18 優しい息子は扉の前にたたずんだまま
青の客間から、菫色のリボンが外される。
メイドは窓際の小卓に置かれていた花瓶を持ち上げ、水を替えるために部屋を出ていく。
その後ろで、別のメイドが刺繍枠と詩集を箱へ戻した。
香水瓶は栓を確かめてから、寝台から離れた棚へ移される。窓は半分だけ開き、風が薄いカーテンを揺らした。
「……寒いわ」
アネットは寝台の上で上掛けを寄せた。
肩にかけていたショールは淡い白で、縁に細いレースがついている。南棟二階にいた時は、そこへ菫色のリボンを結んでいた。だけど今日はリボンがない。
「医師から、午前中は換気をするよう指示が出ておりますので」
ミセス・ミュラーは、寝台の脇の小机に置いた紙へ時刻を書き入れる。窓を開けた時刻、朝食の時刻、薬の時刻。細い線で区切られた紙面は、飾り気がない。
「でも、冷えてしまったら、また具合が悪くなるじゃないの」
「膝掛けをもう一枚お持ちいたしましょう。窓は、砂時計の砂が落ちるまでです」
メイドがすぐに膝掛けを持ってくる。
アネットはそれを受け取っても、まだ窓の方を見る。薄い風が頬に当たり、香水の甘い匂いが少しずつ外へ逃げていく。
「……ヒューは?」
ミセス・ミュラーのペン先が、紙の上で止まる。ほんの短い間だけだ。
「ヒューバート様は、本日こちらへはお越しになりません」
「なぜ?」
「旦那様のご指示です」
「わたしが不安になると、伝えて」
「奥様から、すでにお話がございます」
ちょうどその時、扉が開き、ヘンリエッタ夫人が入ってきた。
後ろには奥方付きの侍女が一人だけ控え、薬湯の盆を持っていた。決して菓子皿ではない。
アネットは夫人を見て、少し身を起こす。
「奥様……」
「具合はいかが? アネット」
「よくありません。朝から窓を開けられて、寒くて…… ヒューにも会えないなんて、わたし」
言いかけたところへ、ミセス・ミュラーがトレイを寝台脇へ置いた。薬湯の白い湯気が立ち上がり、甘さのない草の匂いが広がった。
「お薬の時間でございます」
アネットはぷい、と小さく顔をそむける。
「今は、……少し…… 後じゃだめ?」
「朝食後、四半刻以内との指示です」
「でも、苦くて……」
「医師に確認いたしました。苦みで飲みにくい場合は、ぬるい湯を添えるようにとのことです。《《砂糖菓子で口直しをする指示はございません》》」
ヘンリエッタ夫人は、その言い方に眉を動かした。
以前なら、そこで「少しくらいよいでしょう」と言ったかもしれない。だが書斎で、夫が照会状を机の中央に置いた姿がまだ目に残っている。
部屋――返却――茶会。
そして今は、薬と菓子と窓だ。
「アネットさん。まず、お薬を」
アネットは夫人に対し、助けを求めるように目を潤ませる。
いつもなら、それで誰かが折れた。そして濃い茶が出て、蜂蜜を落とした菓子パンが出た。
ヒューバートが来て、かわいそうに、と言ってくれた。
……なのに今日は、薬湯が下げられない。
「奥様まで、そんな……」
「先生の指示ですもの」
夫人は、そう言ってしまってから、自分の声がずいぶん薄情な声に感じる。けれど彼女も言葉は取り消さない。
アネットは薬湯のカップを取ってゆっくり口をつけるが、すぐ顔をしかめた。
「苦い……」
「ですが、お飲みください」
ミセス・ミュラーが言う。
「少しずつでも構いません。残量を記録いたします」
「記録?」
「医師へお伝えするためです。食事の量、薬の残り、呼び鈴の回数、睡眠の時間。今日から整えます」
アネットの頬が、ほんのり赤くなる。
「まるで、わたしが悪いことをしているみたい」
「病人の記録でございます」
「わたし、責められるようなことは」
「責めてなどおりません。きちんとさせるだけです」
その返事に、アネットは口をつぐむ。薬湯のカップを膝の上のトレイへ戻そうとするが、ミセス・ミュラーの視線に気づき、何とかもう一度飲む。
ヘンリエッタ夫人は窓際の箱を見る。刺繍枠、詩集、白い帽子、菫色の造花。南棟二階から運ばれてきた物だ。
ほんの数日前には、これらを見ても「可哀想な子の小さな楽しみ」としか思えなかった。
けれど、「リーゼロッテの部屋に残った物」として報告書に書かれたなら、それは《《小さな楽しみ》》ではもう済まされない。
「ミセス・ミュラー」
「何でございましょう」
「南棟二階に、まだ残っているものは?」
「押し花を挟んだ本が一冊、窓辺の棚に残っております。午後に確認のうえ、こちらへ移します。香水の匂いが強く残っておりますので、部屋は本日から三日、窓を開けて風を通します」
アネットが顔を上げる。
「香水なんて、少しだけだったのに」
「寝具にも移っております」
「だって、気分が落ち着くから……」
「では、今後は寝台から離して置きます。医師からも、眠りのためには香りを控えるようにと」
アネットはカップを持ったまま、ヘンリエッタの方へ目を向けた。
「奥様、わたし、こんなふうに決められるのは苦手です。病人は、もっと心を楽にしていないと」
「心を楽にするためにも、まず生活をきちんとさせるのですって」
夫人は医師が言ったままを繰り返す。自分の言葉ではないから、かえって口が回る。
「これからは守ってちょうだいね。食事と薬の時間も、昼に眠りすぎないことも、夕方以降は濃いお茶を控えることも。何より、甘いお菓子を食事の代わりにしないこと」
「でも、わたし、食べられるものが少ないの……」
「朝食の卵粥は、半分残っておりますね」
ミセス・ミュラーは記録を見る。
「ですがその前に、蜂蜜入りの菓子パンを一つ召し上がっています。これは昨夜の残りでしょう」
「だって、お腹が空いて……」
「夕食は残されてますね」
「お肉の匂いが……」
「では厨房へ、今後は匂いの強いものを避けるよう伝えます。代わりに粥、白身魚、野菜の煮込みを中心にいたしましょう。菓子パンは、当面お出ししません」
アネットの目が大きく見開かれる。
「そんな……」
「医師の指示です」
「ヒューなら」
そこで扉が叩かれた。控えていた侍女が扉の方へ行き、少し開ける。廊下の向こうに、ヒューバートの声がした。
「母上、アネットの具合は」
アネットの表情が急に輝いた。
「ヒュー!」
夫人は立ち上がりかけたアネットを見て、扉へ向かう。
ヒューバートは廊下に立っていた。……父から部屋へ入るなと言われたばかりなのに、もうここまで来ている。
「母上、アネットが不安がっていると聞いて」
「入ってはいけません」
「少し顔を見るだけです」
「いけません」
ヘンリエッタ夫人は扉の前に立つ。
息子の背後には、青の客間へ続く廊下がまっすぐ伸びている。数日前までは、彼がこの道を通ることに何の疑問も持たなかった。
可哀想な客人を慰める優しい息子。彼女はそう思っていた。だが今はその優しさで、扉を勝手に開けようとしている。
「母上、アネットは僕を頼って」
「だからそれが、よくないのです」
ヒューバートは不思議そうに瞬いた。
「頼られることが?」
「誰か一人だけに頼る病人は、静養できません」
これも医師の言葉だった。夫人はそのまま使う。
「これからは、医師と家政婦長の指示に従ってちょうだい。あなたは、今は書斎へ戻りなさい」
「ですが……」
中から、アネットの声が届く。
「ヒュー、わたし、大丈夫だから」
弱々しい声に聞こえる。だがその声のすぐ後で、薬湯のカップがトレイへ置かれる小さな音がした。ミセス・ミュラーが言う。
「残りもお飲みくださいませ」
「……少し待って」
「では記録いたします」
ヒューバートは扉の向こうを見ようとした。
「母上、薬でつらい思いをしているなら、少しくらい甘いものを」
「ヒューバート!」
ヘンリエッタは、息子の名を短く呼ぶ。
「あなたは今朝、お父様から何と言われましたか」
「部屋へ入るな、と」
「では、戻りなさい」
「僕は、アネットを助けたいだけです」
ヘンリエッタは、息子の上着のボタンが一つずれているのを見た。外出しかけて、照会状のために呼ばれ、そのままここへ来たのだろう。
そして、書斎での話も、まだ途中のボタンのように掛け違えたままになっている。
「助けることと、甘やかすことは違います」
ヒューバートはそれに対しては答えない。いや、おそらく聞いていない。母の言葉より、部屋の中のアネットの息づかいを聞こうとしていた。
夫人は、侍女へ目で示す。侍女は扉を静かに閉める。
薄い板一枚で、青の客間と廊下が分かれる。ヒューバートは、その扉をしばらくぼんやりと見ていた。
「アネットは、前より顔色がよくなっていました」
彼はぽつりと言う。
「薬も飲めるし、食事も取れるようになるなら、少しずつ元気になっているのでしょう。やはり、きちんと休ませてあげれば」
息子に対する言葉が、夫人には見つからない。
部屋の中から、ミセス・ミュラーの声がかすかに聞こえる。
「全部、お飲みになりましたね。では次は、昼食までお休みください。菓子皿は置きません」
「……本当に、ないの?」
「ございません」
ヒューバートは、ほっとしたように息をついた。
「よかった。きちんと管理されると元気になるんだね」
ヘンリエッタは息子の横顔を見る。
扉の向こうで、菓子がないと聞いたアネットの声が少し尖ったことに、彼は気づいていない。
薬を飲めたこと、顔色がよく見えたことだけを拾い、自分自身は会えなくても、彼女が自分を呼んだことは大切にしまっている。
可哀想な子を守る優しい息子。
その言葉は、まだヘンリエッタの中にある。けれど、今、この廊下では少し自分の中で形が変わりつつあるのに気付きつつあった。
優しい息子は、扉の前にたたずんだままだ。止めなければ、また入ろうとするだろう。
「……ヒューバート、書斎へ戻りなさい」
ヘンリエッタ夫人はもう一度言う。息子は不満そうにしながらも、廊下を戻るが、数歩進んだところで、一度だけ青の客間を振り返った。
扉の横に立ったまま、夫人は彼が角を曲がりきるまで待つ。
中では、ミセス・ミュラーが砂時計を返しているだろう。窓を閉める時間まで、あと少しある。




