15 家族は怒り方を決定する
アドルフは椅子に座りはしたが、落ち着かないのか、背もたれに体を預ける様子はない。
膝に片肘を置き、机の上の手紙を見ている。外套の留め具もそのままで、肩に乗った外の冷気が、書斎の暖炉の前でもまだ消えない。
「三度目、ですか。確か、一度目は、リーゼの婚礼準備の部屋に、アネット・カーライル嬢を寝かせ、二度目は、その部屋を返す約束をした翌日にも、カーライル嬢の私物を残し、ヒューバートが移動を止めたのでしたね。婚礼準備の部屋に置いた他家の令嬢の私物を、若旦那になる奴が守ったわけですか」
「そうなるな」
「で、三度目が茶会と!」
アドルフはマルヴィン伯爵夫人の手紙へ目を落とす。
「なるほど、そもそもリーゼの名で席が取られていたのに、あの若旦那野郎は知らせもなく同伴者を静養中のカーライル嬢に変えたと。王家筋に近いご婦人の茶会っていうのに。しかもそこで愛称も口にした、と」
「そうだ」
「なるほど」
兄は静かに言う。
「……殴って済む話なら楽でしたな」
「アドルフ」
母の声が飛ぶ。
「はいはい、分かっています。殴りません」
「全然分かっているように聞こえないわ」
「では、言い換えます」
アドルフは姿勢を正す。
「殴る価値すらないですよ、これは」
母は目を伏せ、父の口元がわずかに動く。
「言葉は選べ、アドルフ」
「選んでおりますが」
「まだ、雑だぞ」
「これからせいぜい努力します」
リーゼロッテはそのやりとりを聞きながら、ようやく少し息がつける思いだった。
ラドクリフ家では、誰も言葉を引き受けようとしなかった。
ヒューバートは、分かってくれると思っていた、と言い、アネットは、そんなつもりでは、と言った。
誰も、何をしたかを自分の責任にしない。
けど、この家では違う。兄は怒るし、母はそれを止め、父は順番を決める。
怒りはきちんと、家の中で場所を持つのだ。
*
それからしばらくして、扉が叩かれた。「入って」と母が言う。
「お父様、お母様。リーゼ。アドルフ」
「ヒルデ」
入ってきたのは、姉ヒルデガルドだった。
結婚して家を出ているが、実家へ来る時の動きは今も迷いがない。
濃い灰青の外出着に、黒い羽根飾りの帽子。頬には少し寒さの色が残っている。使いを受けて、そのまますぐに馬車に飛び乗ったのだろう。
母は立ち上がり、姉はそこへ頬を寄せ、それからリーゼロッテの前へ来る。
「ああもう、さあちゃんと、顔を見せて頂戴、リーゼ」
「お姉様……!」
リーゼロッテは顔を上げた。
姉はリーゼロッテの目元を見、頬を見て、髪飾りの位置まで見る。身支度が乱れているか、泣いた跡があるか、、茶会でどれほど消耗したか。彼女はそういうところに目敏い。
「うん、よし!」
「何がですか」
「顔はしゃんとしてる。崩れていないわ!」
姉はそう言い、すぐ父へ向く。
「お父様、道中でだいたい聞きました。マルヴィン伯爵夫人の温室で、ヒューバート・ラドクリフがアネット・カーライルを同伴したと」
「さすがヒルダ、お前の耳は早いな」
父が言う。
「社交の話は、馬より速く走りますのよ」
姉は椅子に座る前に、手袋を外す。アニーが受け取り、椅子の横へ控える。姉は机の上の手紙を見る。
「で、出席者は?」
最初の問いがそれだった。アドルフが顔を上げる。
「お前はそこからか」
「そこからよ。誰が見たかで、明日の噂の形が変わるもの」
姉はリーゼロッテを見る。
「覚えている限りでいいわ。温室にいたご婦人方の顔ぶれを」
リーゼロッテは一人ずつ思い出す。
「マルヴィン伯爵夫人、ロイテン子爵夫人、グライスナー男爵夫人…… 王弟殿下妃の侍女を務めたことのある老婦人もいらしたわ。あと、慈善音楽会の準備で顔を合わせたルッツ伯爵令嬢。ほかにも数人」
姉は聞きながら、頭の中で何かしらの図を作っているかのようだった。
「一連の流れの中で、扇を閉じた人は居て?」
「お姉様」
「これは大事よ」
姉は真顔だ。
「誰が驚き、誰が呆れ、誰が面白がり、誰が黙って味方するか。扇の動きでだいたい分かるわ」
リーゼロッテは少し考える。
「そう言えば、ヒューバート様が、そこまで言うことか、とおっしゃった時、マルヴィン伯爵夫人の扇が止まりました」
「止まった」
「ええ。閉じる前に」
「なるほど、それは強いわ」
姉はうなずく。
「夫人は、場を乱した人を見たのよ。カーライル嬢《《ではなく》》、ヒューバート様を」
母が静かに頷く。
「ええ。夫人は、席を替えるならまず婚約者へ話すべきだった、とおっしゃったわ」
「すばらしい!」
姉は短く言う。
「明日、こちらが何もしなくても、その言葉は残りますわ。けれど、こちらが何もしないと、ラドクリフ家は若い二人の行き違いに戻してきますね」
「父上も同じことを言っていたな」
アドルフが言う。
「当然よ。戻したいでしょうから」
姉は手紙へ目を落とす。
「『病弱な男爵令嬢を助けた優しい後継者』『堅い婚約者が少し嫉妬した』。そういう話にすれば、耳当たりがいいもの」
リーゼロッテは手の指を膝の上で重ねる。
「嫉妬などでは決してありません!」
「分かっているわ」
姉はすぐ答える。
「だから、その言葉を先に潰すのよ。《《リーゼが嫉妬した話》》ではなく、《《ラドクリフ家が婚約者の席を扱い損ねた話》》にする」
父が満足そうに息を吐く。
「ヒルデ、明日の午後までに、誰がどう受け取るか確認できるか?」
「無論」
姉はすぐに答える。
「マルヴィン伯爵夫人は立場上、こちらへ肩入れしすぎる形は取らないでしょう。ただ、席次の記録と、同伴者変更のカードは残してくださるはずです。ロイテン子爵夫人は話好きですが、嘘は混ぜません。グライスナー男爵夫人は、娘の縁談に敏感ですから、未婚女性を連れ歩いた件を重く見るでしょう」
「王弟殿下妃の周辺は?」
「自然に届きます。こちらからわざわざ押し込む必要はありません」
「よし」
父は頷く。
「それではエーレンフェルト家からは、ヴァルトハイム侯爵へ正式報告を出す。お前たちはそれ以上のことは、社交で言いふらすな」
「承知しました」
姉は答える。
「ただし、聞かれたら答えますわ」
「どのくらの範囲に?」
「事実だけです。婚礼準備の部屋に客人が入り、返却が遅れ、茶会で同伴者が変更された。エーレンフェルト家は、ヴァルトハイム侯爵へ確認をお願いした。リーゼはちゃんと、家におります。以上です」
母が言う。
「アネット嬢については」
「何も」
姉は少しだけ肩を竦める。
「あの方を責める必要など、ありませんもの。《《静養中の方が茶会へ出ていた》》、という事実だけで足ります」
アドルフが低く笑う。
「さすが、怖いな」
「殴るより上品でしょう」
「否定はしないさ」
そしてまた扉が叩かれる。今度は返事を待つ前に、少しだけ開いた。
「父上! 姉上が戻ったって本当ですか!? あと、ラドクリフの馬鹿が何か!」
「エーミール!」
父の声が落ちる。扉の隙間で、弟のエーミールが固まった。
彼はまだ十六で、背は伸びてきたが、顔には少年らしさが残っている。
厩から戻ったばかりらしく、上着の袖に藁が一本ついているが、当の本人は気づいていない。
「入れ。まずは扉を閉めろ」
「はい!」
エーミールは急いで入ってきて、扉を閉める。それから姉を見て、兄を見て、リーゼロッテを見る。
「リーゼ姉上」
「エーミール」
「何をされたんですか!?」
兄と同じことを言うな、とリーゼロッテは少し笑いそうになる。
だが、エーミールの顔は本気だ。若い怒りが、そのまま目に出ている。
「エーミール、まずは座りなさい」
母が言う。
「でも」
「座ってから怒りなさい」
エーミールは椅子に座る。だが座った瞬間、また立ちそうになる。
「落ち着け、まずは聞け」
今度は父が言う。
「はい」
父は、三つの出来事を短く話す。部屋、返却、茶会。
言葉を削っても、内容は削れない。
エーミールの顔は、話が進むにつれて分かりやすく変わった。最初は驚き、次に怒り、それから理解が追いつかない、という顔になる。
「姉上の部屋に、別の女が寝たぁ? 気持ち悪い」
「そうだ」
「それで、その荷物を向こうの若旦那ってのが守っちゃって?」
「……そうだ」
「そのあと、姉上の席だった茶会に、その女を連れて?」
「そうだ!」
エーミールは両手で顔を覆う。
「僕にはさっぱり意味が分からないよ!」
「分からなくていいわよ」
ため息をつきながら、姉が言う。
「分かる必要があるのは、こちらの対応です」
母も言う。
「いや、でも、そんなの」
エーミールは顔から手を離す。
「向こうの人、ただの馬鹿じゃないですか?」
書斎が一瞬だけ静まる。父が咳払いをする。
「……エーミール…… 言葉を選べ」
「兄上も思ってるでしょう?」
「思っていても言うな」
アドルフが横を向く。
「おい、何でそこで俺を見る」
「思っている顔じゃないですか!」
「顔だけなら許されるんだ」
「ずるい!」
母が額に指を当てる。
「……エーミール」
「あ、はい」
「あなたに一番大事なことを言いますから、よーく聞きなさい」
「はい!」
「外で言わないこと」
「はい」
「厩でも言わないのよ」
「……はい」
「馬丁に聞かれても、馬に向かっても言わないの」
「馬は言いふらしませんよ……」
「馬丁が聞きます」
「あ、はい!」
姉が扇で口元を隠し、笑っている。父は真面目な顔のまま続ける。
「エーミール、お前は怒るのはいい。だが、怒りを外へ投げるな。投げた瞬間、ラドクリフ家は『エーレンフェルト家の弟が騒いでいる』という話にする」
「えええ、そんなぁ」
「するんだよ、向こうに都合のいい話にな」
兄の言葉に、エーミールは唇を噛む。
「では、僕は何をすればいいんですか」
「まず黙れ」
父が言う。
「それから、リーゼを守るんだ」
「もちろん、それはします!」
「守るとは、剣を持って飛び出すことではない」
「持ってませんし」
「持っていたらお前は出るだろう?」
「……少しだけ」
母がすぐ言う。
「少しでもだめですよ」
「はい」
父は机の上の書状を示す。
「この件は、家として扱う。ヴァルトハイム侯爵へ報告を出す。侯爵からの返答が来るまで、こちらは言葉をきっちり整理する。アドルフ、お前は男たちの場で聞かれても、『事実確認中』とだけ答えろ」
「はい、承知しました」
「ヒルデ、お前は社交で、先ほど言った範囲を守れ」
「ええ、わかりました」
「エーミール、お前は何も答えるな」
「……僕だけ少なくないですか」
「お前が一番危ないだろう」
全員が同時にうなずき、エーミールはぶすっと傷ついた顔をする。
「姉上まで~」
「ごめんなさいね」
リーゼロッテは言う。
「でも、あなた少し危ないから」
「でも、少しなら」
「かなり、だ」
アドルフが足す。
「兄上~」
「本当のことだろ」
エーミールは椅子の背に沈む。
「分かりましたー。黙ります。厩でも黙ります。馬にも言いません」
「そうそれで、よろしい」
母が言う。
そこでようやく、場が少しだけ緩む。
ハルトマンが新しい茶を運ばせ、書斎に茶器が並ぶ。今度の茶器は人数分だ。父、母、兄、姉、弟、リーゼロッテ。ハルトマンは控え、アニーがリーゼロッテの後ろに立つ。
六客の茶器が机の脇の小卓に並んでいる。その数は誰も迷わない。
姉がカップを取る。
「リーゼ」
「はい」
「あなたは、今日の茶会で十分に言いました。明日からは、こちらが言う番です」
「私も、必要なら」
「必要な時は言うの。でも、毎回あなたが前に出る必要はないわ」
兄が頷く。
「そうだ。相手はもう、リーゼ一人に甘えられる段階を過ぎた」
「甘え、なの?」
エーミールが嫌そうに繰り返す。
「気持ち悪い~」
「外で言わないのよ」
母が即座に言う。
「はい」
そして父は茶を置くと。
「リーゼ」
「はい」
「ウォルフへの手紙は、今夜すぐに書け。内容は先ほど言った通りだ。事実だけ。婚約破棄が決まったとは書かない」
「承知しております」
姉が少しだけ目を細める。
「ウォルフに?」
「ええ、知らせます。よそから聞かせたくありません」
「それがいいわ。彼ですもの」
姉は言う。
「報告書は今夜のうちに清書だ。明朝、ヴァルトハイム侯爵家へ届ける」
「承知いたしました」
「ラドクリフ家へは、侯爵への報告を済ませた後でよい。先に知らせて言い訳を揃えさせる必要はない」
「そのように」
そして母が続ける。
「マルヴィン伯爵夫人へは、短い礼状を。お心配りへの感謝と、当家より侯爵へ確認をお願いする旨だけ」
「かしこまりました」
姉が言う。
「私からも、夫の家へ伝えます。余計な噂として入る前に、実家より確認中と」
「頼む」
父が答える。兄は腕を組み、しばらく黙っている。
「――父上」
「何だ」
「ラドクリフ家が、ヒューバート《《個人の》》判断として切ってくる可能性は」
「ある。かなりの確率で」
「その場合、当主の責任も残しますね」
「当然だ」
父はすぐ答える。
「一度目と二度目は屋敷内で起きた。当主夫妻が知らなかったでは済まない。三度目は、本人の判断が大きいとしても、婚約者の席を軽んじた事実は変わらない」
「分かりました」
アドルフはうなずく。
「では、こちらはヒューバートだけを相手にしなくてもいいんですね」
「そうだ。《《ラドクリフ家を》》相手にする」
その言葉で、書斎の空気がまた引き締まる。
ふと、リーゼロッテの中に、ヒューバートの困った顔が浮かんだ。
彼は、きっと今も分かっていない。アネットを少し元気づけようとしただけだと、リーゼロッテが分かってくれなかったと、そして自分は優しさを示しただけだと考えている。
だが、もう彼の気持ちだけの話ではない。
ラドクリフ家が、どう扱ったか、エーレンフェルト家が、どう受けたか。
王家の意向を調整した侯爵家が、どう見るか。
そこへ話は移っている。
「リーゼ姉様」
エーミールが小さく呼ぶ。
「なあに」
「僕、本当に黙ってますから」
「ええ」
「でも、ここでは言っていいですか?」
父が少し目を細める。
「一言だけなら許す」
エーミールはまっすぐリーゼロッテを見る。
「姉上の席を取るなんて、本当に馬鹿です」
母が息を吸う。父が止める前に、姉が笑った。
「今の一言だけなら、許すわ」
アドルフも低く笑う。
「珍しく正確だ」
父は少しだけ天井を見てから、諦めたように茶を取る。
「……外では言うな」
「はい」
リーゼロッテは、今度は笑う。少しだけ。けれど、ちゃんと笑える。
家族がいる。怒りをそのまま外へ投げるのではなく、言葉にして、順番にして、家の力へ変える人たちがいる。
「では決める」
全員がカップを置いた父を見る。
「明朝、ヴァルトハイム侯爵へ報告を出す。返答が来るまで、婚礼準備は停止。南棟二階の確認も止める。ラドクリフ家から接触があれば、すべて書面で受ける。ヒューバートからリーゼへの私信は、開封前に母かハルトマンへ回す」
「承知しました」
リーゼロッテは答える。
「アネット・カーライル嬢については、こちらから触れない。彼女を責める言葉は出さない。あくまで、ラドクリフ家が婚約者の席をどう扱ったかを見る」
姉が頷く。
「その方が強いです」
「ウォルフへの手紙は、リーゼが今夜書く」
「はい」
「家族は全員、同じ説明を使う。部屋、返却、茶会。この三つだ」
父はそう言って、机の上の手紙をまとめる。三つ。
一度目、部屋。二度目、返却。三度目、茶会。
並べると、出来事はただの騒ぎではなくなる。
リーゼロッテは自分の席に座り、茶を飲む。
書斎の中には、六人分のカップがある。誰の前にどのカップが置かれているか、誰も迷わない。
そのことが、今はとてもありがたかった。




