26 報告は、甘くない
ヴァルトハイム侯爵家からの報告は、昼食後に届いた。
再び集合したエーレンフェルト一家は既に皆が待ち受けている。
父ウィリバルトの机の前に母シュザンナが座り、その隣にリーゼロッテの席がある。アドルフは壁際に立ち、ヒルデガルドは午後の訪問を一つ断って来ていた。エーミールは授業の後で呼ばれ、まだ少し不満そうに首元のタイを直している。
ハルトマンが銀盆で封書を運び、机の上へ置く。封蝋はヴァルトハイム侯爵家のものだ。父は印を確かめ、封を切った。
「ラドクリフ家から、面談の一次記録が侯爵家へ出た。侯爵家が必要な範囲をこちらへ知らせてきたものだ」
リーゼロッテは、膝の上に視線を置く。
自分が出るべき場ではなかった。そう決めたのは正しい。けれど、自分の部屋にいた令嬢の処遇がどうなったか、自分の婚約者だった人がその場で何を言ったかは、これから自分の婚約を決める材料になる。
父が一枚目を読む。
「アネット・カーライル嬢について。グレイヴス卿側が療養先を用意済み。三日後に移動。途中で一泊、女性管理者一名とメイド一名が付き添う。ラドクリフ家からの同行はない」
エーミールが息を吐く。
「やっとなんだね」
「外で言うなよ」
アドルフが低く言う。
「家の中だし」
「家の中でも、父上がいる」
父は二人を見ず、紙をめくる。
「医師の所見。移動不能ではない。食事、薬、睡眠、甘味と茶の管理を要する。ラドクリフ家滞在中、食事の偏り、薬の飲み残し、夜間の呼び鈴、甘味への強い執着が記録された」
母の扇が膝の上で少し動く。
リーゼロッテは、アネットの白い帽子を思い出す。南棟二階の椅子に掛けられていた帽子。菫色の造花。詩集。香水瓶。あの時の部屋には、可憐なものが多すぎた。
だが、その可憐さの下に、食事と薬と眠れない夜があった。
「甘味への強い執着―― とはどういうことですか?」
ヒルデガルドが訊ねる。興味本位にならないように声は抑えている。父は少し間を置き、次の紙を見る。
「面談中、来客用の茶菓子に手を伸ばしたそうだ。そして医師と家政婦長が制止。菓子皿は下げられた。医師は、栄養とかの問題ではなく、気持ちの制御の問題として記録している」
「制御、ですか」
母はその言葉を静かに繰り返した。ハルトマンが補足の紙を差し出し、父はそれを受け取ると目を通す。
「医師の言葉が添えられている。『菓子なら食べることができた、のではなく、菓子を止められなかった』」
アドルフは顔をしかめる。エーミールは何か言いそうになり、ヒルデガルドに先に見られて口を閉じる。
リーゼロッテは言葉を失う。
アネットが自分の部屋にいたことや、茶会で席を奪われたことに対しても怒っている。
けれど、菓子へ手を伸ばして止まれなかった令嬢の姿は、決して自分にとって勝利の印ではない。
――ラドクリフ家の応接室で、客人用の皿を見て、それまで作ってきた姿を保てなくなった娘がいる。
それを、誰がどう扱ったか。見るべきところは、そこだった。
「ヒューバート様はどうなさいましたか?」
問われた父は別の紙を取る。
「発言記録がある。アネット嬢が菓子を食べた際、ヒューバートは『食べられるようになったのですね』という趣旨の発言をした。医師が『改善ではない』と訂正した。さらに、療養先への移動に自分が同行すれば安心すると申し出た。ラドクリフ伯が拒否している」
母が扇を開く。音は小さい。けれど、その場にいた全員が気づいた。
「まあ…… そこまで来ても、まだご自分が付き添うおつもりでしたの」
「記録上はそうだ」
父が答える。アドルフは壁から離れた。
「婚約者がいる身で、他家の未婚令嬢の療養に同行すると?」
「断られている」
「言い出した時点で十分酷いな」
「外では言うな」
「分かっています」
アドルフは声を抑えている。だが荒くない分、怒りはその場に長く残る。ヒルデガルドは、少しだけ目を伏せた。
「ラドクリフ伯爵夫人は?」
「面談後、アネット嬢の管理記録を自分にも見せるよう家政婦長へ命じている。ヒューバートが青の客間へ近づいた際、夫人自身が止めた、とある」
母が、そこで初めて父を見る。
「やっとここまで来ましたわね」
「ああ、やっとだ」
父は短く返す。
「ただし、ここでようやく分かったことと、これまでの責任は別だ」
「もちろんです」
母の返事は早い。
リーゼロッテは、机の上の紙を見る。侯爵家から届いた報告は、必要な範囲だけに絞られている。アネットの声や顔までは書かれていない。菓子の数も、粉の落ちた布もない。そこまで知る必要はないのだろう。
それでも十分だ。アネットは移されるし、医師は管理を必要と見ている。
そしてヒューバートは、それを見ても理解していないし、ラドクリフ伯夫妻は、遅れて責任の形を見始めている。
自分の席はまだ宙に浮いたままだが。
「リーゼ」
父が声をかける。
「この報告で、アネット嬢についてはラドクリフ家から離す方向が決まった。だが、婚約については別に扱う」
「はい」
「侯爵家は、次に両家の正式な確認の場を設ける意向だ。ラドクリフ家からの一次返答、グレイヴス卿側の記録、我が家の報告をそろえたうえで、婚約継続の可否を話す」
「私も出ます」
父はうなずいた。
「お前自身の話だからな」
「はい、今度は。私の出るべきものです。アネット様の療養先を決める場はそうではなかっただけです」
母が小さくうなずく。
「私の婚約について話す場には出ます」
リーゼロッテは続ける。
「そこは、私の席です」
エーミールが、何やらものすごく言いたそうな顔をしたが、アドルフが横目で止める。ヒルデガルドは少し笑ったが、すぐ口元を扇で隠した。
父は、机の上の報告をそろえる。
「では、その場で何を求めるか、今ここで確認しておこう」
ハルトマンが新しい紙を用意する。
「一つ。ラドクリフ家は、南棟二階の部屋を婚約者の部屋として扱わなかったことを認める」
父が言い、ハルトマンが書く。
「二つ。部屋の返却が遅れ、私物が残されたことについて、誰が判断を止めたか明らかにする」
「ヒューバート様ですね」
リーゼロッテが言う。
「記録上はそうだ。正式の場で本人に確認する」
「はい」
「三つ。茶会における同伴者変更について、マルヴィン伯爵夫人への失礼と、お前の婚約者としての立場を曖昧にしたことを認める」
母が加える。
「呼称についても入れましょう。あれは酷かったですわ」
「無論、入れる」
父は頷く。
「我が娘が婚約者として距離を守っていた相手を、他家の未婚令嬢が愛称で呼び、ラドクリフ家が訂正しなかったこと」
ハルトマンの筆が進む。リーゼロッテは、その文字の列を見る。
《《ヒュー》》。
その呼び方を、紙にするならどうなるのか、と彼女はずっと思っていた。
紙の上では、ただの愛称だ。けれど、茶会の温室では、誰が近く、誰が外に置かれているかを示す音だった。
「四つ」
父は少しだけ息を置く。
「ヒューバート本人が、婚約者の立場と他家の未婚令嬢への保護を混同したことを認める」
アドルフが低く笑う。
「本人が認めますかね」
「認めさせるのではない。確認する」
「同じでは」
「違う」
父の声で、アドルフは黙る。
「認めさせようとすれば、言葉だけ謝る。確認すれば、どこで分かっていないかが出る」
母が扇を閉じる。
「ヒューバート様は、今日の面談でも出したのでしょうね」
「何を?」
エーミールが訊く。
「自分がそばにいれば、アネット様が安心する、という言葉です」
エーミールはうわ、とばかりに鼻に皺を寄せた。
「安心させるために、また席を取る気ではありませんか」
「だから、次の場で聞く。お前は誰の席に座るつもりだったのか、と」
部屋の空気が、少しだけ張る。
リーゼロッテは、その問いを頭の中で繰り返した。
――誰の席に座るつもりだったのか。
ヒューバートは、きっと「そういうつもりではなかった」「アネットを助けたかっただけ」「リーゼなら分かると思った」「そこまで大げさに考えていなかった」と並べるだろう。
だから聞く必要がある。《《つもり》》ではなく、実際にしてしまったことを、置いたものを。
言葉ではなく、座った席を。
「私、その場で言うことをあらかじめ決めておこうと思います」
リーゼロッテが言う。
「今からか?」
アドルフが少し驚いた顔をする。
「今からです。あの場でもし怒りが出てしまえば、また嫉妬や感情の話へ戻されます」
「それは、戻す方が悪い」
「悪くても、戻されたら終わりですから」
ヒルデガルドが静かに言う。
「そうね、リーゼは正しいわ」
母も頷いた。
「言葉を決めておきなさい。短くてよいのです。長く説明すると、相手は理解したふりをします」
リーゼロッテは少し考える。
――好きだったことは一度もありません。
その言葉は、まだ使う場所ではない。ヒューバートが「君は私を好きだったのだろう」と言った時にだけ、返せばいい。先に出せば、ただの拒絶になる。自分が怒っている席の話から、恋の話へ移ってしまう。
今必要なのは、別の言葉だ。
「こういう意味のことを。アネット様の体調を裁くために来たのではなく、ラドクリフ家が婚約者の部屋と席を、婚約者のものとして扱ったかどうか確かめるために来た、と」
ハルトマンが筆を止める。母が少しだけ目を細めた。
「よいわ」
ヒルデガルドが言う。
「とてもよいですわ。先に釘を刺しておけば、アネット様の話へ逃げられませんもの」
アドルフも頷いた。
「ヒューバートが『アネットは弱くて』と言い出したら?」
「その時は」
リーゼロッテは、机の上の報告から目を上げる。
「弱い方を助けるのはいいですが、そのためになぜ私の席を使ったのですか、と聞きます」
エーミールが今度こそ、よし、とばかりに小さく拳を握った。父は、ハルトマンへ目で示す。
「それも控えておけ」
「承知いたしました」
紙の上に、リーゼロッテの言葉が加わる。
――アネットの療養先。
――甘味の管理。
――ヒューバートの同行希望。
――ヘンリエッタ夫人の遅れた理解。
それらは、報告として机の上にある。
けれど、リーゼロッテの前に置かれた紙には、別の言葉が書かれていく。
部屋――返却――茶会――呼称―― そして、席。
甘いものの報告を聞いた日でも、エーレンフェルト家の紙は決して甘くはならない。
父が最後の一枚を畳む。
「次は、正式の場だ」
リーゼロッテはうなずく。
「はい」
その返事は、書斎の中で短く収まる。
北部へ向かった手紙は、まだウォルフの手に届いていないだろう。
けれど、リーゼロッテは返事を待っていない。待つものと、自分で座る場所は別だ。
次の場には、直接行く。それは、自分自身の席だから。




