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私が使うはずだった部屋に病弱令嬢を寝かせた婚約者とは、白紙に戻します  作者: さんけい


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15/35

15 家族は怒り方を決定する

 アドルフは椅子に座りはしたが、落ち着かないのか、背もたれに体を預ける様子はない。

 膝に片肘を置き、机の上の手紙を見ている。外套の留め具もそのままで、肩に乗った外の冷気が、書斎の暖炉の前でもまだ消えない。


「三度目、ですか。確か、一度目は、リーゼの婚礼準備の部屋に、アネット・カーライル嬢を寝かせ、二度目は、その部屋を返す約束をした翌日にも、カーライル嬢の私物を残し、ヒューバートが移動を止めたのでしたね。婚礼準備の部屋に置いた他家の令嬢の私物を、若旦那になる奴が守ったわけですか」

「そうなるな」

「で、三度目が茶会と!」


 アドルフはマルヴィン伯爵夫人の手紙へ目を落とす。


「なるほど、そもそもリーゼの名で席が取られていたのに、あの若旦那野郎は知らせもなく同伴者を静養中のカーライル嬢に変えたと。王家筋に近いご婦人の茶会っていうのに。しかもそこで愛称も口にした、と」

「そうだ」

「なるほど」


 兄は静かに言う。


「……殴って済む話なら楽でしたな」

「アドルフ」


 母の声が飛ぶ。


「はいはい、分かっています。殴りません」

「全然分かっているように聞こえないわ」

「では、言い換えます」


 アドルフは姿勢を正す。


「殴る価値すらないですよ、これは」


 母は目を伏せ、父の口元がわずかに動く。


「言葉は選べ、アドルフ」

「選んでおりますが」

「まだ、雑だぞ」

「これからせいぜい努力します」


 リーゼロッテはそのやりとりを聞きながら、ようやく少し息がつける思いだった。

 ラドクリフ家では、誰も言葉を引き受けようとしなかった。

 ヒューバートは、分かってくれると思っていた、と言い、アネットは、そんなつもりでは、と言った。

 誰も、何をしたかを自分の責任にしない。

 けど、この家では違う。兄は怒るし、母はそれを止め、父は順番を決める。

 怒りはきちんと、家の中で場所を持つのだ。


 *


 それからしばらくして、扉が叩かれた。「入って」と母が言う。


「お父様、お母様。リーゼ。アドルフ」

「ヒルデ」


 入ってきたのは、姉ヒルデガルドだった。

 結婚して家を出ているが、実家へ来る時の動きは今も迷いがない。

 濃い灰青の外出着に、黒い羽根飾りの帽子。頬には少し寒さの色が残っている。使いを受けて、そのまますぐに馬車に飛び乗ったのだろう。

 母は立ち上がり、姉はそこへ頬を寄せ、それからリーゼロッテの前へ来る。


「ああもう、さあちゃんと、顔を見せて頂戴、リーゼ」

「お姉様……!」


 リーゼロッテは顔を上げた。

 姉はリーゼロッテの目元を見、頬を見て、髪飾りの位置まで見る。身支度が乱れているか、泣いた跡があるか、、茶会でどれほど消耗したか。彼女はそういうところに目敏い。


「うん、よし!」

「何がですか」

「顔はしゃんとしてる。崩れていないわ!」


 姉はそう言い、すぐ父へ向く。


「お父様、道中でだいたい聞きました。マルヴィン伯爵夫人の温室で、ヒューバート・ラドクリフがアネット・カーライルを同伴したと」

「さすがヒルダ、お前の耳は早いな」


 父が言う。


「社交の話は、馬より速く走りますのよ」


 姉は椅子に座る前に、手袋を外す。アニーが受け取り、椅子の横へ控える。姉は机の上の手紙を見る。


「で、出席者は?」


 最初の問いがそれだった。アドルフが顔を上げる。


「お前はそこからか」

「そこからよ。誰が見たかで、明日の噂の形が変わるもの」


 姉はリーゼロッテを見る。


「覚えている限りでいいわ。温室にいたご婦人方の顔ぶれを」


 リーゼロッテは一人ずつ思い出す。


「マルヴィン伯爵夫人、ロイテン子爵夫人、グライスナー男爵夫人…… 王弟殿下妃の侍女を務めたことのある老婦人もいらしたわ。あと、慈善音楽会の準備で顔を合わせたルッツ伯爵令嬢。ほかにも数人」


 姉は聞きながら、頭の中で何かしらの図を作っているかのようだった。


「一連の流れの中で、扇を閉じた人は居て?」

「お姉様」

「これは大事よ」


 姉は真顔だ。


「誰が驚き、誰が呆れ、誰が面白がり、誰が黙って味方するか。扇の動きでだいたい分かるわ」


 リーゼロッテは少し考える。


「そう言えば、ヒューバート様が、そこまで言うことか、とおっしゃった時、マルヴィン伯爵夫人の扇が止まりました」

「止まった」

「ええ。閉じる前に」

「なるほど、それは強いわ」


 姉はうなずく。


「夫人は、場を乱した人を見たのよ。カーライル嬢《《ではなく》》、ヒューバート様を」


 母が静かに頷く。


「ええ。夫人は、席を替えるならまず婚約者へ話すべきだった、とおっしゃったわ」

「すばらしい!」


 姉は短く言う。


「明日、こちらが何もしなくても、その言葉は残りますわ。けれど、こちらが何もしないと、ラドクリフ家は若い二人の行き違いに戻してきますね」

「父上も同じことを言っていたな」


 アドルフが言う。


「当然よ。戻したいでしょうから」


 姉は手紙へ目を落とす。


「『病弱な男爵令嬢を助けた優しい後継者』『堅い婚約者が少し嫉妬した』。そういう話にすれば、耳当たりがいいもの」


 リーゼロッテは手の指を膝の上で重ねる。


「嫉妬などでは決してありません!」

「分かっているわ」


 姉はすぐ答える。


「だから、その言葉を先に潰すのよ。《《リーゼが嫉妬した話》》ではなく、《《ラドクリフ家が婚約者の席を扱い損ねた話》》にする」


 父が満足そうに息を吐く。


「ヒルデ、明日の午後までに、誰がどう受け取るか確認できるか?」

「無論」


 姉はすぐに答える。


「マルヴィン伯爵夫人は立場上、こちらへ肩入れしすぎる形は取らないでしょう。ただ、席次の記録と、同伴者変更のカードは残してくださるはずです。ロイテン子爵夫人は話好きですが、嘘は混ぜません。グライスナー男爵夫人は、娘の縁談に敏感ですから、未婚女性を連れ歩いた件を重く見るでしょう」

「王弟殿下妃の周辺は?」

「自然に届きます。こちらからわざわざ押し込む必要はありません」

「よし」


 父は頷く。


「それではエーレンフェルト家からは、ヴァルトハイム侯爵へ正式報告を出す。お前たちはそれ以上のことは、社交で言いふらすな」

「承知しました」


 姉は答える。


「ただし、聞かれたら答えますわ」

「どのくらの範囲に?」

「事実だけです。婚礼準備の部屋に客人が入り、返却が遅れ、茶会で同伴者が変更された。エーレンフェルト家は、ヴァルトハイム侯爵へ確認をお願いした。リーゼはちゃんと、家におります。以上です」


 母が言う。


「アネット嬢については」

「何も」


 姉は少しだけ肩を竦める。


「あの方を責める必要など、ありませんもの。《《静養中の方が茶会へ出ていた》》、という事実だけで足ります」


 アドルフが低く笑う。


「さすが、怖いな」

「殴るより上品でしょう」

「否定はしないさ」


 そしてまた扉が叩かれる。今度は返事を待つ前に、少しだけ開いた。


「父上! 姉上が戻ったって本当ですか!? あと、ラドクリフの馬鹿が何か!」

「エーミール!」


 父の声が落ちる。扉の隙間で、弟のエーミールが固まった。

 彼はまだ十六で、背は伸びてきたが、顔には少年らしさが残っている。

 厩から戻ったばかりらしく、上着の袖に藁が一本ついているが、当の本人は気づいていない。


「入れ。まずは扉を閉めろ」

「はい!」


 エーミールは急いで入ってきて、扉を閉める。それから姉を見て、兄を見て、リーゼロッテを見る。


「リーゼ姉上」

「エーミール」

「何をされたんですか!?」


 兄と同じことを言うな、とリーゼロッテは少し笑いそうになる。

 だが、エーミールの顔は本気だ。若い怒りが、そのまま目に出ている。


「エーミール、まずは座りなさい」


 母が言う。


「でも」

「座ってから怒りなさい」


 エーミールは椅子に座る。だが座った瞬間、また立ちそうになる。


「落ち着け、まずは聞け」


 今度は父が言う。


「はい」


 父は、三つの出来事を短く話す。部屋、返却、茶会。

 言葉を削っても、内容は削れない。

 エーミールの顔は、話が進むにつれて分かりやすく変わった。最初は驚き、次に怒り、それから理解が追いつかない、という顔になる。


「姉上の部屋に、別の女が寝たぁ? 気持ち悪い」

「そうだ」

「それで、その荷物を向こうの若旦那ってのが守っちゃって?」

「……そうだ」

「そのあと、姉上の席だった茶会に、その女を連れて?」

「そうだ!」


 エーミールは両手で顔を覆う。


「僕にはさっぱり意味が分からないよ!」

「分からなくていいわよ」


 ため息をつきながら、姉が言う。


「分かる必要があるのは、こちらの対応です」


 母も言う。


「いや、でも、そんなの」


 エーミールは顔から手を離す。


「向こうの人、ただの馬鹿じゃないですか?」


 書斎が一瞬だけ静まる。父が咳払いをする。


「……エーミール…… 言葉を選べ」

「兄上も思ってるでしょう?」

「思っていても言うな」


 アドルフが横を向く。


「おい、何でそこで俺を見る」

「思っている顔じゃないですか!」

「顔だけなら許されるんだ」

「ずるい!」


 母が額に指を当てる。


「……エーミール」

「あ、はい」

「あなたに一番大事なことを言いますから、よーく聞きなさい」

「はい!」

「外で言わないこと」

「はい」

「厩でも言わないのよ」

「……はい」

「馬丁に聞かれても、馬に向かっても言わないの」

「馬は言いふらしませんよ……」

「馬丁が聞きます」

「あ、はい!」


 姉が扇で口元を隠し、笑っている。父は真面目な顔のまま続ける。


「エーミール、お前は怒るのはいい。だが、怒りを外へ投げるな。投げた瞬間、ラドクリフ家は『エーレンフェルト家の弟が騒いでいる』という話にする」

「えええ、そんなぁ」

「するんだよ、向こうに都合のいい話にな」


 兄の言葉に、エーミールは唇を噛む。


「では、僕は何をすればいいんですか」

「まず黙れ」


 父が言う。


「それから、リーゼを守るんだ」

「もちろん、それはします!」

「守るとは、剣を持って飛び出すことではない」

「持ってませんし」

「持っていたらお前は出るだろう?」

「……少しだけ」


 母がすぐ言う。


「少しでもだめですよ」

「はい」


 父は机の上の書状を示す。


「この件は、家として扱う。ヴァルトハイム侯爵へ報告を出す。侯爵からの返答が来るまで、こちらは言葉をきっちり整理する。アドルフ、お前は男たちの場で聞かれても、『事実確認中』とだけ答えろ」

「はい、承知しました」

「ヒルデ、お前は社交で、先ほど言った範囲を守れ」

「ええ、わかりました」

「エーミール、お前は何も答えるな」

「……僕だけ少なくないですか」

「お前が一番危ないだろう」


 全員が同時にうなずき、エーミールはぶすっと傷ついた顔をする。


「姉上まで~」

「ごめんなさいね」


 リーゼロッテは言う。


「でも、あなた少し危ないから」

「でも、少しなら」

「かなり、だ」


 アドルフが足す。


「兄上~」

「本当のことだろ」


 エーミールは椅子の背に沈む。


「分かりましたー。黙ります。厩でも黙ります。馬にも言いません」

「そうそれで、よろしい」


 母が言う。

 そこでようやく、場が少しだけ緩む。

 ハルトマンが新しい茶を運ばせ、書斎に茶器が並ぶ。今度の茶器は人数分だ。父、母、兄、姉、弟、リーゼロッテ。ハルトマンは控え、アニーがリーゼロッテの後ろに立つ。

 六客の茶器が机の脇の小卓に並んでいる。その数は誰も迷わない。

 姉がカップを取る。


「リーゼ」

「はい」

「あなたは、今日の茶会で十分に言いました。明日からは、こちらが言う番です」

「私も、必要なら」

「必要な時は言うの。でも、毎回あなたが前に出る必要はないわ」


 兄が頷く。


「そうだ。相手はもう、リーゼ一人に甘えられる段階を過ぎた」

「甘え、なの?」


 エーミールが嫌そうに繰り返す。


「気持ち悪い~」

「外で言わないのよ」


 母が即座に言う。


「はい」


 そして父は茶を置くと。


「リーゼ」

「はい」

「ウォルフへの手紙は、今夜すぐに書け。内容は先ほど言った通りだ。事実だけ。婚約破棄が決まったとは書かない」

「承知しております」


 姉が少しだけ目を細める。


「ウォルフに?」

「ええ、知らせます。よそから聞かせたくありません」

「それがいいわ。彼ですもの」


 姉は言う。


「報告書は今夜のうちに清書だ。明朝、ヴァルトハイム侯爵家へ届ける」

「承知いたしました」

「ラドクリフ家へは、侯爵への報告を済ませた後でよい。先に知らせて言い訳を揃えさせる必要はない」

「そのように」


 そして母が続ける。


「マルヴィン伯爵夫人へは、短い礼状を。お心配りへの感謝と、当家より侯爵へ確認をお願いする旨だけ」

「かしこまりました」


 姉が言う。


「私からも、夫の家へ伝えます。余計な噂として入る前に、実家より確認中と」

「頼む」


 父が答える。兄は腕を組み、しばらく黙っている。


「――父上」

「何だ」

「ラドクリフ家が、ヒューバート《《個人の》》判断として切ってくる可能性は」

「ある。かなりの確率で」

「その場合、当主の責任も残しますね」

「当然だ」


 父はすぐ答える。


「一度目と二度目は屋敷内で起きた。当主夫妻が知らなかったでは済まない。三度目は、本人の判断が大きいとしても、婚約者の席を軽んじた事実は変わらない」

「分かりました」


 アドルフはうなずく。


「では、こちらはヒューバートだけを相手にしなくてもいいんですね」

「そうだ。《《ラドクリフ家を》》相手にする」


 その言葉で、書斎の空気がまた引き締まる。

 ふと、リーゼロッテの中に、ヒューバートの困った顔が浮かんだ。

 彼は、きっと今も分かっていない。アネットを少し元気づけようとしただけだと、リーゼロッテが分かってくれなかったと、そして自分は優しさを示しただけだと考えている。

 だが、もう彼の気持ちだけの話ではない。

 ラドクリフ家が、どう扱ったか、エーレンフェルト家が、どう受けたか。

 王家の意向を調整した侯爵家が、どう見るか。

 そこへ話は移っている。


「リーゼ姉様」


 エーミールが小さく呼ぶ。


「なあに」

「僕、本当に黙ってますから」

「ええ」

「でも、ここでは言っていいですか?」


 父が少し目を細める。


「一言だけなら許す」


 エーミールはまっすぐリーゼロッテを見る。


「姉上の席を取るなんて、本当に馬鹿です」


 母が息を吸う。父が止める前に、姉が笑った。


「今の一言だけなら、許すわ」


 アドルフも低く笑う。


「珍しく正確だ」


 父は少しだけ天井を見てから、諦めたように茶を取る。


「……外では言うな」

「はい」


 リーゼロッテは、今度は笑う。少しだけ。けれど、ちゃんと笑える。

 家族がいる。怒りをそのまま外へ投げるのではなく、言葉にして、順番にして、家の力へ変える人たちがいる。


「では決める」


 全員がカップを置いた父を見る。


「明朝、ヴァルトハイム侯爵へ報告を出す。返答が来るまで、婚礼準備は停止。南棟二階の確認も止める。ラドクリフ家から接触があれば、すべて書面で受ける。ヒューバートからリーゼへの私信は、開封前に母かハルトマンへ回す」

「承知しました」


 リーゼロッテは答える。


「アネット・カーライル嬢については、こちらから触れない。彼女を責める言葉は出さない。あくまで、ラドクリフ家が婚約者の席をどう扱ったかを見る」


 姉が頷く。


「その方が強いです」

「ウォルフへの手紙は、リーゼが今夜書く」

「はい」

「家族は全員、同じ説明を使う。部屋、返却、茶会。この三つだ」


 父はそう言って、机の上の手紙をまとめる。三つ。

 一度目、部屋。二度目、返却。三度目、茶会。

 並べると、出来事はただの騒ぎではなくなる。

 リーゼロッテは自分の席に座り、茶を飲む。

 書斎の中には、六人分のカップがある。誰の前にどのカップが置かれているか、誰も迷わない。

 そのことが、今はとてもありがたかった。


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