25 夫人は、帰れない
応接室から下げられた菓子皿は、台所へ戻る前にミセス・ミュラーが数を確かめた。
ヘンリエッタ夫人は、その報告を廊下の端で聞いた。
丸い菓子が二つ、焼き菓子が一つ。アネットの小皿には置かれていなかったものだ。中央テーブルから取られ、止められる前に口へ運ばれ、粉をナプキンへ落としたもの。
数を聞いただけで、応接室の光が戻ってくる。
アネットの「返して」という声。医師の「食事ではありません」という低い声。
そしてヒューバートの、場違いなまでに明るい声。
――食べられるようになったんだね。
ヘンリエッタは、自室へ戻った。
応接室に出るための髪が、今はやけに首筋に重い。鏡台の前に座ると、菫色の造花がずれたアネットの髪を思い出した。
――可哀想な子。
自分はその言葉を、何度使っただろう。
アネットが甘い茶なら飲めると言った時、ほっとした。
薬の後に砂糖菓子を欲しがった時、苦い薬なのだから少しはよいと思った。
ヒューバートが菓子箱を持って青の客間へ向かう姿を見ても、優しい子だとしか考えなかった。
――リーゼロッテ様なら分かってくださる。
自分は本当に、そう言った。
鏡の中の顔は、午後の間に少し老けたように見える。夫人は侍女に下がるよう言い、ひとりで椅子に座る。
扇は膝の上にあるが開く気になれない。骨の並びが、応接室で伏せられた書類に似ていた。
扉が叩かれる。
「入って」
伯爵だった。書斎から来たらしく、上着の袖口にインクの小さな跡がある。面談後の記録を確認していたのだろう。彼は妻の向かいに座らず、しばらく窓のそばに立った。
「グレイヴス卿側は、三日後の出発で決定した」
「そう」
「医師も同意した。途中で一泊、付き添いは向こうで用意する。こちらからは誰も同行しない」
ヘンリエッタは、そこで夫を見る。
「ヒューバートは?」
「不満を言っている」
「でしょうね……」
返事は自然に出た。以前なら、息子の気持ちも考えてやってほしいと言ったが、今日は、その言葉が口まで来ない。
バーナード伯は椅子へ座った。
「お前も、何か言いたいことがあるのじゃないか?」
夫人は扇の骨を見る。細い骨が、閉じたまま重なっていて、どこから開けばよいのか分からない。
「あなた、私を実家へ、戻らせていただけませんか」
声に出すと、その願いは思ったより小さかった。夫はすぐには答えない。
「体調がすぐれません。少し、休みたいのです。こちらにいても、わたくしは」
言葉が続かない。
役に立たない、と言うつもりだった。
けれど、役に立たないから帰りたいのではない。怖いからだ。
青の客間の扉の前に立つ息子が怖い。
応接室で菓子へ伸びたアネットより、その光景を見て「食べられた」と喜んだ息子が怖い。
「わたくし、ヒューバートが、怖いのです」
バーナードの目が、少しだけ動く。
「……今日、あの子は見ておりませんでした。アネットさんが菓子の前で止まれなかったことも、皆がどれほど困ったかも。ただ菓子を食べた、というところだけを見て、安心していました」
「ああ、見ていなかったな」
「わたくし、あの子を優しい子だと思っていました……」
夫人は膝の扇を握り込む。骨がじゅ、と少し鳴った。
「アネットのことは可哀想だと思ってました。リーゼロッテ様なら分かってくださると思いました。ヒューバートがあの子を慰めるのも、よいことだと思いました」
そこまで一気に言うと、一呼吸置き。
「……けれど今日、分かりました。あの子は、見たいところだけ見ています」
「そうか、今になって分かったか」
夫の声は強くない。だからこそ逃げ場がない。
「ええ…… わたくし、遅すぎました」
「私も遅かった」
その言葉に、夫人は顔を上げる。
夫は、窓の外ではなく、机の上に置かれた小さな書類束を見ていた。
彼が持ってきたものだろう。領地からの報告書がいくつか混じっている。北の橋の修繕、鉄道接続の補償交渉、水利権の確認。
ラドクリフ家の領地は、この数年で揉め事が続いた。
「この三年、私は月の半分を領地で過ごしていた。春には北の橋が落ち、夏には鉄道接続の補償がこじれ、秋には隣領との水利の話が長引いた。王家へ出す報告もあった。領地を空けられない時期が続いた」
伯爵は、一枚の報告書を指先で押さえる。
「それ自体は必要な仕事だった。家を守る仕事だ」
「ええ」
「だが、屋敷の中をお前だけに任せすぎた。ヒューバートの社交も、婚約者への距離も、女性客への扱いも。母親の目でお前は見ていると思っていた」
夫人は返事ができない。
「お前から、ヒューバートは優しい子ですと聞いた。私はそれで足りると思った。だが、《《誰に》》優しくしているのか、そのために誰の部屋や席を使っているのか、見ようとしていなかった」
「あなた……」
「これは、私の責任だ」
バーナード伯はそう言った。まっすぐに。
ヘンリエッタ夫人の胸が、少しだけ緩みかける。夫も悪いと言ってくれた。自分だけが責められているのではない。その思いが浮かんだ瞬間、夫が続けた。
「だが、私が悪いことと、お前が帰ることは別だ」
扇の骨が、また鳴る。
「今お前が実家へ戻れば、ラドクリフ家は何をした家になる? 婚約者の部屋に他家の娘を置き、茶会で席を誤り、照会状を受け、面談で療養先を決める途中に、奥方だけが実家へ逃げた家、と見なされるだろう」
「わたくし、逃げるつもりでは」
言いかけて、ヘンリエッタは止まる。自分は逃げたいのだ。
自分の言葉くらい、自分で分かる。夫もまた、分かっている顔をしていた。
「ヒューバートが怖いなら、なおさら見ていなさい」
「そんな」
「お前が可哀想だと言った娘と、優しいと言った息子だ。その二人が何をしたか、最後まで見ていなさい」
ヘンリエッタ夫人は、椅子の背に寄りかかる。背中を支える布地は柔らかい。
実家の自室にも、似た椅子があった。結婚前、母に叱られた後、そこへ逃げ込んだことがある。今帰れば、その椅子に座れる。兄嫁が気まずそうに茶を出し、母がしばらく何も言わずにいてくれるかもしれない。
――けれど、今の自分がそこへ行けば、ラドクリフ家の不始末も一緒についていく。
「あなた、今のわたくしに、何ができますの」
「すべてのことを、見て、確認することだ」
「それだけですか?」
「見て、確認して、止める。必要な時は、自分の口で言う。ヒューバートに、アネットに、使用人に。今度は、誰かが分かってくれると思って任せてはいけない」
夫人は、扇を膝に置き直す。開けない。閉じたままの方が、今は似合っている。
「実家へ、手紙だけでも」
「出すなとは言わん」
バーナードは立ち上がる。
「だが、返事は期待するな」
*
ヘンリエッタは、その夜、実家へ手紙を書いた。
――体調がすぐれない。
――ラドクリフ家が難しい状況にある。
――数日でもよいから実家で休みたい。
文面を整えることはできる。けれど、読み返すと、行の下に別の自分の声が聞こえてくる。
――怖い。
――ここにいたくない。
――帰らせてほしい。
封をした手紙は、翌朝の便で出され、返事は二日後に届いた。
兄からだった。母の筆ではない。そのことだけで、答えの半分は想像がついた。
――事情は聞き及んでいる。
――今、お前が戻れば、嫁ぎ先の不始末を実家へ持ち込むことになる。
――奥方として受け入れた客人の件なら、奥方として処理を見届けろ。
――体調が本当に悪いなら、医師を呼ぶこと。帰参の理由にはならない。
最後の一文を読んだ時、彼女は便箋を机へ置いた。
――具合が悪い。
――不安だ。
――知らない場所へ行くのが怖い。
――少しだけここに置いてほしい。
まるでアネットが使っていた言葉じゃないか。
夫人はしばらく兄の手紙を見つめた。兄は冷たいのではない。家の奥方として当然のことを言っている。嫁ぎ先の椅子から立つな、と。
その椅子に、自分は座り続けなくてはならない。
逃げたいのに、逃げられない。
*
夕方、ヘンリエッタ夫人が青の客間の前を通ると、扉の向こうから、アネットの声が聞こえた。
「どうして明後日なの。まだ無理だわ」
ミセス・ミュラーの声が続く。
「医師の指示に従い、途中で休憩を挟みます」
「ヒューは?」
「同行されません」
「では、わたし」
「お薬の時間です」
夫人は扉の前で足を止めた。
廊下の反対側から、ヒューバートの足音が近づいてくる。急ぎ足だ。止められても来る足音。母親の胸の中で、また小さく硬いものが動く。
「母上……!」
ヒューバートが角を曲がって現れる。
「アネットが泣いているのでは」
「泣いていても、薬の時間です」
自分の声が、思ったより低く出た。ヒューバートは戸惑ったように母を見る。
「母上、そんな言い方をしなくても」
「あなたは、部屋へ入ってはなりません」
「少し話すだけです」
「いけません」
「母上、アネットは明後日には知らない場所へ連れて行かれるんですよ? 今くらい」
「あなたは今くらい、を何度重ねたの」
ヒューバートは言葉を失う。
彼女は息子の顔を見る。
幼い頃、転んだ子どもへ菓子を分けた時、彼は褒められた。
泣いている少女に膝掛けを持って行った時、優しい子だと言われた。
そしてその優しさを、誰も測らなかった。誰のものを使って、誰の席をずらして、誰に我慢をさせているのか。
自分も測らなかった。だから今、測る。
「戻りなさい」
「母上」
「あなたが今ここに立つだけで、また誰かが止めなくてはならないのです」
廊下の奥で、家令がこちらを見ている。呼べば来るだろう。ミセス・ミュラーも中にいる。父伯爵も書斎にいる。
夫人は、その助けを呼ぶ前に、まず、自分が言うべきだと思う。
「戻りなさい、ヒューバート」
息子は、しばらく母を見ていたが、やがて、不満を隠さない顔で廊下を引き返す。
角を曲がる前に一度、青の客間の扉を振り返った。
夫人は、彼の姿が消えるまで立ち続けた。扉の向こうでは、アネットが薬を嫌がる声が続いている。廊下のこちら側では、息子の足音が遠ざかる。どちらからも、逃げたいと思う自分がいる。
だが実家からの手紙が、自室の机の上にある。
帰れない。なら、ここで見据えるしかない。彼女は青の客間の扉を見て、短く息を吸った。
「ミセス・ミュラー」
中から返事がある。
「奥様」
「薬を飲み終えたら、記録をわたくしにも見せて」
一瞬だけ、扉の向こうが静まったが、すぐにミセス・ミュラーの声が返る。
「承知いたしました」
夫人は、廊下を歩き出す。自分が作った屋敷の中で、自分が見なかったものを見るために。




