23 甘いものがあれば
青の客間の朝は、淡い。
茶も、光も、声も、何もかもが淡い。南棟二階にいた時のように、窓から庭の明るさが入り込んでくることはない。青いカーテンを通った光はただ無表情に白っぽく、寝台の掛布に落ちても、少し冷えた色に感じる。
アネットは、カップの中の茶を見る。
茶葉を惜しんだような色だった。温めた牛乳を足しても、物足りない。
砂糖壺は今日もない。菓子皿もない。銀の小さな匙だけが、使い道をなくした顔でトレイの端に置かれている。
「こんなの、お茶じゃないわ……」
小さく言ったつもりだった。けれど、部屋の隅にいたメイドが顔を上げる。
「お取り替えいたしましょうか?」
「同じものなのでしょう」
「医師の指示でございます」
――医師の指示。
この部屋では、その言葉が一日に何度も出てくる。窓を開ける時も、薬を飲む時も、昼寝を止められる時も、夕方の茶を薄くされる時も。
誰もアネットに意地悪をしている訳ではない。叱りもしない。ただ、医師の指示です、と言って、欲しいものをトレイから消していく。
アネットはカップを置いた。
飲まなければ記録される。飲んでも甘くない。どちらにしても、胸のあたりがざわざわした。
……甘いものが欲しい、とその時彼女は、切実に思った。
舌の上に砂糖の甘みが触れると、身体の奥で騒いでいたものが少し静かになる。
薬の苦さも、夜に眠れない焦りも、朝起きた時の重さも、父から届かない手紙のことも、全部やわらかい布に包まれるような気がした。
昔からそうだった。カーライル家の屋敷では、廊下の奥の部屋に父の客がよく来ていた。事業の話だと聞かされていた。父は大丈夫だと言い、母は疲れた顔で笑い、アネットにはいつもそんな時、甘い菓子を持たせた。
――お客様の邪魔をしてはいけないわ。
――いい子だから、今日は部屋で休んでいなさい。
――あなたは身体が弱いのだから、無理をしないで。
そしていつも皿の上には、砂糖をまぶした小さな焼き菓子があった。
食べると、廊下の向こうで低く続く声がほんのりと遠くなった。
父が少し大きな声を出しても、母が客を送り出した後に椅子へ座り込んでも、口の中が甘ければ、怖いものは彼女に近付いては来なかった。
そのうち、屋敷の使える部屋が減った。
西側の客間は閉められ、二階の古い部屋には布がかけられた。
庭師は週に来る日が減り、母のドレスはいつまでも同じものだった。父は「もう少しだ」といつも言っていた。そして今度も。
――再建のめどが立てば、きちんと迎えに行く。落ち着いたら、アネットの療養にもよい場所を探すから。
もう少し、という言葉は、いつも手に届かない場所にあった。
だから、ラドクリフ家でヒューバートに会った時、アネットはほっとした。
ヒューは、昔と同じように自分を見てくれた。
庭で迷った子どもの頃のことを覚えてたし、顔色が悪いと言って、椅子を引いてもくれた。
寒いだろうと膝掛けを持ってこさせ、。食事が喉を通らないと言えば、甘い茶ならどうかと聞いてくれた。
この家にやってきた時、アネットは本当に疲れていた。
馬車に揺られてやってきた知らない屋敷。
父からの返事もはっきりせず、母方の親族が用意した療養先の話も、どこか遠い人たちが勝手に決めた場所のように思えた。
だけど、ラドクリフ家の南棟二階は、明るかった。
日当たりがよく、風も穏やか。寝台の布は柔らかく、窓辺に詩集を置けば、自分のための部屋に見えた。
香水瓶を棚に置き、白い帽子を椅子に掛け、菫色の造花を鏡台のそばへ飾る。そうしているうちに、帰らなくてよい理由が一つずつ増えた。
そしてヒューは、構わないと言ってくれた。
……正確には、一晩だけと言われた気もする。体調が落ち着くまで、とも言われたかもしれない。青の客間へ移る話も出た。
けれど、不安だと訴えると、ヒューは必ず困った顔をした。困った顔をして、少しだけ待とう、と言ってくれた。
――少しだけ。
その少しが、今の彼女には必要だった。
だがリーゼロッテ・エーレンフェルトが来た日のことを思い出すと、アネットは喉の奥が詰まるような気がする。
深い色のドレス。きちんとした帽子。まっすぐな声。
彼女は部屋に入ってきた瞬間から、ここが自分の場所だと知っている表情をしていた。
その時アネットは寝台の上にいた。起き上がろうとして、ヒューの名を呼んだ。
怖かったのだと思う。知らない女の人が、自分の周りに置いたものを一つずつつぶさに見ていた。帽子も、詩集も、香水瓶も、全て。
――きっと責められる!
だから、弱く見えるように声を出した。昔から、そうすれば大人たちは少し優しくなってくれた。
――具合が悪いのね。無理をしてはいけないわ。今は休みなさい。
そう言って、部屋の話やお金の話や、迎えの話を少し後にしてくれた。
けれど、リーゼロッテは違った。
彼女は、アネットの顔色より先に、ただ部屋を見た。
寝台を見て、窓を見て、メイドの動きを見た。
甘い茶を飲めるかどうかではなく、薬の時間を誰が守るのかを聞いた。静養館の夢を話せば、夜番の人数を聞いた。
――夢を語る前に、借りた部屋を返してください。
そう直接言われたわけではない。けれど、リーゼロッテの言葉はいつもそこへ向かっていた。だからアネットは、あの人が苦手だった。
リーゼロッテの前では、自分が弱いと言っても、すぐ別の形に変えてくる。
――弱いなら、医師を。
――病人なら、客間を。
――不安なら、責任者を。
――滞在するなら、期限を。
どれも正しいのだろう。そして、正しいから、アネットには逃げ場がない。
彼女は膝の上の上掛けを整え、窓の方を向く。
庭は遠い。南棟二階の窓から見えた庭の風景とは違う。ここからは、門へ続く道の一部が見えるだけだ。
――明日の午後、面談がある。
ミセス・ミュラーがそう告げてきた時、アネットは一度、問い返した。
自分の療養先を決めるための話だという。ラドクリフ家の当主夫妻、ヒューバート、医師、ミュラー夫人、グレイヴス卿の代理。アネット本人も、短い時間だけ同席することになっていると。
――短い時間だけ。
自分の話なのに、まるで自分の方が客のようだった。
グレイヴス卿の代理という言葉が、胸に重く残っている。あちらへ行けば、療養先があるのだろう。医師がいて、決まりがあって、静かな部屋があるのかもしれない。
でも、そこにヒューはいない。
父も、すぐには迎えに来られないだろう。いつも、何とかなったら、と言っていた。
アネットはその言葉を信じていた。信じるしかなかった。
けれど、ラドクリフ家の書斎で大人たちが話す声を聞いてから、その「何とか」は、自分が思っていたよりずっと遠くへ行ってしまった気がする。
――なら、ここに残りたい!
その気持ちは、口にすると卑しく聞こえるだろう。だから、言い方を変えなければ。
――まだ移動が不安なのです。
――知らない場所では、眠れないと思うのです。
――ヒューがいてくださると、落ち着くのです。
――もう少しだけ、ここで静養させていただけませんか。
そう言えば、ヘンリエッタ奥様はきっと迷う。少なくとも以前なら、頷いてくれた。……今は少し変わってしまったけれど、あの方は根が優しいからきっと。そしてヒューは必ず庇ってくれる。
アネットは鏡台へ目を向ける。白い帽子が置いてある。
昨日、紐が少しきつかった。メイドは洗っていないと言った。
――結び方が悪かったのだ。
そう思うことにした。菫色の造花は、青の客間では色が沈んで見える。明日は応接室へ出るのだから、髪に挿してもよいかもしれない。
病人らしく、けれどみすぼらしくなく。弱く、けれど失礼にならないように。ヒューが見て、守らなければと思う姿で。
だがそう考えてながら、アネットはふと唇を噛んだ。ここ数日、その姿を保つのが難しいのだ。
菓子がないだけで、声が尖り、薬を出されるだけで、胸の中が騒ぎ、メイドの返事が少し遅いと、言葉が先に出てしまう。
そしてあとから謝っても、ミセス・ミュラーの紙には時刻と内容が残ってしまう。
――わたしは、こんな子ではなかったはず。
アネットはそう思う。
もっと儚く笑えた。もっと上手に、申し訳なさそうにできた。誰かが困った顔をすれば、すぐ「わたしのせいで」と言えた。そうすれば、皆が勝手にアネットを責めるのをやめた。
だけど今は、その言葉を出す前に、甘いものが欲しくなる。
口の中が空っぽで、物足りなくて、頭の中まで乾いていく。
――砂糖があれば落ち着くのに!
そう、小さな焼き菓子が一つあれば、明日の面談だってきっと上手にできる。
リーゼロッテの名前が出ても、グレイヴス卿の代理が厳しい顔をしても、ヒューの方を見て、弱く微笑めるはず。
なのに。
砂糖は、そのために必要なものなのに、どうして誰も分かってくれないのだろう?
扉が叩かれ、メイドが夕食の盆を持って入ってきた。柔らかく煮た野菜、白い魚、小さなパン。湯気はある。香りは薄い。
そして、甘いものはない。
「明日に備えて、今日は早めにお休みくださいとのことです」
「誰が?」
「医師でございます」
アネットは笑いそうになった。医師。医師の指示。医師が止めています。医師に伝えます。
医師は、アネットが明日どんな顔で座ればよいかなど知らない。
「食べられません」
メイドは少し困った顔をした。
「では、量を」
「記録するのでしょう」
「はい」
その返事の早さに、アネットの胸がまたざわつく。
「もういいわ。置いていって」
「お薬もございます」
「後で飲むわ」
「食後に」
「後でと言ったでしょう」
声が響いて、部屋に当たる。
メイドは盆を持ったまま固まった。アネットは即座に顔を伏せる。
――しまった。
けれど、謝る言葉が出てこない。謝ればまた、弱い自分の形を作らなければならない。
なのに今はその形を作るだけの甘さが足りない。
やがて少し遅れて、ミセス・ミュラーが入ってくる。
「お食事の量を確認いたします」
「……食べます」
アネットは魚を一口取る。味は薄い。飲み込むまでに時間がかかる。
「お薬は食後に」
「分かっています」
ミセス・ミュラーは、それ以上は言わない。ただ、紙へ何かを書き入れる。
アネットは魚をもう一口食べ、パンを小さく割った。パンは口の中に入れても、いくら噛んでも甘くならない。噛めば噛むほど、明日の応接室が頭に浮かぶ。
――客人が来るなら、茶が出るわ。
ラドクリフ家の応接室なら、菓子が出るだろう。
中央卓に、白い皿が並ぶはず。焼き菓子、砂糖漬け、果物の小さなタルト。
アネットの小皿には置かれないかもしれない。でも、そこにはある。
――目の前にあるなら、一つくらい。
明日は面談だ。体調を整えるために、少しくらいなら許されるはずだ。
緊張している病人に、誰も厳しいことは言わないだろう。ヒューもいる。彼なら、きっと。
アネットはパンを飲み込む。
明日は、ちゃんと弱く、ちゃんと可哀想に見せなければならない。
そう思うほど、頭の中に砂糖をまぶした焼き菓子の白さだけがぼんやりと、だけど次第に濃くなっていった。




