19 病人の部屋に菓子皿は必要ない
青の客間の小テーブルから砂糖壺が消えた。
最初に気づいたのはアネットだった。
朝の茶はいつも通り運ばれてくる。白い陶器のポット、薄い金縁のカップ、温めた牛乳の小さな壺。
けれど、その横にあるはずの銀の砂糖壺がない。
「砂糖は?」
トレイを置いたメイドはすぐにミセス・ミュラーを見る。
以前なら、ここでメイドは迷った。奥方に確認するか、ヒューバートに聞くか、客人の望み通りにするか。
ほんの短い迷いの間に、アネットはいつも欲しいものを受け取っていた。だがもう今日は違う。
「医師の指示で、朝のお茶には入れないことになっております」
ミセス・ミュラーが答える。
「ひと匙も?」
「本日は入れません」
「本日は、ということは、明日は?」
「医師の診察後に決めます」
アネットはカップを持ち上げ、香りだけを確かめる。薄い。茶葉も少ない。牛乳を足しても、いつもの丸い甘さにはならない。
「こんなもの、飲めないわ」
「では、ぬるい湯をお持ちします」
「そういう意味ではなくて!」
声が、思ったより強く出てしまった。メイドの肩が少し動く。アネットはすぐに息を細くして、カップを膝の上の盆へ戻した。
「……ごめんなさい。朝は、少し気分が悪くて」
「はい、承知しております。朝の気分、食事量、茶の量も記録しております」
ミセス・ミュラーは、紙へ書き入れる。茶を飲まず。朝食は卵粥三口。薬は服用済み。砂糖の要求あり。
最後の一行をちらと見て、アネットは顔を上げた。
「要求だなんて……」
「記録のための言葉です」
「わたし、お願いしただけよ」
「では、次からは『砂糖を希望』といたします」
ミュラー夫人は静かに書き直す。どちらの言葉でも、紙に残ることは変わらない。
アネットはその紙から目を離し、窓際へ視線を移す。青のカーテンは半分だけ開いている。南棟二階の部屋より庭は遠く、午前の光もやや白い。
――ここは、病人の部屋だ。
そう言われた時には、最初、少しほっとした。
《《病人として大切にされる》》なら、自分は守られると思った。
けれど、《《病人として扱われる》》というのは、食べたものも、飲んだものも、眠った時間も、呼び鈴を鳴らした回数も、紙に書かれることだった。
昼には、白身魚の煮込みと柔らかい野菜が出る。皿の縁に油はない。香辛料もない。添えられたパンは小さく、蜂蜜もジャムもない。
「……お菓子は?」
言ってから、アネットは唇を噛む。ミセス・ミュラーは顔を上げる。
「本日もお出しいたしません」
「少しも?」
「はい」
「薬の後だけでも……」
「薬の後には湯を添えます」
「苦みが残るの」
「ではそう、医師に伝えます」
伝える――確認する――記録する――その三つばかり返ってくる。
*
夕方、ヒューバートが廊下まで来た。彼は部屋へは入ってこない。扉の外で、夫人に止められていた。
それでも彼の声が聞こえた瞬間、アネットは寝台から身を起こした。
「ヒュー」
呼びかけると、向こうから足音が近づいてくる。
「アネット! 大丈夫かい?」
「大丈夫ではないわ…… お茶も薄くて、お菓子もなくて、薬は苦くて」
扉の向こうで、ヘンリエッタの低い声がする。
「ヒューバート、そこまでです!」
「母上、声だけです」
「声だけでも、長くは困ります」
アネットは、扉の方へ顔を向けたまま上掛けを握り込む。
これまでなら、弱々しく笑えば彼は入ってきた。かわいそうに、と言って、どこからか砂糖菓子を用意してくれた。その白い小箱を開けると、部屋の空気まで甘くなるようだった。
「ねえ、少しでいいの。甘いものがあると、落ち着くの」
扉の向こうで、ヒューバートが息をのむ気配がした。
「母上、せめて一つくらい」
「いけません」
「けれど、気持ちが落ち着くなら」
「医師が止めています」
「医師は、アネットの気持ちまでは」
「ちゃんと見ています」
夫人の声がそこで少し固くなる。
「食事を残して、菓子で補うこと。濃い茶を飲んで夜眠れなくなること。薬を避けること。その結果も医師はきちん
と確認しています」
アネットは扉から目をそらし、寝台脇の鏡を見てぎょっとする。頬の色が以前より赤みが増している。
そう、医師にも言われた。顔色は悪くない、と。
だが、その言葉は少しも嬉しくない。病弱で、儚くて、少し助けが必要な自分。顔色がよいと言われるたび、その形が崩れていくようで。
「アネット」
扉の向こうで、ヒューバートが優しく呼ぶ。
「きちんと食べて、薬を飲めたなら、きっと元気になる。僕も安心したよ」
アネットはその言葉には返事をしなかった。
彼の言う、その安心は、彼女にとっての欲しいものではない。
元気になりたいのではなく、守られたい。甘いものを禁じられて食事を整えることが回復なら、それは少しも優しくない。
ヒューバートの声は扉の向こうから届くのに、菓子の箱は届かない。
「お休みなさいませ、ヒューバート様」
ミセス・ミュラーはびしゃりと言う。扉の外で、ためらう足音が聞こえる。そして次第に、廊下を戻っていく靴音は遠くなる。
アネットは上掛けを押しのけた。
「暑いわ……」
「窓を少し開けます」
「さっき、寒いと言ったでしょう?」
「では、上掛けを薄いものに替えます」
「……もういいわ!」
言い方がきつくなってしまった。
メイドは枕元のトレイを持ち上げる。上には、半分残った煮込みと、小さくちぎったままのパンがある。
「それではこれはお下げいたします」
「残すために作ったみたい……」
口に出してから、アネットはしまった、と思った。ミセス・ミュラーがこちらを見る。
「厨房には、残量も伝えておりますので、明日の分は調整いたします」
「そういうつもりでは……」
「承知しております」
承知している、と言われるほど、言葉の置き場がなくなる。
*
二日目の夜、アネットは呼び鈴を三度鳴らした。
一度目は、水。二度目は、寝台の布が重い。三度目は、眠れない。
以前なら、三度目には奥方付きの侍女かヒューバートが来た。
眠れないなら本を読みましょうか、少し甘いお茶にしましょうか、と誰かが言った。
その夜は、メイドがぬるい湯を持ってきて、ミセス・ミュラーが記録に時刻を書くだけだった。
「眠れないの」
「ええ、昼のお休みが長かったことも、医師へ伝えます」
「昼間に眠くなったのだから仕方ないでしょう?」
「では、明日は午前中に少し起きていていただきます。窓際の椅子で」
「座っているのも疲れるわ」
「短い時間から始めましょう」
アネットは枕に頬を押しつける。布は清潔で、よく乾いている。けど南棟二階の寝台より、少し硬い。寝返りを打つたびに、レースの縁が頬に触れる。
「ヒューに会いたい……」
「明日、奥様から旦那様へ確認いたします」
「確認ばかり」
ミセス・ミュラーはペンを置く。
「病人の部屋では、確認が必要でございます」
アネットは、もうその言葉に返事をする気がおきなかった。
そして代わりに、空になった小さな皿を思い出す。
砂糖をまぶした菓子。舌に触れた瞬間、全部がぼやけて、身体の内側がようやく自分のものになるような気がした。薬の苦さも、部屋の狭さも、ヒューバートの来ない時間も、少し遠くへ行くような気がしていた。
だが、今夜の小テーブルには湯差ししかない。
銀のトレイも、白い箱もない。
*
三日目の朝、ふと、白い帽子の紐が短いことに気付いた。
鏡の前で首を傾け、顎の下で結ぼうとした時だった。結び目は作ることができるが、いつものようにリボンが細く垂れてこない。
それだけではない、喉元に布が触れて、少し息苦しい。
「縮んだのかしら?」
そばにいたメイドが返事に迷う。ミセス・ミュラーが、帽子箱の札を見る。
「洗いはまだ出しておりませんが」
「では、結び方が悪いのね」
「結び直しましょう」
メイドがそっと紐をほどく。
アネットは鏡の中の自分を見た。頬の色は確実に昨日よりよい。唇も、以前ほど白くない。
白い帽子と淡いドレスは同じなのに、鏡の中の娘は、どこか前より輪郭がはっきりしている。
「顔色がよくなられましたね」
メイドが言った。悪気はない。むしろ安心したような声だった。だがアネットにはそれは受け取れない。
「……そういうことを言わないで!」
驚いたメイドの指が紐の途中で止まる。はっとしてアネットはすぐに視線を下げた。
「ごめんなさい。朝だから、少し」
「お疲れでいらっしゃいますものね」
そうメイドが言うと、ミセス・ミュラーは記録紙へ目を落とした。昨夜の呼び鈴三回。睡眠の中断。朝食前の苛立ち。医師にはそのまま伝わる。
アネットは、帽子を外した。
「今日はかぶらないわ」
「外出のご予定はございません」
「分かっているわ」
声がまた尖る。
病人なら、帽子はいらない。けれど、帽子をかぶらなければ、可憐な令嬢として整えた姿にもならない。
アネットは鏡台の上の菫色の造花へ指を伸ばし、髪に挿そうとして、やめる。
青の客間では、どれも少し場違いに見えた。
白い帽子も、造花も、詩集も、香水瓶も、ここでは慰めではなく、記録される品物になってしまう。
*
昼前にはヘンリエッタ夫人が来た。
アネットは寝台ではなく、窓際の椅子に座らされていた。膝には薄い毛布。小テーブルにはぬるい湯と、読みかけの詩集だけ。茶はない。菓子もない。
「少し、顔色がよいわね」
夫人は言ってから、アネットの表情を見る。
彼女は喜ぶと思っていた。以前なら、そう言われて、アネットは弱々しく笑ったはずだった。だが今日は、詩集の頁が少し強く閉じられる。
「皆、そればかり……」
「アネットさん?」
「具合が悪いと言えば、薬。眠れないと言えば記録。お腹が空いたと言えば粥。わたし、ここへ叱られに来たのではありません……!」
夫人は窓際の椅子のそばに立ったまま、返事を迷った。
ミセス・ミュラーは部屋の隅に控えている。メイドは替えのリネンを抱え、棚の前にいる。二人とも余計な口を挟むことはない。
「叱っているのではないわ」
「では、なぜ何もかも取り上げるのですか」
「医師の指示です」
「奥様も、そればかり」
顔を上げたアネットの目には涙がある。けれど、以前のように零れそうで零れない、揺れる涙ではない。
そこには怒りがあった。
「ヒューに会わせてください」
「今はできません」
「ヒューなら、わたしをこんなふうには……!」
「ヒューバートも、いま学んでいるところです」
そう言いながら、ヘンリエッタ夫人は自分の言葉に少し引っかかった。
――学んでいる。本当にそうだろうか?
息子は昨日も扉まで来た。今朝も家令に止められていた。
昼には父の書斎へ呼ばれ、照会状への返答に必要な事実確認だというのに、彼はまだ青の客間の様子ばかり気にしていた。
「学んでいるなら、なぜ来てくれないの」
「来てはいけないと決まったからです」
「決まり」
アネットは小さく笑った。笑い方が、少し乾いている。
「決まりなら、リーゼロッテ様の部屋も、わたしの場所ではなかったのでしょうね」
夫人はアネットを見る。そこには謝罪も、気づきも無い。ただ、取り上げられた菓子への苛立ちと同じところから出ている。
どうせ悪いと言うのでしょう、という声が聞こえてくるかのようだ。
だから夫人は答えた。
「そうです」
「え?」
「リーゼロッテ様のために用意し、きちんと準備する予定の部屋でした。あなたの場所ではありませんでした」
アネットの目が揺れる。だが今の夫人はそこで引くわけにはいかなかった。
「わたくしが、最初に間違えました。一晩だけならと考えました。あなたが可哀想で、ヒューバートも心配していて、リーゼロッテ様なら分かってくださると」
声は小さいが、部屋の中のメイドにも聞こえる程度だ。
「けれど、分かっていただく話ではありませんでした」
アネットは詩集を膝の上で開き直す。だが文字などまるで追っていない。
「わたし、そんなつもりでは」
「ええ、その言葉も、もう何度も口にされてしまいました。あなたも、ヒューバートも、そしてわたくし自身も」
アネットは、今度こそ黙った。
昼の光が、青いカーテンを通って部屋に入る。小テーブルの上の湯は、もう冷めてしまっているようだった。白い帽子は鏡台の横に置かれ、紐がほどけたまま垂れている。
ミセス・ミュラーが、静かに言う。
「昼食のお時間でございます」
運ばれてきた盆には、柔らかく煮た野菜と、薄く切った白身魚がある。パンは小さい。甘いものはない。
アネットは皿を見た。
「食べられません」
「では、食べられた量を記録いたします」
「また――」
「はい」
返事は短い。
夫人は、椅子に座るアネットと、トレイを置くメイドと、記録紙を持つミュラー夫人を見て、改めて思う。
――病人を助けるとは、こういうことだったのだ。
弱い娘に、好きなだけ甘い茶を飲ませ、息子を呼び、婚約者の部屋を貸すことではない。
食べた量を見て、眠った時間を見て、嫌がる薬を飲ませ、勝手な呼び鈴を減らし、必要なら窓を開けることだった。
その手間を、リーゼロッテは最初から言っていた。だがヘンリエッタ夫人は、ようやくその順番に追いついた。
アネットは魚を一口だけ食べ、すぐ水を飲んだ。
「味がしないわ」
「厨房へ伝えます」
「伝えなくていいわ」
「そうおっしゃったと、記録いたします」
アネットはフォークを置く。謝罪の言葉は彼女の口からは一言も出ない。




