16 これは恋の揉め事ではありません
午前の書見室に、エーレンフェルト家の封蝋を押した書状が届いた。
ヴァルトハイム侯爵夫人は、朝の茶を半分ほど残したまま、家令から銀盆を受け取る。
盆の上には封筒が一通だけでは収まらず、薄い紐でまとめられた写しが添えられている。
正式な報告書、確認状の写し、マルヴィン伯爵夫人からの書状。それぞれに小さな紙片が挟まれ、日付と要点が細く記されていた。
「これら全て、エーレンフェルト伯爵からでございます」
家令の言葉に、侯爵夫人は封蝋を見た。
「そうでしょうね。伯爵夫人からの私信では、この厚みにはなりません」
鋏で封を切る。飾りも香りもない。エーレンフェルト家らしい、ただ用件のための手紙だ。
最初の一枚目に、ウィリバルト・エーレンフェルトの名がある。
――ラドクリフ家子息ヒューバート殿と、我が娘リーゼロッテとの婚約に関し、貴家のご調整を仰いだ経緯を踏まえ、下記三件を正式に報告申し上げます。
侯爵夫人は、そこで一度、紙を置いた。
「三件――」
向かいの長椅子で新聞を広げていたヴァルトハイム侯爵は、妻の声に、紙面の上から顔を上げる。
「エーレンフェルトか」
「ええ。あなたもお読みになった方がよろしいわ」
侯爵は新聞を畳み、机の向かいに移る。侯爵夫人は一枚目を渡し、自分は控えの写しを読む。
一件目は、南棟二階の部屋の件。二件目は、その後の返却の件。
報告書は、物の名だけを淡々と並べている。
だが侯爵夫人からしてみれば、その並びだけで十分だった。
部屋は、空にすれば返ったことになる場所ではない。次に入る者が、前にいた女の匂いや飾りを片づけながら使う場所にされた時点で、もう婚約者の部屋として扱われていない。
「これは、家政婦長が止められた件だわ」
添えられたメモに、ミセス・ミュラーの名があった。アネット嬢の私物整理について、本人確認を待つようヒューバートが述べた、と短く記されている。
侯爵は眉間を揉む。
「本人確認、か」
「まあ、便利な言葉ですこと。決めるのは当主か、少なくとも部屋を管理する家の者です。客人の帽子に、婚約者の部屋を預けてどうするのです」
三件目は、マルヴィン伯爵夫人の茶会の件だった。侯爵夫人はそこはゆっくり、じっくり読む。
社交の場は、書面の行間に温度が残る。誰がどの席を用意され、誰が急に現れ、誰が何と呼び、誰が扇を閉じたか。
マルヴィン伯爵夫人の書状は、さすがに無駄がなかった。
当初、ヒューバート・ラドクリフの同伴者として予定されていた名は、リーゼロッテ・エーレンフェルト。少なくともマルヴィン伯爵夫人はそのつもりだった。婚約者をお連れなさい、と。
だが当日、ヒューバートはアネット・カーライルを伴い、彼女は温室でヒューバートを愛称の「ヒュー」と呼んだ。そしてリーゼロッテはその呼称を正し、ヒューバートは彼女に「そこまで言うことか」と返した。
そこまで読んで、侯爵夫人は大きく息を吸うと、椅子の背に身を預けた。
窓の外では庭師が薔薇の支柱を確かめている。初夏の花はまだ蕾で、色を持つ前の緑が庭の線を作っていた。
「貴方、これは恋の揉め事ではありませんね」
侯爵が紙から目を上げる。
「そうだな」
「若い令嬢が嫉妬して泣いた話にしたい方は、いるでしょう。けれど、これは部屋と席と呼び方です。どれも生活と家の扱いに属します」
侯爵夫人は、マルヴィン伯爵夫人の書状をもう一度机に置く。紙の端が、窓から入る風で少し浮いたので家令が文鎮を差し出し、彼女はそれを静かに乗せた。
「しかも三度。それも、屋敷の中で済ませられるうちに直さず、外へ持ち出した。マルヴィン夫人の前で!」
「あの方は、余計なことを書かないな」
「ええ。だから、この書状にあることは、もう余計では済まないということです」
侯爵は、報告書の一枚目に戻る。
王家の意向を受け、ヴァルトハイム家が婚約の調整に入った経緯。
ラドクリフ家にも、エーレンフェルト家にも、それぞれ確認を取ったこと。婚約は両家の合意によって進み、王家はその合意をよしとした。
その順番があるから、問題が起きた時も、まずここへ来る。
「エーレンフェルト伯は、順番を間違えていない」
「そういう家ですもの」
侯爵夫人は立ち上がり、机の横の小さな鈴を鳴らした。家令がすぐに近づく。
「書記を。ラドクリフ家へ照会状を出します。今日中に」
「承知いたしました」
「それから、マルヴィン伯爵夫人へは礼状を。事実確認への協力に感謝するとだけ。余計な感想はいりません」
「そのように」
家令が下がる。侯爵は、まだ報告書を読んでいる。南棟二階、返却、茶会。その三つが、乾いた筆致で並んでいるほど、かえって逃げ場がない。
「バーナード・ラドクリフは、どこまで知っていると思う」
侯爵夫人は少し考えた。
「部屋のことは知っているでしょう。返却の遅れも、たぶん。茶会は、まだ息子から都合のよい形で聞いているか、そもそも聞いていないか…… どちらにしても、今日知ることになります」
「まあ、奴は青くなるな」
「いいえ、青くなるだけでは困ります。当主の目の届く屋敷であの家は一度目と二度目を起こしています。三度目だけを息子の軽率で片づけてはいけません」
侯爵は低く息を吐いた。
「ヒューバートは、優しい青年だと聞いていた」
「優しいでしょうね。だけど、優しさの置き場所を間違えたのでしょう」
侯爵夫人は、アネット・カーライルの名がある箇所を指で押さえた。
男爵令嬢――静養中――病弱――居場所がない――助けを求めた。
そういう言葉は、人の善意を動かす。
けれど善意で動かした家具も、部屋も、使用人も、茶会の席も、どこかの家の持ち物であり、誰かの責任の中にある。
「弱い方を守ることと、婚約者の席を貸し出すことは同じではありません。そこを分けられない男に、家を預けるのは怖いわ」
「リーゼロッテ嬢は、何と言っている」
侯爵夫人は報告書の末尾を見る。そこには、茶会での発言が記録されていた。
――私は、家と王家のご意向を踏まえて、この婚約に礼を尽くすつもりでおりました。ですが、それは、私の席を誰かへ譲る約束ではありません。
「よく言ったものです」
侯爵夫人は、その一文を侯爵へ見せた。
「怒鳴りも泣きもせず、ここを言える娘なら、今回の件を恋の嫉妬へ落とすのは難しい、いえ、何より嫌でしょうね」
侯爵は短くうなずいた。
「照会状には、三点を分けて書く。南棟二階の使用経緯、返却遅延の理由、茶会への同伴者変更の経緯。それぞれ、誰が決め、誰が承認し、誰へ報告したか」
「期限は?」
「明後日の午前までに一次返答。必要なら、こちらへ来てもらう」
「ヒューバートだけではなく、バーナード卿本人を?」
「当然だ」
書記が入室し、筆記台の前に座る。
侯爵はゆっくり口述を始めた。相手の面目を保つ言い回しはあるが、逃げ道は置かない。
侯爵夫人は横で聞きながら、ときおり語を直す。
若い二人の行き違い、誤解、という言葉は入れてはならない。《《心情への配慮》》は最後、まず最初に事実を置くこと。
照会状の文面が整うころには朝の茶はすっかり冷めていたので、侯爵夫人はトレイへと戻した。
「これで、ラドクリフ家は選ばなくてはならなくなりますね」
侯爵が書面の末尾に署名する。
「何をだ」
「息子の優しさを守るのか、家の信用を守るのか」
家令が封蝋の支度をする。赤い蝋が落ち、ヴァルトハイム家の印が押される。
その日の昼前、照会状はラドクリフ家へ向かった。
*
ヴァルトハイム侯爵家へ報告書が出た日の午後、エーレンフェルト家の屋敷はまだ静かだった。
静か、というのは、誰も動かなかったという意味ではない。むしろその逆で、家令のハルトマンは写しの整理を終えると各所への使いを確認し、侍女のアニーはリーゼロッテの外出予定を一つずつ止め、母シュザンナは招待状の束を机に置いて、出る席と出ない席を分けている。
父ウィリバルトは、朝のうちに三人の子に同じことを言った。
「話すな、とは言わん。だが、同じ説明を使え」
部屋、返却、茶会の三つだけ。それ以外は、今は家の中で持つと。
*
アドルフがその晩顔を出したのは、いつもの小さなクラブだった。
若い貴族の長男や次男たちが、狩りの話だの馬の値だの、父親世代の面倒な会合だのについて、適当に愚痴をこぼすような場所である。
彼も入ってすぐ誰かの肩を叩き、まず一杯を空けてから席につくのが普通だった。だがその日は違った。
「よう、遅かったな、アドルフ。家で何かあったのか」
「まあな」
アドルフは答え、空いていた椅子に乱暴に腰を下ろす。酒杯は受け取るが、口をつける前に、テーブルへ置く。
それだけで、周りの男たちが少し黙る。
「……おい、珍しいな。飲まないのか」
「飲んだら、余計なことを言いそうでな」
冗談めかした声ではあるが、笑っていない。向かいの男が煙草を灰皿へ置いた。
「ラドクリフの件か?」
アドルフは、そこで初めて相手を見る。
「誰から聞いた」
「誰から、というほどの話じゃない。マルヴィン夫人の茶会に出ていた姉がいる奴が、二人ほどいる」
「ああ」
アドルフは短く言い、酒杯の縁を指で回した。
「じゃあ、聞いている範囲で止めておけ」
「止めるほどか」
「止めるほどだ」
その言葉に、空気が少し引き締まる。
普段なら、ここで誰かが「女の嫉妬か」「ヒューバートも罪な男だな」くらいの軽口を叩くものだ。
アドルフはそれを予想していたし、言われたら一度くらいはテーブルを叩くつもりだった。
だが彼の友人たちは決して馬鹿ではない。彼が酒を飲まず、声を荒げず、相手の名を出して笑わないというだけで、安い冗談にしていい話ではないと察することができる者たちである。
「リーゼロッテ嬢は、大丈夫なのか」
「うちの妹は強い」
「なら、よかった」
「よくはない」
その返しが早すぎて、訊ねた男は口を閉じる。アドルフは酒杯から指を離した。
「強い女なら、席を取られても平気だと思う奴がいた。それだけだ」
テーブルの上で、紫煙が細くたなびく。
「なあそれ、ラドクリフが言ったのか」
「さて、俺からは、まだ何も言えん」
「今ので十分だろ」
「十分にするな。家同士で《《確認中》》だ」
アドルフはそこで、ようやく酒杯を持ち上げたが、飲まずに、光へ透かす。
「ただ、外で聞かれたらこう答えるしかないさ。部屋、返却、茶会。その三つについて、正式に確認している。若い二人の行き違いではない、とな」
「部屋、返却、茶会」
友人の一人が指を折りながら繰り返した。
「おい、いちいち覚えるな」
「もう覚えた」
「忘れろ」
「無理だな。お前がそんな顔で言うものをそう簡単に忘れられるか」
アドルフは舌打ちをした。友人たちは、そこでやっと少しだけ笑う。
けれどその笑いは、いつもの騒がしいものではなかった。
*
ヒルデガルドは、夫の家の名で開かれた小さな茶会に出ていた。
出席者は六人。いずれも既婚の女たちで、少女たちの茶会より言葉は少なく、少ない分だけよく届く。
「マルヴィン夫人の温室で、少し賑やかなことがあったそうね」
誰かが、あくまで世間話のように言った。ヒルデガルドは、カップを軽く置いた。
「賑やか、というほどではありませんわ」
「では、静かだったの?」
「ええ。静かな方が、よく聞こえることもありますもの」
扇の骨が、隣の夫人の膝で一度鳴った。
「リーゼロッテ様は、お気の毒に。婚約者に別の令嬢を連れて来られたなら、胸も痛んだでしょう」
ヒルデガルドは、その《《言い方》》に対しては特に何も反応しない。責めれば、話は感情の方へ流れてしまう。
「何も妹は、私達家族に、恋の痛みを訴えたりはしませんわ。そんなもの」
「まあ」
「ただもう、婚礼後に使う予定の部屋に別の令嬢が寝ていて、その部屋が三日経っても婚約者の部屋として返らないことがありましたの。その後ですわ。茶会で用意された席にその令嬢が伴われたことは」
そこで一度、茶を飲む。
「痛むとしたら、胸より先に、家の信用でしょうね」
部屋の中で、砂糖壺の匙が小さく鳴った。
「え…… では、嫉妬、ではなくて?」
「恋の話にした方が、聞く方は楽でしょうね」
ヒルデガルドは優雅に微笑む。
「けれど部屋や茶会の席は、恋などより先に家の扱いですもの。誰を座らせるか、誰を通すか、誰を婚約者として示すか。そこを曖昧にされたなら、泣くより先に確認するのが筋というものです」
年かさの夫人が、ゆっくりとうなずいた。
「エーレンフェルト家らしいわね」
「ええ。父は順番を重んじます」
「そして、お姉様である貴女ご自身も?」
「私は既婚の女ですもの。茶会の席が何を意味するかくらいは、よく存じあげておりますわ」
ヒルデガルドは、それ以上ラドクリフ家の名は出さなかった。ヒューバートの名も、アネットの名も。
けれど、六人きりの茶卓ではもう十分だった。
誰かが話題を庭の薔薇や、次の舞踏会の招待状について移していく。だが三つの言葉は、それぞれの耳の中で形を変えずに残っただろう。
部屋――返却――茶会。
それは単純な恋の揉め事より、ずっと扱いにくい言葉だった。
*
さてエーミールは、外で言うなと言われていた。
外で言うんじゃない、厩でも、そして馬にも。
父と母と姉と兄から、それぞれ別の言い方で釘を刺された。
だから彼は、とりあえずは厩へ行った。栗毛の馬が鼻先を寄せてくる。エーミールはその首筋を撫で、しばらく黙っていた。黙っているつもりだった。
「馬っ鹿じゃない」
……結局、出てしまった。
すると厩番の青年が、藁束を抱えたままこちらを見る。
「若様……」
「分かってるよ。外では言わないから」
「ここも外でございますよ」
エーミールは栗毛の馬を見る。馬は耳を動かしている。
「……馬にだけだって」
「馬から漏れることもございますよ」
「じゃ、馬にも口止めをするさ」
厩番はやや呆れたように肩を竦める。
笑わないでいてくれたので、エーミールは少しだけ助かった。
「で、何が馬鹿なんですか」
「うちの姉上の席を取る奴なんて馬鹿に決まってる」
馬が鼻を鳴らした。
「ほら、馬もそう思ってるよ」
「若様~」
「分かってるって。これも外では言わないったら」
厩番は藁を置き、馬の飼い葉桶を直した。
「では、私も聞かなかったことにいたします」
「本当に?」
「馬にも聞かせません」
「もう聞いてるじゃん」
「では、馬も忘れます」
エーミールはようやく少し笑った。けれどすぐ、馬の首筋に額を寄せる。
「姉上はもっと怒っていいんだよ」
今度は、厩番も何も言わない。馬がもう一度、鼻を鳴らしただけだった。
その日の夕方、厩の者たちは妙に口数が少なかった。誰も何も言わない。
言わないのに、ラドクリフ家の馬車が来たら門前で止めるべきだ、ということだけは、いつの間にか共有されていた。




