20 雀たちは、枝を移る
さて、マルヴィン伯爵夫人の温室では、花より先に噂が咲くことも往々にしてある。
茶会の翌々日には、出席者の家の朝食卓でその話題が出た。
さらにその午後には、帽子屋の奥の小さな椅子で、針子がリボンを合わせながら聞く。
翌朝には、馬車寄せの待ち時間に、若い令嬢の侍女たちが目だけで頷き合った。
最初の話は、分かりやすかった。
――ラドクリフ家のヒューバート様が、病弱な男爵令嬢を茶会へ伴った。
――婚約者のリーゼロッテ様が、それを見て怒った。
恋の話は、広がりやすい。誰にでも分かった気になれるからだ。
可哀想な婚約者、儚い客人、優しい青年。そこに少しの嫉妬を足せば、茶菓子一つで語れる話になる。
だが、三つの言葉がそこへ混じる。
――部屋――返却――茶会。
誰が最初に並べたかは、はっきりしない。
エーレンフェルト家の長男が、男たちのクラブで酒杯を置いたまま言ったとも言われた。ランゲンハイム伯爵夫人が、茶卓で一度だけ口にしたとも言われた。マルヴィン伯爵夫人の扇が閉じられた音を、誰かが勝手に言葉へしたとも言われた。
いずれにせよ、話の枝はそこで移る。
可哀想な男爵令嬢を助けた話から、婚約者の部屋を客人へ使わせた話へ。
若い娘の嫉妬から、返すべき部屋に私物が残った話へ。
温室での小さな揉め事から、婚約者の席へ別の令嬢を連れてきた話へ。
雀たちは、同じ声で鳴かないが、枝を移る時だけは早い。
*
ヒルデガルド・ランゲンハイムは、その日、帽子屋の奥で深藍のリボンを選んでいた。
夫の母への贈り物である。濃すぎず、若すぎず、けれど灰色へ逃げない色を探すのは思ったより難しい。そして店主が三種類目の箱を開けたところで、隣の試着椅子から声がかかった。
「ランゲンハイム夫人。少しよろしい?」
声の主は、男爵夫人だった。年は母シュザンナより少し若い。社交ではよく笑うが、笑ったまま人の値踏みをする人でもある。
「ええ、もちろん」
ヒルデガルドはリボンから目を上げる。店主が気を利かせて少し下がった。針子は帽子の箱を持ったまま、棚の前で待つ。
「……妹君のことで、心配しておりましたの。マルヴィン夫人のところで、何やら」
「ご心配ありがとうございます」
「男の方は、時々、優しさの置き場を間違えますものね。病弱な令嬢を放っておけなかったのでしょう」
ヒルデガルドは、店主が出した深藍のリボンを一つ手に取る。絹の光沢はよい。だが、少し薄い。
「放っておけないなら、客間を用意するものですわ」
男爵夫人の笑みが、そこで少し止まる。
「客間?」
「《《病人には》》、医師と夜番と、階段の少ない部屋が必要でしょう。《《婚礼後に婚約者が使う予定の部屋では》》、かえって落ち着きませんもの」
「まあ。そういうお話でしたの」
「ええ。妹が問うたのは、恋のお話ではありませんの。部屋がどう使われ、いつ返され、茶会で誰が誰の席に座ったか。それだけです」
ヒルデガルドは、次のリボンを見る。こちらは色が深い。母には少し重いが、義母なら使える。
「けれど、若い娘なら胸も痛むでしょうに」
「痛むでしょうね」
ヒルデガルドは否定しない。否定すれば、また恋の方へ戻る。
「けれど痛むからといって、部屋の話をしなくてよいわけではありません。むしろ、痛む前に家が見るべきことです」
男爵夫人は扇を開いた。帽子屋の中で扇を使うほど暑くはない。
「エーレンフェルト家は、きちんとしていらっしゃるのね」
「父は順番を重んじます」
「では、今は?」
「確認中です」
ヒルデガルドはその言葉で止めた。ここから先は、口にしない。口にしなくても、相手は十分に持って帰る。
部屋――返却――茶会――確認中。
帽子屋の奥では、その四つだけで足りる。
男爵夫人が別の帽子を試し始めたころ、針子が深藍のリボンを包む。ヒルデガルドは包みを受け取り、店を出る前に一度だけ振り返り、唇の端を上げた。奥の棚の前で、針子たちが声を落としている。
――悪くないわね。
噂というものは、止めようとすると膨らむ。向きを変えた方が早い。
*
若い男たちのクラブでも、話は少しずつ《《形を変えていた》》。
アドルフが前夜に酒を飲まなかったせいで、余計な関心を集めたとも言える。だが彼の友人たちは、それを分かっていて黙っているほど薄情でもない。
「ラドクリフの奴、弱い子を《《助けた》》って話だろ……?」
狩りの予定表を見ていた男が、軽く言った。
その場にいた三人が、ほぼ同時に顔を上げる。言った本人は、居心地悪そうに肩をすくめた。
「いや、そう聞いただけだ」
「《《助ける》》なら客間だな」
アドルフの友人の一人が、煙草を灰皿へ置く。
「医師を呼んで、実家へ連絡して、当主に報告する。うちならそうする」
「お前、ずいぶん真面目だなあ」
「婚約者の部屋に寝かせるよりは、だいぶ《《楽》》だぞ」
カードを切っていた男が、そこで手を止める。
「なあ、本当に部屋の話なのか?」
「アドルフは、部屋と返却と茶会と言ったよな」
「言うな、と言われたんじゃなかったか?」
「覚えるなと言われたけどな」
「覚えたんだな、おい」
「無理だろ…… あの顔で言われたら」
そこで少し笑いが起きる。だが、当事者を茶化すものにはならない。
話が恋なら、男たちは逃げられる。誰が誰を好きだったのか、婚約者が嫉妬したのか、病弱な令嬢に同情したのか。そのあたりなら、酒の勢いで曖昧にできる。
ところが、話が部屋と席になると、途端に曖昧にしづらい。
「俺、ラドクリフは、ああ見えて真面目な奴だと思っていたんだがな」
「いやいや、真面目な奴ほど、優しい自分に酔うと面倒だぞ」
「お前、きついな」
「ふん、婚約者の前で別の娘に愛称で呼ばせる方がきつい」
しばらく、テーブルの上でカードだけが動く。
「ヒュ~~、だったか」
誰かがそれに合わせて軽く口笛を吹く。
「そこは覚えるなよ」
「もう遅い」
誰かが小さく笑う。けれどすぐ、窓の外へ目をやる。
通りをラドクリフ家の紋章が入った馬車が通り過ぎていった。乗っているのは使用人だろう。だが、その馬車を見送る目は、以前より少し冷めていた。
――助けた、守った、優しかった。
単にその三つで済ませるには、話の形がもう変わり始めている。
*
ラドクリフ家の台所では、昼前の湯がよく減る。
青の客間用のぬるい湯。薬湯を飲んだ後の湯。窓を開けた後に出す膝掛けを温めるための湯。夜間の呼び鈴に備えて、少量をすぐ出せるようにする湯。
以前から湯は使っていたが、加えて今は量と時刻が記録されるようになった。
それだけで、台所の空気は少し変わった。
「昨夜は三度でした」
若いメイドが、小さな帳面をミセス・ミュラーへ渡す。
帳面と呼ぶには簡素な紙束だが、時刻、用件、対応した者の名が並んでいる。
「水、寝具、眠れない、ですね」
「はい」
「三度目の時、濃い茶を求められましたか」
「いいえ。甘いものを少し、と」
「記入して」
メイドは頷き、鉛筆を走らせる。
――甘いものを希望。提供せず。ぬるい湯。
厨房の隅で、菓子を焼く担当の女が無言で小麦粉をふるっている。
ラドクリフ家では、普段から客人用の菓子を切らすことはない。だが青の客間へ出さないとなると、焼き上がった菓子の行き先が変わる。
奥様の茶、旦那様の書斎、来客用の控え。それぞれに振り分けられ、青の客間の盆《《だけが》》空になる。
「一つくらい、という話にはなりませんか」
若いメイドが小声で尋ねた時、ミセス・ミュラーは、帳面から目を上げ「なりません」と一言で斬った。
「でも、ヒューバート様が……」
「ヒューバート様のお言葉で菓子を出した場合も、記録に入れます」
その一言で、台所の手が少し止まった。
――記録に入れる。
それは、メイドたちにとっても重い言葉だった。
これまでは、アネットが弱々しく頼み、ヒューバートが頷き、奥様が許せばメイドは走った。
菓子皿を運ぶのも、湯を替えるのも、寝具を直すのも、自分たちの仕事だと思っていた。
だが今は、何時に誰が頼み、誰が許し、誰が運んだかが記録に残ってしまう。それは彼女達にとって、重い。
「南棟二階の寝具は?」
「二度洗いに出しましたが、香りがまだ少し……」
「窓は?」
「朝から開けています。昼に一度閉めます」
「押し花の本は?」
「棚の奥にございましたので、青の客間へ移しました」
ミセス・ミュラーは一つずつ確認し、印を付ける。
声を荒げる必要はない。記録があるだけで、屋敷の中に溜まっていた曖昧さが形を持つ。
――可哀想だから。
――今だけだから。
――落ち着いたら。
それらは、時刻と品名には変えにくい。
「ミセス・ミュラー」
菓子担当の女が、粉を払いながら振り返る。
「明日の午後、ロバート・グレイヴス卿の代理の方がお見えになると聞きましたが、お茶菓子は通常通りでよろしいのでしょうか?」
「ええ、来客用には必要です」
「青の客間のお嬢様も?」
「あの方も面談に同席される時間があるようです。ただ、お席へ菓子皿は置きません」
「中央卓にはどういたします?」
「無論、出します」
女は少しだけ眉を寄せる。ラドクリフ家の応接では、客を迎える卓に菓子を置かないわけにはいかない。しかも相手は、アネットの親族側にあたる家の代理だ。茶と菓子の支度は、家の体面でもある。
「砂糖漬けは避けましょうか?」
「そうですね、焼き菓子を中心に。砂糖衣のかかったものは少なく」
「承知いたしました」
ミセス・ミュラーは帳面を閉じる。
「給仕には、アネット様の小皿へ菓子を置かないよう伝えてください。求められた場合は、私へ確認を」
「はい」
返事はそろった。だが、その場にいた者たちは分かっている。
応接室に菓子が並び、アネットがそこへ同席する。そしてヒューバートも、おそらくその部屋にいる。
……それだけで、明日の午後にはやや不安が横たわる。
*
その午後、バーナード伯は書斎でロバート・グレイヴス卿からの書状を読んだ。封筒は簡素だが、文面は、遠慮がない。
――カーライル家の事情については、当方でも把握しております。
――男爵家の事業再建は、先月末の時点で難航しておりました。
――アネット嬢については、一時療養先の候補を用意し、迎えの手配も進めておりました。
――にもかかわらず、同嬢がラドクリフ家にて期限を定めず滞在していると聞き、事情を確認したく存じます。
バーナード伯は、便箋の角を押さえる。
ロバート・グレイヴス卿は、アネットの父方ではなく母方の親族筋にあたる。直接の当主ではないが、カーライル家の再建に関わる一族会議へ名を連ねている人物だった。
ラドクリフ家がアネットを預かった時、ヘンリエッタ夫人は「親戚の方も大変なのでしょう」と言った。バーナード伯もつい、細かな確認を後回しにした。
……後回しにしたものが、いま机の上に届いている。
部屋――返却――茶会。
そして、療養先。
どれも後回しにした結果、他家からわざわざ紙に記されて届く。
「明日の午後、面談を行うことになる」
バーナードは家令へ言う。
「出席者は、私と妻、ヒューバート、ミセス・ミュラー、医師。アネットは短時間のみ同席。医師の許可を取れ」
「ヴァルトハイム侯爵家へは?」
「一次返答に、面談予定を添える。必要なら、後日記録を提出する」
「承知いたしました」
「菓子は出すな、と言いたいところだが……」
彼は一度、言葉を止める。
「グレイヴス卿側の代理を迎える以上、茶は出すのは致し方ない。菓子も通常通り。ただし、アネットの小皿には置かない。ミセス・ミュラーにも伝えてあるはずだ」
「そのように」
家令が下がると、バーナード伯は椅子の背に寄りかかる。
息子を呼ぶべきだろう――か?。
だが、呼べばまたアネットの話になる。
……父として言い聞かせる言葉と、当主として記録へ残す言葉が、この数日で分かれ始めている。
そう思っている時に、扉の外で、足音が止まり、声がする。
「父上」
ヒューバートだった。
「入れ」
扉が開き、息子が入ってくる。いつもより表情が明るい。バーナードはその理由を、少し遅れて察した。
「アネットは、明日の面談に出られるのですね」
「短時間だがな」
「よかった。ずっと閉じこめられていては、彼女の気も滅入ります。人と話せば、きっと元気になります」
「……療養先について話す場だぞ」
「ええ。ですが、アネット自身の気持ちも聞かなければ! 彼女は、知らない場所へ行くのを怖がると思います」
「だから同席させる。本人抜きで決めたと言わせないためだ」
ヒューバートは、その言い方に少し眉を寄せる。
「そんな言い方をしなくても……」
「必要なことだ」
「……父上は、アネットを責めるおつもりですか」
バーナードは机の上の書状を見た。
責める――守る――助ける。
息子の言葉は、何故かまだそこを回っている。
「明日、責めるかどうかを決める場ではない。どこへ移すか、誰が責任を持つか、医師の指示をどう守らせるかを確認する場だ」
「彼女は物ではありません」
「だから、責任者が要るのだ」
ヒューバートは黙ったが、納得した顔ではない。
「お前は明日、余計なことを言うな」
「余計なこと? ……僕がですか?」
「アネット嬢のため、と言って話を曲げるな。カーライル家の事情も、グレイヴス卿側の手配も、こちらは確認不足だった。そこを認める」
「ですが、アネットは本当に不安で」
「不安なら、療養先で医師と管理者に見てもらうことだ」
「僕が!」
「何ができる。お前は責任者ではない」
ヒューバートの目が父へ向く。バーナード伯はその視線を真っ向から受けた。ここで逸らせば、また同じことになる。
「ヒューバート、お前は、アネットの親族ではない。しかも婚約者のある身だ。そんなお前が、他家の未婚令嬢の療養責任を勝手に背負える立場ではないだろう。まして、そのために婚約者の部屋と席を使える立場ではない」
「僕は、ただ……」
「明日、その『ただ』は使うな」
ヒューバートは唇を結んだ。
書斎の窓から、庭の向こうを通るメイドの姿に伯は気付く。白い布を抱え、南棟の方へ向かっている。
おそらく、また寝具だ。南棟二階から香りを抜くための洗いがまだ続いている。もう一度婚礼の部屋としてきちんとさせるには時間がかかりそうだ。
――その時間を、リーゼロッテ・エーレンフェルトは待ってくれるだろうか?
いや、答えは、照会状が来た時点でもう見えている。彼は机の上の紙を一つにまとめた。
「明日の午後、応接室を使う」
ヒューバートは小さく息を吐いた。
「アネットに、少しでも安心してもらえるようにしましょう」
まだ言うのか、と父は思ったが、もうわざわざ口には出さない。
「座っていろ」
「え?」
「安心させるためにはお前は決して動くな! 明日はもうただ座っていろ!」
ヒューバートは、父の言葉をしばらく理解できない様子で立っていた。
その姿を見て、バーナード伯はようやく思う。
――息子は、善意で立ち上がり、そのたびに誰かの席をずらしてしまう代物だ。




