27 それは、私の席です
その日のヴァルトハイム侯爵家の応接室には余分な椅子はなかった。
中央の長卓を挟み、片側にエーレンフェルト家、もう片側にラドクリフ家が座る。
上座にはヴァルトハイム侯爵、その横に侯爵夫人が控え、記録を取る書記の机は少し離れている。
茶の支度は壁際にあるが、まだ誰の前にも出されていない。
この日、リーゼロッテは、父ウィリバルトの右に座った。
母シュザンナはその隣にいる。家令ハルトマンは後ろへ控え、必要な書類だけを手元の箱に入れている。
アドルフたちは来ていない。ここは家族の怒りを見せる場ではなく、婚約の扱いを確かめる場なのだから。
向かいには、バーナード・ラドクリフ伯爵が座った。顔色はよいとは言えない。ヘンリエッタ夫人はその隣で、膝の上に閉じた扇を置いていた。
そしてヒューバートは、両親の間ではなく、少し端の椅子に座らされている。
その位置だけで、ラドクリフ家の中の変化がエーレンフェルト側にも明確に感じられた。
以前なら、ヒューバートは話の中心にいたはずだ。母に庇われ、父に任され、自分の優しさを疑わずに立っていた。
だが今日は、父親の目が届く場所に座っている。立ち上がる余地を、最初から削られている。
やがて、ヴァルトハイム侯爵が、机の上の書類へ目を落とす。
「あらかじめ申し上げておきます。本日の確認は、アネット・カーライル嬢の療養先についてではありません」
最初の一言で、部屋の向きが定まる。
「同嬢については、既にグレイヴス卿側の管理下へ移す手配が整っております。医師の指示書も共有されました。これは別件です」
侯爵の視線が、ヒューバートの方へ移る。
「本日はあくまで、王家の意向を受けて進められたエーレンフェルト家とラドクリフ家の婚約について、ラドクリフ家が婚約者の立場をどう扱ったかを確認します」
ヒューバートの肩がわずかに動いた。
リーゼロッテは見逃さなかった。アネットの名が出た時より、婚約という言葉で彼は身じろぎしたのだ。自分のしたことが、ようやくじわじわと彼の中でも効いてきたのだろう。
ヴァルトハイム侯爵は一枚目の書類を取る。
「第一に、南棟二階の部屋。ラドクリフ家では、婚礼後にリーゼロッテ嬢が使う予定の部屋として準備が進められていましたね」
バーナード伯が答える。
「はい。その通りです」
「その部屋を、アネット・カーライル嬢の静養に用いた」
「はい」
「誰の判断ですか」
バーナード伯は一呼吸置いてから、妻を見る。夫人が顔を上げた。
「最初は、わたくしでございます。一晩だけならと考えました。日当たりがよく、風も入りにくい部屋でしたので」
「当主への報告は」
「遅れました」
「婚約者家への説明は」
「しておりません」
今日のヘンリエッタ夫人の声は細いが、落ち着いている。侯爵は次の紙を見る。
「一晩のはずが、三日を過ぎても返却されなかった。青の客間への移動が可能であり、医師も移動不能とは見ていなかった。私物整理は本人確認を待つという理由で止まった。これはヒューバート殿の判断ですか」
ヒューバートが顔を上げる。
「はい。僕です」
「理由を」
「アネットが不安がりました。急に私物を動かされると、自分が追い出されるように感じるだろうと」
「婚約者の部屋の返却より、アネット嬢の不安を優先したのですね」
「返却より、という言い方は」
ヒューバートは言葉を探す。
「まだ《《正式に》》リーゼの部屋ではありませんでした」
その言葉が出ると、バーナード伯の目が閉じた。ヘンリエッタ夫人の扇も膝の上で傾く。
リーゼロッテは、向かいのヒューバートを見る。
彼はまだ、そう考えてしまうのだ、と思う。
――あの部屋は正式にはリーゼのものではなかった。だから一時的に使ってもよかった。だから返すのが少し遅れても大きな問題ではない。
彼の中の道筋は、きっと今もその形をしている。
続いてヴァルトハイム侯爵夫人が、初めて口を開いた。
「……ヒューバート殿。婚礼準備の布合わせは、なぜその部屋で行う予定だったのですか」
「それは、婚礼後に使う部屋なので」
「正式には決まっていない部屋で、婚礼後の布合わせを?」
ヒューバートは答えに詰まる。あくまで、侯爵夫人の声は穏やかだった。
「ラドクリフ家は、エーレンフェルト家の令嬢を迎える準備として、その部屋を示したのでしょう。その時は婚約者の部屋として扱い、別の令嬢を静養させる時には、まだ正式ではないと言う。便利な部屋ですこと」
ヒューバートの顔に、困惑が浮かぶ。彼は夫人の言葉を皮肉と分かっているのか、いないのか。
リーゼロッテにそれは判じきれない。ただ、彼がまだ自分の言葉の置き場を見つけられずにいることは分かる。
ヴァルトハイム侯爵が、次へ進める。
「第二に、マルヴィン伯爵夫人の茶会。当初、ヒューバート殿の同伴者としてリーゼロッテ嬢の席が用意されていた。実際には、アネット嬢を伴った」
「はい、僕はアネットを元気づけようと思いました」
ヒューバートは、今度はすぐに答えた。
「彼女はずっと部屋にいて、気落ちしていたんです。少し外へ出れば、気分も変わると思って」
「それで、婚約者の名で用意された席を使った」
「使ったというより――」
「では、何と呼べばよいのだ?」
侯爵が短く問う。
ヒューバートは口を閉じる。
リーゼロッテは、自分の前に置かれた紙を見る。昨日、家族と決めた言葉がそこにある。長く説明しない。アネットの体調へ引きずられない。恋の話へ逃がさない。
ヴァルトハイム侯爵がこちらを見る。
「リーゼロッテ嬢。あなたから確認したいことはありますか」
「ございます」
リーゼロッテは顔を上げる。
「私は本日、アネット様の体調について何かしら裁くために来たのではありません」
応接室の中で、誰も動かない。
「私がお訊ねしたいのはあくまで、ラドクリフ家が婚約者の部屋と席を、婚約者のものとして扱ったかどうかです」
ヒューバートはリーゼロッテを見た。その目にはほんの少しだけほっとしたものがにじみ出ている。アネットを責めない、と聞いたせいだろう。
だがリーゼロッテは、その彼の安堵をそのままにはするつもりはない。
「ヒューバート様? 弱い方を助けるために、なぜ私の席を使ったのですか」
彼の安堵が消える。
「君の席を使ったつもりでは」
「では、マルヴィン伯爵夫人は、誰のためにその席を用意されたのですか」
「それは、君のためだったが」
「その席に、誰を伴われましたか」
「アネットを――」
「私への事前の連絡は」
「しなかったが――」
「マルヴィン伯爵夫人への説明は?」
「その場で……」
「その場で?」
さすがにそれにはリーゼロッテも驚いた。ヒューバートは、少し俯く。
「いえ、十分ではなかった」
「あと、呼称、ヒューバート様、あなたのことをどう呼んだか、についても確認いたします」
リーゼロッテは続ける。
「アネット様は、あなたを『ヒュー』といつも愛称で呼んでおりました。そしてあなたは訂正なさいませんでした」
「昔からの呼び名だから」
「私は、あなたをその名で呼んだことがありませんが?」
「だって君は、そういう人だから」
言ってから、ヒューバート自身もその自分の言った言葉に少し迷ったようだった。そして付け足す。
「礼儀正しくて、距離を守っていて」
「……婚約者として距離を守ることを、あなたはどう受け取っていらしたのですか」
ヒューバートは答えられない。
侯爵夫人の視線は静かに彼へ向き、バーナード伯は息子の横顔を見る。
リーゼロッテは、待った。
待つのは譲ることではない。相手に、自分自身の明確な言葉を出させるための時間だ。
「君は」
ヒューバートがようやく口を開く。
「君は、僕を信じてくれていると思っていた」
「何を信じるのですか?」
「僕が、悪いようにはしないと」
「私の部屋に別の令嬢が眠っていても?」
「だから、それは」
「私の席に別の令嬢を伴っても?」
「リーゼ――」
「その名で呼ばないでください」
ヒューバートはその言葉に、止まる。リーゼロッテは、ゆっくり続ける。
「その名は、家族と親しい方が使う名です。あなたは、私の婚約者でした。けれど、私との距離を守ることも、私の席を守ることもなさいませんでした」
ヒューバートの口が少し開く。
「……君はもしかして、怒っているのか?」
「はい」
すぐ答えた。
「非常に腹が立っています。部屋を使われたことにも、返されなかったことにも、茶会で私の席が別の方のために使われたことにも。さらに、それを私なら分かると思われたことにも」
「僕は、君の優しさを――」
「私の優しさは、あなたが勝手に使っていい物ではありません」
母シュザンナの扇が、膝の上でわずかに動く。リーゼロッテはそれに気付く。よろしい、と言ったように感じられた。
「私があなたに黙っていたのは、許したからではありません。家と王家の意向を踏まえ、婚約者として手順を守るためです」
ヒューバートは、そこで顔を上げた。
「けれど、君は婚約を続けるつもりだったんだろう?」
「はい」
「なら……」
彼の声に、少し熱が戻る。
「なら、僕を大切にしようとしていたのだろう? 君は、僕を」
バーナード伯は次の言葉に気付き、息子を制止しようとする。だが、ヒューバートは止まらなかった。
「君は、僕を好きだったのだろう?」
彼がそう、言い切った瞬間、応接室の中では、紙をめくる音まで止まった。
リーゼロッテは、向かいの男を見る。そう来たのか、とも思う。ここでそれを言うのか、という驚きはある。けれどそれで傷つく自分ではない。むしろ、ありがたい程だ。
これで、これまで並べてきた部屋と席と言葉が、机の上で一つに揃う。
彼はやはりそこへ戻すのだ。責任でも、礼儀でも、婚約でもない。自分が好かれていたはずだというところまで。
「いいえ」
リーゼロッテははっきりと答えた。
「あなた個人を好きだったことは、一度もありません」
ヒューバートの顔から、血の気が引く。
アドルフがここにいなくてよかった、とリーゼロッテは少しだけ思った。兄なら何か言っただろう。エーミールなら椅子を鳴らし、口笛の一つも吹いたかもしれない。だが今は、その音はいらない。
必要なのは、続きだ。
「私はあくまで婚約者でした。王家の意向のもとに、家同士の責任がありました。だから礼を尽くしていただけです。それを、あなたは恋だと思っていたのですか?」
ヒューバートは何か言おうとして、言葉を失う。
「では、なぜ」
ようやく出た声は、かすれていた。
「なぜ婚約を続けようとしたんだ? そんなの、おかしいだろう?」
「義務です。当然のことです。そして、あなたが壊したものです」
ヒューバートは椅子に座ったまま、机の上を見る。
そこには書類がある。南棟二階の部屋。返却の遅れ。マルヴィン伯爵夫人の茶会。愛称の件。
アネットの療養記録は別に置かれ、この場の中心にはない。
そして彼が見ているのは、紙ではなく、自分が愛されていたはずの場所だろう。だがそれは、今ここにはない。
ヴァルトハイム侯爵が、ゆっくりと口を開く。
「よろしい、確認は取れました」
侯爵夫人が書記へ目で合図する。書記の筆が動き出す。
「ラドクリフ家は、南棟二階の部屋を婚約者の部屋として準備しながら、事前説明なく他家の未婚令嬢の静養に用いた。返却は遅れ、私物整理はヒューバート殿の判断で止まった。茶会では、婚約者の名で用意された席に別の令嬢を伴い、呼称の訂正もなかった」
侯爵は一つずつ述べる。言葉が紙へ移る音が続く。
「さらに、ヒューバート殿は、この一連の対応について、《《リーゼロッテ嬢の理解と好意を前提にしていた》》。これは本日の発言からも明らかです」
ヒューバートが顔を上げる。
「僕は、そんな」
「今、言いましたね」
静かに侯爵は言う。バーナード伯は深く頭を下げる。
「ラドクリフ家の当主として、弁明の余地はございません」
ヘンリエッタ夫人も遅れて頭を下げる。扇は膝に置いたまま。
「リーゼロッテ様。エーレンフェルト伯爵、伯爵夫人。わたくしも、間違えておりました。アネットさんを可哀想だと思い、あなたなら分かってくださると考えました。その考えで、あなたの席を軽く扱いました」
「ようやく、その言葉を聞けました」
母シュザンナの言葉はそれだけだった。責める言葉より、よほど重い。
父ウィリバルトが侯爵へ向き直る。
「私は、エーレンフェルト家の当主として、この婚約の継続は困難と判断します」
侯爵はうなずく。
「王家への報告は、当家から上げます。婚約解消の手続きについては、双方の書面を整えたうえで進めます。ラドクリフ家には、別途、後継教育と家内管理についての改善を求めることになります」
バーナード伯は「承知致しました」と言いながらもう一度頭を下げる。
「ヒューバート殿」
侯爵が名を呼ぶ。
ヒューバートは、ゆっくり顔を上げる。彼の表情はどこか、何かが抜けてしまったかの様だった。
「あなたは今後、婚約解消の手続きが終わるまで、リーゼロッテ嬢へ私信を送ってはなりません。訪問も認めません。アネット・カーライル嬢の療養先へ関わることも禁じます。分かりますか」
「……はい」
その返事は小さい。彼が本当に分かっているかどうかは、まだ分からない。
リーゼロッテは、机の上の書類へ視線を移す。
そこには自分の怒りが、家の言葉として並んでいた。
泣いたかどうか。嫉妬したかどうか。好きだったかどうか。そういう話へ誰かが引き戻そうとしても、最後に残ったのは部屋と席だった。
ヴァルトハイム侯爵夫人が、ようやく茶を出すよう合図する。
壁際のメイドたちが動き、茶が注がれる。白いカップがそれぞれの前へ置かれる。菓子皿も出るが、誰もすぐには手を伸ばさない。
リーゼロッテの前にも、茶が置かれる。それは自分の席に置かれた茶だ。
彼女はカップを持ち上げ、ひと口飲む。苦みはある。香りもある。砂糖は入れない。
向かいで、ヒューバートはただじっと茶を見ている。
リーゼロッテはもう、その姿を追わない。この場で追うべきものは、終わった。
彼女は自分の席に座っている。




