22 ロッテの手紙
リーゼロッテの机には、便箋が三枚並んでいた。
一枚目には、書き出しだけが。二枚目には、南棟二階の部屋について途中まで書かれている。そして三枚目は、まだ何も書かれていない。
インク壺の横に置いた吸取り紙には、濃い藍の小さな跡がいくつも残っていた。
アニーは燭台の位置を直し、窓際のカーテンを少し引く。
「お茶をお淹れいたしましょうか」
「ええ。薄くていいわ」
「かしこまりました」
アニーが下がると、部屋には紙の白さだけが残った。
廊下の向こうでは、家令ハルトマンが誰かに短く指示を出している。明日の面談について、侯爵家へ返す受領の礼状の支度だろう。
リーゼロッテは、最初の便箋を見る。
――ウォルフへ。
その五文字だけで、筆が止まってしまう。
ウォルフ・アルトハイヤー様、と書くのが正しいのだろう。
彼は今、子爵家の令息であり、今は北部の鉄道敷設の監督補佐として家を離れている。婚約者のある令嬢が、幼なじみへ私信を送るなら、そこに正しさは必要だった。
けれど、ウォルフは出立の日に、馬車寄せで言った。
――ちゃんと怒れよ、ロッテ。
あの時の声は、軽かった。軽く言わなければ、二人とも困ったからだ。
リーゼロッテには婚約者がいて、ウォルフはそれを知って身を引いた。だから彼は、心配も未練も、幼なじみの雑な言葉に押し込めた。
だが今は、その雑さがほしい。
リーゼロッテは、新しい便箋を一枚取る。そして宛名は最後に書くことにした。
まず、事実を書く。
マルヴィン伯爵夫人の茶会のことから書き始めかけて、線を引かずに筆を置く。
茶会だけを書けば、ただの醜聞になってしまう。
ウォルフはそれでも怒るだろう。だが、怒らせるために書くのではない。
南棟二階――返却――茶会。家族とそろえた三つを、同じ順番で置く。
そしてやっと、便箋の上に、字が並び始める。
――先日、ラドクリフ家を訪ねましたが、その時、婚礼後に私が使う予定だった南棟二階の部屋に、アネット・カーライル嬢という方が静養していました。
そこまで書いて、リーゼロッテは一度読む。
眠っていました、は違うと思った。眠っている姿を書けば、可哀想な娘の図になってしまう。静養していました、で充分だ。そこに何があったかは、ウォルフなら読みとってくれる。
――私の方に事前の説明はありませんでした。そしてヒューバート様は、私なら分かってくれると思った、とおっしゃいました。
この一文は決して消さない。
自分なら分かると思われたこと。その言葉で、部屋も、呼称も、茶会の席も、すべて渡されると思われたこと。
そこが何より腹立たしい。
アニーが茶を運んで戻ってくる。薄い茶の香りが机の横へ置かれた。砂糖壺はある。ミルクもある。だがリーゼロッテは何も入れず、ひと口だけ飲む。
「お続けになれますか」
「ええ」
アニーは机の端に置かれた書き損じへ視線を落とし、それ以上は訊かない。リーゼロッテは次の行を書く。
――その後、部屋はなかなか返されませんでした。病人を青の客間へ移すことは可能だったにもかかわらず、私物が残り、整理は本人の確認を待つという理由で止められていました。
私物の名前を書くか迷う。
だがウォルフは、白い帽子を見なくても分かるだろう。南棟二階に、別の娘の持ち物が残っていたという事実で十分だ。
――三度目は、マルヴィン伯爵夫人の茶会でした。当初、ヒューバート様の同伴者として私の席が用意されていました。夫人はそう招待したはずでした。ところが実際に伴われたのは、アネット嬢でした。
ここまで書くと、便箋の上の字が少し詰まる。リーゼロッテは吸取り紙を寄せ、行の端を押さえる。インクの濃さが紙へ移り、アニーが替えの燭を用意している音がする。
――アネット嬢は、ヒューバート様を愛称で呼んでいますが、ヒューバート様はそれを訂正しません。私が呼称を正すと、そこまで言うことか、とおっしゃいました。
――そこまで言うことか。
その言葉を、便箋の上で見ると、怒りが再び腹の底からわき上がってくる。
部屋も、返却も、茶会の席も、呼称も、彼の中ではそこまでのことではないのだ。
弱い娘を助けた。強い婚約者なら分かる。妻になる女なら、夫の優しさを支える――ただそう思って。
リーゼロッテは、次の行へペンを置く。
――私は、あくまで婚約者として礼を尽くすつもりでいました。王家の意向があり、家同士の責任がありました。ですが、それは、私の席を誰かへ譲る約束ではありません。
この文は、茶会で口にした言葉に近い。
ウォルフへ書くなら、もっと崩した言い方もできる。腹が立つ、とだけ書いてもよい。ウォルフは、きっと分かるだろう。
けれど、その一言で済ませれば、自分が何に怒っているのかを、また誰かに預けることになる。
だがリーゼロッテは、預けたくない。この怒りはあくまで自分のものなのだ。
「お嬢様、お茶を替えましょうか」
「このままで」
首を振る。
「はい」
次は、現在の手順を書く。
――父は、ヴァルトハイム侯爵家へ正式に報告しました。侯爵家からラドクリフ家へ照会が届き、明日、アネット嬢の今後の療養先について内々の面談が行われるそうです。
アネットの菓子や薬の話、青の客間で何が起きているかは除外した。そしてカーライル家の再建が難航していることは、まだ伝聞の範囲だ。
ウォルフへ渡すのは、確かなものだけでよい。
――私は、その場には出ません。そもそも出るべき場でもありません。アネット嬢がどこへ行くかは、ラドクリフ家とカーライル家側が決めることです。
ここでペンが止まる。
では、自分は何をするのか?
待つ、と書くのは違う。
待つだけではない。家は動いている。父は書状を出し、母は社交で線を引き、兄と姉と弟はそれぞれの場所で同じ説明を持っている。
リーゼロッテ自身も、ヒューバートからの私信を直接受け取らないと決め、そして婚礼準備は止まっている。
事態は動いている。
リーゼロッテは、次の行を書く。
――私は、婚礼準備を止めています。ラドクリフ家からの接触は、すべて書面で受けることになりました。父も母も、私の怒りを正しいものとして扱ってくれています。
書いてから、少しだけ目を閉じる。
――怒りを正しいものとして扱ってくれている。
その一文は、ウォルフへ一番伝えたいことかもしれない。心配しないで、と書くより、ずっと合っている。
自分は一人で我慢していないし、家の中で、冷たい女扱いも、嫉妬した女扱いもされていない。怒っていいと、言われている。
そして便箋の最後に、少し余白が残った。彼女はそこへ何を書くか迷う。
幼なじみとしての話を書けば、手紙の温度が変わるだろう。
――北部の寒さはどうか。鉄道の工事は順調か。食事はちゃんと取っているか。
そういう言葉は、自然に出る。けれど、今の手紙にそれを添えると、別の意味が乗ってしまうだろう。婚約者のある令嬢として、距離は守らなくてはならない。
それは、ウォルフが先に守ってくれた距離だから、リーゼロッテも守る。
だからただ、こう書く。
――あなたが出立の日に言ったことを、覚えています。私は、順番を守って怒っています。
そこでリーゼロッテはペンを置いた。アニーが、そっと吸取り紙を差し出したので、便箋へ当て、インクを落ち着かせる。
「封をなさいますか」
「ええ」
「宛名は」
新しい封筒を取り、表には、きちんと書く。
――ウォルフ・アルトハイヤー様。
差出人には、リーゼロッテ・エーレンフェルト。ロッテではない。
その名は、相手の声で直に呼ばれるもので、封筒に書くものではなかった。
蝋を垂らし、エーレンフェルト家の小さな印を押す。封をした手紙は、机の上でまっすぐに置かれた。アニーがそれを銀盆へ載せる。
「明朝、北部行きの便へ?」
「ええ。父へ確認してから出して」
「承知いたしました」
アニーが手紙を持って下がる。
扉が閉まると、机の上には書き損じの便箋だけが残った。
ウォルフへ、と書いた一枚目。途中で止めた二枚目。何も書かれなかった三枚目。リーゼロッテは、それらをまとめて箱へ入れる。
送る手紙は一通だけでいい。泣き言ではなく、知らせるため。助けを呼ぶためではなく、自分が怒っている場所を間違えないために。
北部へ届くまでには、何日かかかる。
その間に、ラドクリフ家では面談が行われるだろう。
アネット・カーライルの療養先が決まるかもしれない。ヒューバートはまた、自分の優しさを言葉にするかもしれない。
けれど、それはもうリーゼロッテが座る席の上で行われる話ではない。
リーゼロッテは、冷めた茶を飲み干す。
苦みが彼女の舌の上に、薄く残った。




