17 照会状は、昼前に届いた
その日の昼前、ラドクリフ家の門前に、ヴァルトハイム侯爵家の馬車が止まった。
門番は紋章を見て、すぐ通用門の鈴を鳴らす。
馬車から降りた使者は、屋敷の正面玄関へ向かわず、取次ぎの者へ封書を渡す。厚みのある封筒だ。蝋には侯爵家の印が押され、受け取りの控えを求める紙片が添えられている。
玄関広間では、メイドが花器の水を替えていた。彼女は花を一本持ったまま、使者と封書を見比べる。すぐに家政婦長のミセス・ミュラーが出てきて、花を花器へ戻すよう目で示した。
「旦那様へ」
取次ぎの声は低い。ミセス・ミュラーは銀盆を用意させ、封書をその上へ置く。
銀盆には、朝の光が細く映った。彼女はそれを持ったメイドへ、廊下では走らぬよう一言添える。
「ヴァルトハイム侯爵家より、お使いでございます」
バーナード・ラドクリフ伯は、この時、領地から届いた報告書を読んでいた。
小麦の輸送、橋の修繕、秋の猟場の手配。いつもなら一つずつ片づけられる用件が、ここ数日は妙に上滑りするのに疑問と苛立ちを抱えつつ。
彼は南棟二階の件については屋敷内で収めるつもりだった。
アネットを青の客間へ移し、リーゼロッテには後日あらためて詫び、ヒューバートには慎重にするよう言い聞かせ、ヘンリエッタ夫人にも客人の扱いを整えさせる。
そうすれば、まだ戻せる――そう彼は考えていた。
ところが銀盆が机に置かれ、封蝋を見た瞬間、彼は報告書を伏せた。
「家令を呼べ。それから、妻とヒューバートにも」
「かしこまりました」
メイドが下がる。バーナード伯は封を切り、便箋を開いた。
一枚目は挨拶と経緯だった。
王家の意向を受け、ヴァルトハイム家が両家の婚約調整を担ったこと。その婚約について、エーレンフェルト家から正式な報告が届いたこと。ラドクリフ家へ、事実確認を求めること。
そして次の行で、一気に胃のあたりが重くなる。
――照会事項は三点。
――一、南棟二階の部屋を、アネット・カーライル嬢の静養に用いた経緯。
――二、同室の返却が遅れ、私物が残された理由。
――三、マルヴィン伯爵夫人の茶会における同伴者変更の経緯。
彼は便箋を机へ置いた。置いた紙の角が、机上の革張りに吸い付くように止まる。
「マルヴィン夫人の茶会」
そこまで外へ出たのか、と思わず嘆息する。
やがて扉の外で足音が重なる。
先に入ってきたのはヘンリエッタ夫人だった。淡い藤色の昼のドレスを着て、胸元には小さな真珠を留めている。そして後ろからヒューバートが続いた。外出前だったらしく、上着の釦を留めきっていない。
「お父様、侯爵家からと聞きましたが」
ヒューバートの声は、困惑より先に面倒が混じっていた。バーナード伯は答えず、家令にも入るよう示す。少し遅れて、ミセス・ミュラーも扉のそばに控える。
「皆、座りなさい」
ヘンリエッタ夫人は長椅子へ座る。ヒューバートはその隣へ腰を下ろしかけるが、父の目を見て、向かいの椅子へ移った。
バーナード伯は照会状を持ち上げる。
「ヴァルトハイム侯爵家から、正式な照会が来た」
「照会?」
「エーレンフェルト家から報告が出ている。部屋、返却、茶会。この三つについて、こちらの説明を求められている」
ヘンリエッタ夫人の膝で、薄いレースのハンカチがきゅっと小さく丸まる。
「そんな…… エーレンフェルト家は、侯爵家へまで……」
「順番として正しい」
バーナード伯は妻の言葉をそこで止めた。
「そもそもこの婚約は、ヴァルトハイム侯爵家の調整を受けて進んだ。エーレンフェルト家があちらへ報告するのは当然だ」
「ですが、まだ若い二人の間で話せば」
「ヒューバートが茶会へ出ただろう?」
その一言で、ヘンリエッタ夫人の口が閉じるが、ヒューバートは眉を寄せた。
「え? 茶会のことまで、大げさに書いてきたのですか」
「大げさにしたのは誰だ?!」
バーナード伯は机の上の便箋を一枚めくる。
「マルヴィン伯爵夫人の茶会で、お前はリーゼロッテ嬢の名で用意されていた同伴者の席に、アネットを伴ったのか?」
「え? アネットを元気づけようとしただけですが」
ヒューバートは即座に答えた。何もそこに疑問を持たないかのように。
「だって彼女はずっと部屋に閉じこもって、気落ちしていました。少し外の空気に触れれば、気分も変わると思って」
「元気づけるために、婚約者の席を使ったのか」
「だから父上、あれは席というほどのものでは」
ヒューバートはあの時も少しは考えた。が、少しだけだった。そこから先、彼は考えるのをやめた。考えて答えが出なかったからだ。
「マルヴィン伯爵夫人の茶会だ」
父の声が低くなったことで、ヒューバートの背が少し伸びた。
「席というほどのものだ。《《あの方の温室で》》、誰が誰の隣に座るか、誰が誰を伴って来るか、それを軽く見る家は笑われる」
「ですが、リーゼは来る予定では――」
「お前がどう思っていようが、現実、リーゼロッテ嬢は来た」
ヒューバートは言葉を切った。
「彼女と母夫人が出席した。マルヴィン夫人からの書状も添えられている。で、お前はそこで、アネット嬢に自分のことをどう呼ばせていたんだ?」
「どう、とは?」
言われている意味が分からない。
「ヒュー、と呼んだそうだな」
ヘンリエッタはたまらなくなって、目を伏せる。ヒューバートはただ困惑した表情で父に対峙していた。
「それが? 僕達の昔からの呼び名です」
「婚約者の前で、そう言い合ったのか?」
「ええ、リーゼなら分かってくれると」
バーナード伯は、机の端に置いてあった封筒を指先で寄せる。紙が一枚、革の上を擦る音がする。
「ちなみに、お前は、その言葉をここ最近、何度も言っていただろう?」
「何度、とは?」
「部屋の件で使ったな。アネットを南棟二階に休ませた時、返却が遅れた時、そして今度、アネットを茶会へ連れて行った時も、リーゼロッテ嬢なら分かってくれると思った」
ヒューバートは何が悪いのか、とばかりに口を半分開ける。
「僕は、彼女の優しさを信じて……」
「どうして彼女の優しさが、必ずお前の思う通りになると思っているんだ」
書斎の外で、食器を運ぶかすかな音がした。昼食の支度は進んでいる。屋敷の台所も食堂も、いつも通り動いている。そのいつも通りの中に、侯爵家の照会状だけが異物のように机へ置かれている。
「……南棟二階の部屋について確認する。そもそも、あの部屋をアネット嬢へ使わせたのは誰だ」
ヘンリエッタ夫人が顔を上げる。
「……最初は、わたくしです。あの子があまりにつらそうでしたから。日当たりもよく、風も入りにくい部屋でしたし、一晩だけならと」
「で、お前は一晩で返したか?」
「翌朝にはあの子は熱が」
「返したのか?」
ヘンリエッタは答えを探すように、息を小さく吸った。
「返せませんでした……」
「なぜ、私に報告が上がらなかったんだ」
ミセス・ミュラーが一歩だけ進む。
「……旦那様。あの方の客間への移動とカーライル家への連絡を私は奥様にお願い申し上げました」
ヘンリエッタ夫人の頬から、色が少し引く。
「ええ、確かに貴女からは聞いたわ。でも、その時はまだ、あの子が不安がっていて」
「ミセス・ミュラー」
バーナードは妻ではなく、家政婦長を見る。
「南棟二階の私物整理については?」
「青の客間へ移る決定の後、メイド二名に箱を用意させました。帽子、ショール、詩集、刺繍枠、香水瓶、押し花などです」
「それが残ってしまった理由は」
「ヒューバート様より、アネット様ご本人に確認してからと」
ヒューバートが身を乗り出した。
「だって、勝手に触られたら、アネットが不安になるじゃないですか」
「客人の私物に確認を取るために、婚約者の部屋の返却を止めたのか」
「だから、まだ正式にリーゼの部屋となった訳てはないじゃないですか」
その言葉が出た瞬間、夫人までが息子の顔を見た。バーナード伯も黙って少しの間、息子の顔を眺めた。
彼はその表情が、何かに似ている、と思った。誰かに似ている、のではなく、これまで家の中で許されてきた曖昧さが顔になったかのように。
――まだ正式ではない。
――可哀想だから。
――君なら分かってくれる。
――落ち着いたら。
そのどれもが、相手の家の娘に向けていい言葉かどうか、息子は考えていない。いや、考えることができないのか。
「ヒューバート」
「はい」
「婚礼後に妻が使う予定の部屋は、婚礼前なら誰を寝かせてもよい場所か」
「そういう意味では」
「答えろ」
ヒューバートは唇を結び、すぐまた開いた。
「一時的なことでした」
結局それは、答えになっていない、と伯爵は思う。
「三日返せなかった」
「アネットの体調が」
「医師は、青の客間で療養可能と判断した。ミセス・ミュラーも移動の準備をしていた。止めたのはお前だ」
ヒューバートはミセス・ミュラーを見る。だが家政婦長としての彼女の表情は、凜として変わらない。
「……アネットは、弱いんです!」
ヒューバートの声が少し強くなる。
「それに比べて、リーゼは強いんですよ。少しくらい待てるし、部屋が一時的に使えなくても困らないでしょう? けれどアネットは、居場所がなくなったら本当に倒れてしまうじゃないですか!」
バーナード伯は、照会状を畳み直した。
「お前は…… リーゼロッテ嬢を何だと思っている」
「父上、僕は、リーゼを軽く見ているわけでは」
「軽く見ている!」
息子の言葉を遮る。
「強いから譲ってくれるだろう、妻になるのだから助けてくれるだろう、婚約者なら分かってくれるだろう、お前の言い方は全部、リーゼロッテ嬢の立場を削ってアネット嬢へ渡してしまうものだ」
するとヘンリエッタ夫人が小さく首を振る。
「あなた、わたくしたちは、《《そんなつもり》》では」
「その言葉も、照会状には書けん」
バーナードは妻へ視線を向ける。
「侯爵家は、《《誰がどのつもりだったか》》を聞いているのではない。誰が決め、誰が承認し、誰に報告したかを聞いているんだ」
ヘンリエッタはハンカチを膝の上で広げた。くしゃくしゃに、握り込んだ跡が残っている。
「昼食は取りやめる」
バーナードは家令に言う。
「旦那様」
「私はこのまま返答の草案を作る。ミセス・ミュラー、南棟二階と青の客間の記録をすべて出しなさい。食事、薬、呼び鈴、メイドの出入り、医師の指示、私物整理の日時。残っているものがあれば、品名まで」
「承知いたしました」
「ヘンリエッタ。お前はアネットに、今日の午後からすぐ、医師の指示通りに過ごすように伝えろ。菓子、濃い茶、夜更かし、呼び鈴の乱用。すべて記録に入る」
「え…… そこまでなさるんですか」
「そこまで来ているんだ」
そして伯爵は、ヒューバートへ向き直る。
「ヒューバート、お前はもう、今日からアネット嬢の部屋へ入るな」
え、と彼は立ち上がりかける。
「けど、そんなことをしたら、アネットが不安に」
「入るな、と言っている」
「だって、彼女は僕を頼っているんです」
「《《だから》》だ」
その返事に、ヒューバートは唖然とした顔で止まった。
書斎の時計が、昼の少し前を打つ。廊下の向こうで、誰かが足を止める気配がした。
バーナード伯は照会状を机の中央へ置いた。そこにあるのは紙だけだ。だが、その紙一枚が、南棟二階の部屋も、青の客間も、温室の席も、もうラドクリフ家の内々では済まない場所へ移していた。
「お前は、今、自分が何を言っているのか分かっていない」
「そんな、分かっています。アネットを助けようと」
「分かっていない!」
バーナードは一度、言葉を切った。
「だから、私が侯爵家へ説明する。お前の言葉などでなく、家の責任として」
ヒューバートの視線が揺れる。彼にもようやく、別の怖さが届いたようだった。
アネットが泣くかどうかではない。リーゼロッテが怒るかどうかでもない。
侯爵家へ、ラドクリフ家の当主が、息子の行動を説明しなくてはならない。
ヘンリエッタ夫人は、隣に立つ息子の横顔を見た。彼はまだ、父ではなく扉の方を見ている。青の客間へ行く道を、目で探している。
そのことに気づいた彼女の膝の上で、広げたハンカチがまた細く皺を寄せた。




