24 面談には、菓子が出る
ラドクリフ家の応接室には、昼過ぎから茶の支度が整えられていた。
中央の卓には、白い皿が三枚。
焼き菓子、乾かした果物を薄く挟んだ小さな菓子、砂糖衣を控えめにかけた丸い菓子。ミセス・ミュラーは最後の皿を見て、菓子係へ視線を向けた。
「砂糖衣は、これだけで」
「はい」
「アネット様の小皿には置かないように。お求めがあった場合は、私へ」
給仕に入るメイドたちが、順に頷く。
応接室は、青の客間とは違う。客を迎える部屋に茶菓子を出さない家はない。だが今日の茶菓子は、アネットのためにはない。
壁際には医師が座る椅子が用意され、机の端には記録用の紙が置かれている。
バーナード伯は書斎から書類箱を運ばせ、封を切った書状を一つずつ確かめた。カーライル家の状況、グレイヴス卿側の療養先候補、医師の診断、青の客間での生活記録。
紙の厚みが増えるほど、数日前まで「可哀想な客人」で済ませていたものが別の形になっていく。
ヘンリエッタ夫人は、窓際の椅子に座り、膝の上の扇は閉じたままだった。
応接室に菓子を並ばせることには、最後まで迷いがあった。
けれど来客の体面を削れば、また別の失礼になる。ミセス・ミュラーは、アネットの皿へは置かないという一線を引き、夫もそれでよいとした。
……問題は、息子の目にその線が見えるかどうかだった。
そしてこの日も、ヒューバートは部屋の入口近くに立ち、何度も廊下の方を見ていた。
「アネットは、まだですか」
「医師が様子を見てから連れてくる」
バーナード伯は書類から目を上げずに答える。
「長く座らせない方がよいと思います。彼女は緊張していますから」
「だから短時間だ」
「でしたら、先に安心させて」
「座れ」
ヒューバートは口を閉じ、父の向かいに置かれた椅子へ腰を下ろした。だが身体は扉の方を向いたままだった。
*
先に来たのは、グレイヴス卿の代理だった。
名をエドガー・ライスという。年は四十前後、黒い上着に余分な飾りはなく、鞄も小さい。
ロバート・グレイヴス卿の名代として挨拶を述べ、バーナードとヘンリエッタへ頭を下げる。茶の用意を勧められると、礼を述べて椅子へ座った。
「本日は、アネット・カーライル嬢の今後について、事実を整理できればと存じます」
ライスの声は低く、聞き取りやすい。責めるために来た声ではない。けれど、甘くもない。
「こちらこそ、確認を怠りました」
バーナード伯はまず最初にそう言った。夫人は夫の横顔を見る。昨日までなら、この一言を聞いただけで胸が詰まったかもしれない。だが今日は、違う。詰まるより先に、必要な言葉だと感じた。
扉が開く。医師が先に入り、その後ろからアネットが現れた。この日は淡い灰色のドレスを身につけ、白い帽子はない。
髪には菫色の造花が一つだけ挿されていて、顔色も悪くない。むしろ、ここ数日の規則正しい食事と薬で、頬に色が戻っている。
アネットは部屋の中へ入るなり、ヒューバートを見た。
「ヒュー」
声は細い。練習してきたように、少し頼りなく。それを聞いて、ヒューバートが立ち上がりかける。
「座っていろ……!」
父伯爵の声が先に届く。
ヒューバートは椅子に戻る。アネットの視線が、ほんの一瞬だけ揺れた。助けに来るはずの人が、今日は椅子の上に縫い止められていることに戸惑っているかのように。
ミセス・ミュラーはアネットを席へ案内する。中央のテーブルから少し離れた椅子だった。小さな茶卓には、薄い茶と湯だけが置かれ、菓子皿はない。
アネットは、そのことにすぐ気づいたが、今は文句を言わない。膝の上に畳んだナプキンを置き、かすかに微笑む。
「ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」
夫人は、その微笑みをどう受け止めるべきか戸惑った。
以前ならすぐに、「そんなことはないわ」と言えた。だが今日は言葉が出ない。実際、迷惑はあったのだ。部屋にも、使用人にも、リーゼロッテにも。
ライスが鞄から書類を出す。
「まず、カーライル男爵家の現状について申し上げます。再建の見通しは、先月末の時点で大きく変わりました。出資者との条件がまとまらず、男爵家は一族の管理下に入ります」
アネットの微笑みが少し薄くなる。
「管理下、とは」
「当面、屋敷の使用範囲を縮小します。維持できる部屋は、今の四分の一程度になる見込みです。使用人も減らし、客間は閉めなくては無理でしょう。ですから、療養に適した部屋を男爵家内で整えることは難しい状況です」
「四分の一……」
アネットは聞き返した。ライスは頷く。
「貴女がご実家へ戻るとしても、以前のような静養はできません」
「そんな状態なら、なおさらアネットを戻すべきではありません」
ヒューバートは即座に口を開く。
「ヒューバート!」
バーナード伯は息子の名を呼び、止める。
「いえ、そのため、グレイヴス卿側で療養先を用意しておりました。母方の親族が関わる地方の屋敷です。医師の出入りがあり、食事と薬の管理も可能です。すでに一室を空けています」
アネットは膝のナプキンを見た。白い布に、細かな刺繍がある。ラドクリフ家のものだ。ここでは当たり前に出てくるものが、実家ではもう出ないかもしれない。
「あの、わたし、知らない場所では眠れません」
「初めは管理者が付きます」
「知らない人ばかりでは――」
「ご希望があれば、女性の付き添いを一名手配します。ただし、専属の侍女ではありません。療養先の規則に従っていただきます」
「規則……」
青の客間と同じ言葉が、また出てくる。
アネットの視線が中央のテーブルへ動く。白い皿には並んだ焼き菓子があった。丸い表面に、薄い砂糖衣がかかって、光を受けて、小さく白く見える。
ライスは続ける。
「迎えの馬車については、以前にも手配が進んでおりました。ですが、カーライル嬢のご体調が整わないという話と、ラドクリフ家で静養中との連絡を受け、日程が延びていました」
伯爵はミセス・ミュラーを見る。
「その連絡は、誰が?」
「奥様から、カーライル家へ一度。以後は、ヒューバート様がアネット様の不安を理由に、日程を急がないようお話しされたと聞いております」
ヒューバートが椅子の上で身じろぎする。
「僕は、彼女の体調を考えて」
「体調については、医師から申し上げます」
伯爵は不服そうに息子の言葉を遮る。医師が記録紙を開く。
「カーライル嬢は、移動できない状態ではありません。長距離の馬車は負担になりますから、休憩を挟む必要がありますが。食事、薬、睡眠の管理を続けることを条件とすれば可能です」
「でも、わたしはまだ――」
アネットが言う。
「まだ、不安で……」
「不安についても、療養先で対応できます」
医師の返事は淡々としている。
「現在の不調には、睡眠の乱れ、食事の偏り、甘味への依存、薬の飲み残しが関わっています。ここ数日で食事と薬を整えたところ、顔色は改善しています」
――顔色。
その言葉で、アネットの視線がライスから外れ、中央卓の皿へ戻る。
焼き菓子の縁が少し崩れている。一つ取れば、指先に粉がつくだろう。口に入れれば、舌の上でほどけるだろう。
今は指先のことなど考えなくていい。食べれば落ち着く。きっと、もっと上手に話せる。
「アネットは、元気になってきているのですね」
ヒューバートが、ほっとした声を出したので、医師は彼を見る。
「改善しています。ただし、これは菓子と濃い茶を控え、薬を服用し、眠る時間を整えた結果です」
「食べられるようになったなら」
「食べるものを選ぶ必要があります」
ヒューバートは、少しだけ不満そうに黙った。ライスが次の書類を出す。
「療養先の規則をお読み上げします。起床、食事、薬、診察、午後の休息、外出範囲。菓子類は医師の許可がある時のみ。茶は薄いものを昼まで。夕方以降は原則として湯か薬湯です」
アネットは、耳で聞いているふりをする。
菓子類は医師の許可がある時のみ。青の客間と同じだ。ここを出ても、同じことが続く。
知らない屋敷で、ヒューもいない場所で、砂糖壺のない茶を飲む。薄い粥を食べる。薬を残せば記録される。眠れないと言っても、ぬるい湯しか出ない。
――ラドクリフ家に残りたい。
その言葉が口まで上がる。だが、言えばどうなるか分かっている。父も母も、グレイヴス卿側も、ラドクリフ伯も、医師も、同じ顔で規則を出す。ヒューだけが違う。けれど今日は、彼は座っている。
「少し、お茶を」
夫人が言った。声が硬い。面談が長くなり、アネットの顔つきが変わってきたことに気づいたのだろう。
給仕のメイドが動く。来客の茶を替え、ライスの前に小皿を置く。伯爵の前にも、夫人の前にも、焼き菓子が一つずつ置かれ、ヒューバートの前にも置かれた。
アネットは、それを見た。見てしまった。皆には菓子が、自分にはただ、湯が。
ヒューバートは、自分の小皿を見てから、アネットの方を見る。
「あの、彼女にも、少し」
「ヒューバート様」
ミセス・ミュラーの声が届く。
「医師の指示でございます」
「そんな、今日くらい」
「今日も、です」
そのやり取りの間に、アネットの視界に、ヒューバートの小皿が少し近く感じられてくる。中央のテーブルの皿は、もっと近付いてくるようだ。
手を伸ばさなくても、立てば届く。立たなくても、給仕が近くにいる。
――違う。今日は弱く見えなければならない。
アネットは膝のナプキンをつかむ。布の刺繍が爪に引っかかった。呼吸を細くする。微笑む。目に涙を溜める。ちゃんと可哀想に見えるように。
けれど、焼き菓子の匂いがする。
バターと砂糖の匂い。朝から薄い茶と魚と粥ばかりだった口の中が、その匂いだけで動いてしまう。
頭の中で、ライスの声が遠くなる。医師が何かを言っている。父と母の名が出る。男爵家の管理、療養先の規則、迎えの馬車。
全てが遠い。白い皿だけが、はっきり見える。
「アネット?」
ヒューバートの声が上がる。アネットは立ち上がっていた。
彼女は自分で立ったのに、どこかで誰かに押されたような気がしていた。
ミセス・ミュラーが動く。医師も顔を上げる。けれど、アネットはその動きは目に入らず、そのまま中央テーブルのそばへ行き、丸い菓子を一つ取った。
「アネット様……!」
ミセス・ミュラーの声が近い。
「お控えください――!」
――一つだけ、なら。
アネットはそう思った。そして口に入れる。
砂糖衣が割れて、甘さが口の中に一気に広がる。
目の前の応接室が少し明るくなり、肩の力が抜ける。喉の奥で固まっていたものがほどける。
――一つで、少し戻れるのだもの、もう一つ。
また焼き菓子を取る。半分に割るつもりで、割らずに口へ入れる。粉が膝のナプキンに落ちた。
誰かが名前を呼んだ気がする。
ライスは書類を伏せ、ヘンリエッタ夫人が立ち上がる。
そしてアネットが三つ目へ目を向けた時、菓子皿が遠ざけられた。ミセス・ミュラーが皿を持ち上げていた。
「もう十分でございましょう……」
「返して!」
声が、応接室に響いた。
アネットは自分の声だと分かるまで、ほんの少しかかった。いつもの高く、細く作った声ではない。青の客間で薬を出された時に出た声より、もっと大きく、硬い。
「一つだけでは、落ち着かないの……!」
「お座りください」
「返して! 明日から行くなら、今日くらい……!」
ライスの前で、バーナードの前で、医師の前で、言ってはいけない言葉が次々と出ていく。
だが止めようとしても、甘さがまだ口の中にある。
もっとほしい。もう少しあれば、さっきの自分に戻れる。弱く、可憐で、申し訳なさそうに笑える自分に。
ミセス・ミュラーは皿を給仕へ渡すが、アネットの視線はそれをひたすら追って行く。
――その時。
「アネット、食べられるようになったんだね」
明るく、ヒューバートの声が、その場に響いた。
ヘンリエッタ夫人は思わず息子の方を見た。ヒューバートは本当に安心した顔をしていた。菓子へ伸びるアネットの体も、膝に落ちた粉も、応接室の全員が止まったことも、彼の目には同じ形で入っていない。
「よかった。ずっと食べられないと言っていたから、心配していたんだ」
それを見た医師が、首を小さく横に振りながら、低く言う。
「ヒューバート殿、これは改善ではありません」
「ですが、食欲が……」
「食事ではありません」
ヒューバートは医師を見る。その目は、まだ分かっていない。
アネットはそこで、ようやく自分の膝を見る。白いナプキンには粉が散っている。菫色の造花が髪から少しずれ、頬の横で揺れていた。
口の中にはまだ甘さが残っていた。けれど、その甘さはもう今の自分の形を助けてくれない。
ライスが静かに書類を閉じる。
「なるほど、療養先では、甘味の管理が必須になりますね」
医師が頷く。
「はい。移動後も継続すべきです」
「わたし――」
アネットは言いかける。わたしはそんなつもりでは、と言うはずだった。けれど、口の端に砂糖が残っている気がして、言葉が詰まる。
ミセス・ミュラーがぬるい湯を差し出す。
「お口をすすいでくださいませ」
その声は丁寧だ。丁寧で、逃げ場がない。
一方、夫人は、アネットではなくヒューバートを見た。
息子はまだ、椅子から少し身を乗り出していた。アネットを案じる顔のまま、父の制止がなければ今にも立ち上がりそうだった。
彼には、菓子皿が遠ざけられた理由が見えていない。アネットが止まれなかったことより、彼女が食べられたことを喜んでいる。
そして気付く。数日前まで、自分も似たような目をしていた。
――可哀想な子が食べられた。
――少し元気になった。
――甘いものくらい、慰めになる。
そう思っていた。
けれど、今の応接室では、その考えが粉砂糖のように散らばって見えた。
膝のナプキン、伏せられた書類、中央卓から下げられた皿、医師の固い声。どこを見ても、慰めという言葉では包めない。
「ヒューバート」
夫人は息子の名を呼ぶ。
「座っていなさい」
「母上、アネットが」
「座っていなさい!」
二度目の声で、ヒューバートは口を閉じ、バーナード伯はライスへ向き直った。
「面談を続けましょう。アネット嬢には、医師の判断で青の客間へ戻っていただく」
「承知しました」
ライスは書類を開き直す。
「療養先への移動について、グレイヴス卿側は三日後の出発を提案します。途中で一泊を挟み、医師の指示書を携行します。付き添いは女性管理者一名、メイド一名。ラドクリフ家からの同行は不要です」
「不要ですって?」
ヒューバートが声を出す。
「僕が同行すれば、アネットも安心しますが」
「不要だ」
即座に伯爵は却下する。
「しかし」
「お前は婚約者のある身だ。これ以上、他家の未婚令嬢の療養に関わるな」
「婚約は……」
ヒューバートの言葉がそこで止まる。言いかけた先に、何があったのか。
――リーゼなら分かってくれる。
――リーゼは強い。
――アネットには僕が必要だ。
そのどれも、今日の応接室には相応しくない。
アネットは椅子へ戻される。膝のナプキンは替えられ、湯が渡された。
菫色の造花は、ミセス・ミュラーがそっと直した。アネットはさっき皿を追った身体の力が、今は抜け、抵抗する様子もない。
「……わたし、具合が」
「青の客間へお戻りください」
医師が立つ。
「面談の続きは、本人同席の必要がある部分のみ、後ほど書面で確認します」
「でも、わたしの話なのに」
「今は休む時間です」
――休む。
アネットは、その言葉を聞いても安心できない。
休めば守られると思っていた。けれど今は、休む場所へ戻される。菓子のない部屋へ。砂糖壺のない小卓へ。記録紙のある寝台脇へ。
メイドが扉を開ける。
アネットは立ち上がり、ヒューバートを見る。
彼は、父に止められ、母に止められ、椅子に座ったままこちらを見ている。
目だけは優しい。だがその優しさが、今日は何の役にも立たない。
「ヒュー……」
呼ぶと、彼の表情がゆるむ。
「大丈夫だよ。きっと元気になる」
アネットは、その返事を聞いて、初めて少しだけ怖くなる。
元気になりたいのではない。戻りたいのだ。甘いものがあって、ヒューが来て、誰も記録しない部屋へ。
けれど、その部屋はもうない。
青の客間へ向かう廊下で、菓子の甘さが口の中から少しずつ消えていく。
残るのは、ぬるい湯の味と、応接室に残してきた白い皿の光だけだった。




