父は受け取り、目を通す。母も横から読む。リーゼロッテは机の向こうに立ったまま、文面の一部だけを追った。
――王家のご意向を受け、ヴァルトハイム侯爵家のご調整により進められた婚約。
――ラドクリフ家における婚礼準備の部屋の使用状況。
――未婚女性アネット・カーライル嬢の滞在。
――婚約者の席次変更。
――マルヴィン伯爵夫人の茶会における同伴者変更。
このように言葉になると、出来事は逃げにくくなる。
父は最後まで読み、ペンを取る。
「よし、これでよい」
署名が入る。
ウィリバルト・エーレンフェルト。
その文字を皆が見た瞬間、廊下の向こうから早い足音が近づいてきた。直後、扉が叩かれる。
「父上、戻りました! 何かあったと聞きましたが」
兄のアドルフの声だ。母がリーゼロッテを見る。
「早いわね」
「玄関で聞いたのでしょう」
父は書状をハルトマンへ渡す。
「入れ」
扉が開き、アドルフが入ってくる。外套を脱ぐ暇もなかったのか、肩にまだ外の風を乗せていた。
そしてリーゼロッテを見る目が、すぐに険しくなる。
「リーゼ! 何をされた?」
第一声がそれだ。父が椅子から立ち上がる。
「順に話す。座れ」
「座って聞ける話ですか!」
「だから座れ」
アドルフは一瞬だけ父を見、乱暴にはならない程度の速さで椅子を引く。母がアニーへ目配せする。
「エーミールが戻ったら、こちらへ。ヒルデガルドには使いを」
「かしこまりました」
アニーが下がり、書斎の扉が閉まる。
父は机の上に、マルヴィン伯爵夫人の手紙を置く。
「三度目が起きた」
アドルフの表情が歪む。
リーゼロッテは、また同じ話の準備をする。
部屋――返却――茶会。
三つを並べれば、もう「分かってくれると思った」では済まない。




