21 こちらの席は、こちらで守る
エーレンフェルト家に、ヴァルトハイム侯爵家からの書状が届いた。
夕方の光がまだ廊下に残る時刻だった。家令ハルトマンが銀盆を持って書斎へ入り、父ウィリバルトは封蝋を確かめてから、家族を呼ぶよう命じた。
リーゼロッテは、母シュザンナとともに来た。
少し遅れてアドルフが入り、ヒルデガルドは外出先から戻ったばかりの帽子をアニーへ預けて席につく。
エーミールは厩から戻ってきた直後らしく、上着だけを替え、髪にまだ外の風を残していた。
「ヴァルトハイム侯爵家からだ」
父が書状を開く。便箋は二枚。添えられた写しは一枚だけだった。
「ラドクリフ家へ照会状が届いた。明日の午後、アネット・カーライル嬢の今後の療養先について、ラドクリフ家で内々の面談が行われる」
エーミールが眉を上げる。
「えええ、まだあちらにいるのですか」
「いる」
父は短く答える。
「出席者は、ラドクリフ伯夫妻、ヒューバート、医師、家政婦長、アネット嬢。カーライル家側の事情を知る者として、ロバート・グレイヴス卿の代理が入る。ヴァルトハイム家は、必要に応じて後日記録の提出を求める」
「で、こちらからは?」
アドルフが訊ねる。
「うちは呼ばれていない。それに呼ばれる場でもない」
父は便箋を机に置いた。
「あくまでアネット嬢の療養先を決める話だ。我が家が座る席ではない」
リーゼロッテは、その言葉を聞いて少しだけほっとする。
呼ばれるべきではない場に、我が家は出向かないという、その一線が引かれたことに、胸の中の力みがほどけた。
「それでよろしいと思います」
母も言った。
「こちらが見届けに行けば、今度はアネット嬢を責めに行った家、と見なされます。あの方の療養先は、あちらの責任で決めることですわ」
「だけど、うちの話でもある」
アドルフは椅子の背へ深く寄りかかる。
「妹の部屋に居着いた相手だ。茶会の席にも出てきた」
「だからこそ、こちらは間違えちゃいけないのよ」
ヒルデガルドが、帽子の箱へ目をやった。アニーが部屋の隅で、深藍のリボンが潰れないよう箱の向きを直している。
「アネット嬢が何を食べて、どこへ移されるか。そこへ話を寄せすぎると、こちらの主張の価値が減ってしまいますわ」
「価値が?」
エーミールが顔を向ける。
「ええ。《《可哀想な病弱令嬢がきちんと療養先へ行くかどうか》》。その話になってしまうでしょう。けれど、こちらが問うているのは、《《ラドクリフ家が婚約者の部屋と席をどう扱ったか》》ですもの」
父がうなずく。
「その通りだ」
ハルトマンが机の横へ、これまでの書類を並べる。南棟二階に関する確認状。ラドクリフ家からの曖昧な返答。マルヴィン伯爵夫人の書状の写し。ヴァルトハイム侯爵家への報告書の控え。
紙が並ぶと、感情で膨らんでいた話が、また三つの形へ戻る。
部屋――返却――茶会。
「父上、ロバート・グレイヴス卿という方は、まともな方のですか」
エーミールが訊いた。
「まあ、少なくとも、書状はまともだな」
父は添えられた写しを見る。
「カーライル家の再建が難航していたこと、アネット嬢の療養先を一族側で用意していたこと、迎えの手配が進められていたこと。その三点を明らかにしている」
「ラドクリフ家が止めていた、ということでいいのですか?」
「それを明日確認するのだろう」
一方、母は机の上の紙を一枚ずつ見た。
「ヘンリエッタ様は、可哀想な子を置いてやったと思っていらしたのでしょうね」
「母上」
アドルフが少し顔をしかめる。
「それも腹が立つな」
「ええ。わたくしも腹が立ちます。けれど、あの方がようやく分かり始めているなら、それは《《使う》》べきです。責任から逃げるためでなく、ラドクリフ家の中で事実を認めさせるために」
リーゼロッテは母を見る。
母の声は穏やかだが、軽くはない。茶器の位置を直す時と同じ確かさで、相手の逃げ道を一つずつ塞いでいく。
「アネット嬢が甘い菓子を好むとか、薬を嫌がるとか、そのあたりの話は、こちらでは扱わない方がよいですね」
ヒルデガルドも言う。
「ええ」
母がうなずく。
「病人の管理は、ラドクリフ家とカーライル家側、医師の問題です。こちらが言うべきことは、病人なら病人の部屋へ、婚約者の部屋は婚約者へ、ということです」
「うーん、簡単な話なのに」
エーミールがつぶやく。
「簡単な話を、簡単に扱わなかったからこうなったんだ。全く」
吐き出すようにアドルフが答える。父は、二人を見てからリーゼロッテへ向き直った。
「リーゼ」
「はい」
「明日の面談の結果は、侯爵家から必要な範囲で伝えられる。だが、結果がどうあれ、こちらの方針は変えない」
リーゼは、膝の上で重ねた便箋の角を見る。
ウォルフへ書きかけた手紙はまだ自室の机に置いてある。事実だけを書こうとして、何度も行を直した。
ロッテ、と呼ぶ声を思い出すたび、便箋の上の文字が少し幼く感じられる。
「婚礼準備の停止。ラドクリフ家からの接触は書面のみ。ヒューバート様からの私信は、開封前に母かハルトマンへ回す」
「そうだ」
「南棟二階の確認も、こちらからは行わない」
「行わない」
「ラドクリフ家が、あの部屋を婚約者の部屋として扱える状態へ戻せるかどうかは、ラドクリフ家の責任です」
父の目が少しだけ細くなる。
「よく分かっているな、リーゼ」
彼女はうなずく。褒められて嬉しい、というより、自分の言葉が家の言葉と重なったことが分かる。
「私が望むのは、アネット様が泣くことではありません。ヒューバート様が、私を好きだったのかどうかと悔やむことでもありません。あの方が何を悔やむかは、あの方の問題です」
アドルフは少し笑いかけて、すぐやめた。
「本当に単純なことなんです。ただ私は、婚約者として用意されていた席を、婚約者として扱ってほしかっただけです。使うなら事前に説明する。返すなら返す。茶会で別の方を伴うなら、私の名を使った席をそのままにはしない。そこを向こうが守らなかったことを、家の問題として認めていただきたいだけなのです」
母の膝の上では、閉じた扇が置かれ、ヒルデガルドは小さくうなずき、エーミールは何か言いたげにして、父の方を見てから黙った。
アドルフだけが、少し体を前へ倒す。
「それでリーゼ、お前は認めたら終わりか」
「いいえ、終わりません」
兄を見る。
「認めたうえで、この婚約を続ける理由があるのかを、あちらが示す結果となるでしょう」
「向こうに示せると思うか」
「思いません。無理でしょう」
即答だった。アドルフは、今度こそ笑った。声は出さない。けれど、口元が少しゆるんだ。
「よし!」
「兄上……」
「いや、すまん。よし、は家の外では言わない」
「家の中でも、あまり」
ヒルデガルドがすぐに釘を刺す。
「今のは、妹の答えがよかったという意味だ」
「そういうところですわ」
父が軽く机を叩いた。大きな音ではないが、それだけで話が戻る。
「明日、ラドクリフ家では面談が行われる。こちらは待つ。ただし、待つとは、何もしないことではない」
ハルトマンがすぐに新しい紙を一枚出す。
「侯爵家へ、本日中に受領の礼と、方針に変更がない旨を返す。文面は私が見る。ハルトマン、草案を」
「承知いたしました」
「シュザンナは明日の午後、予定通り、グレーフェ夫人の小さな集まりへ出てくれ」
「ええ」
「ヒルデガルドは、夫家の方で余計な心配をされないよう、同じ説明を使いなさい」
「部屋、返却、茶会、ですね」
「そうだ」
「アドルフは――」
「分かっています。男たちの席で余計なことは言いません」
「分かっているなら、もう一つ。ヒューバートを挑発するな」
アドルフは、一瞬だけ目をそらした。
「まだあいつには会っていません」
「会った時の話だ」
「……努力します」
「努力では足りん」
「承知しました」
エーミールが少し笑う。父の目がそちらへ向いた。
「エーミール?」
「僕も外では言いません」
「厩は外だぞ。馬も外だ」
「馬にも言いません」
「よろしい」
母がそこで、初めて少し笑った。リーゼロッテもつられて、わずかに口元を緩める。
家族会議という言葉には、重い響きがあるが、けれど、エーレンフェルト家のそれは、怒りを一つの形にそろえる場でもある。誰がどこで怒るか。誰がどこで黙るか。誰がどこで紙を出すか。
怒りは、散らすと噂になり、揃えると、家の方針になる。
「リーゼ」
母が声をかける。
「ウォルフ様への手紙はどう?」
「おいおいに」
「面談のことは?」
「書きません。まだ事実ではありませんから」
「それでいいわ」
彼女は自分の膝の上に視線を落とす。書くべきことが増えた。けれど、書かないことも同じくらい増えた。
ウォルフへは、事実を書くつもりだった。怒りを誇張せず、泣き言にせず、けれど薄めもしない。
ロッテ、と自分を呼んでくれる人に、今の自分を渡すなら、その形がよい。
やがて父は書状を畳み、ハルトマンへ渡す。
「明日の面談で、アネット嬢がどこへ行くかは決まるかもしれん。だが、リーゼの席が戻るかどうかは別の話だ」
その言葉で、部屋の中の全員の目が父へ向く。
「席は、空けば戻るものではない。扱いを誤った家が、どう戻すかを示さなくてはならない」
リーゼは、机の上の三つの書類を見る。
部屋――返却――茶会。
そこに、明日の面談はまだ加わっていない。
アネットの療養先も、菓子も、医師の指示も、こちらの根拠にはしない。
こちらの席をこちらで守るために、家族は今夜も同じ言葉を持って、それぞれの場所へ戻っていく。




