28 父は、後継を降ろす
ラドクリフ家へ戻る馬車の中で、父子は黙ったままだった。バーナード伯は、ただ窓の外を見ていた。
馬車は侯爵家の門を出て、石畳の道へ入る。車輪が小さな継ぎ目を拾うたび、座席の革がわずかに鳴った。
ヘンリエッタ夫人は別の馬車で戻っている。
帰路を分けたのは、バーナードの判断だった。まず息子と二人で話す必要があった。
ヒューバートは、膝の上に置いた帽子を見ながら、じっと口をつぐんでいる。
侯爵家の応接室で、リーゼロッテが言った言葉が、まだそこにあるのだろう。
――好きだったことは、一度もありません。
息子は、その一言で止まっている、と伯爵は、そう見た。
部屋でも、返却でも、茶会でも、呼称でもない。婚約者の立場でもない。王家の意向でもない。彼が今つかんでいるのは、自分が愛されていなかったというただ一点だけだった。
「父上」
屋敷へ着く少し前、ヒューバートが口を開いた。
「リーゼは、本気だったのでしょうか」
バーナードは息子を見る。
「何についてだ」
「僕を好きだったことがない、と」
やはりそこか、と伯爵はそっとため息をつく。
「無論、本気だろう」
「ですが、婚約を続けるつもりだったと言いました」
「義務だと言った」
「義務だけで、あんなに」
ヒューバートは言葉を探す。
「あんなに礼儀正しく、僕に接していたのですか」
「婚約者だからだ」
「なら、好意が」
「礼儀だ」
馬車の中で、短い言葉が止まる。ヒューバートは、理解できないものを見るように父を見た。
「では、僕は何を信じていたのですか」
「……自分に都合のよいものだ」
屋敷の馬車寄せへ着く。従僕が扉を開けた。
バーナード伯は先に降り、ヒューバートへ視線だけで続くよう示す。玄関広間では家令が待っていた。伯爵は上着も預けず、そのまま書斎へ向かう。
「ヒューバート。来なさい」
息子は遅れてついてくる。
書斎に入ると、机の上には朝のままの書類が残っていた。領地からの報告書、侯爵家への控え、アネットの療養先の写し。
伯爵はそのすべてを端へ寄せ、中央を空けた。
「座れ」
ヒューバートは椅子に座る。
「お前は、今日の場で何を聞いた」
「リーゼが、僕を好きではなかったと」
「それだけか」
「それだけではありません。部屋のこと、茶会のことも」
「では、なぜ最初にそこを言う」
ヒューバートは口をつぐむ。
バーナードは机の上に、三枚の紙を置いた。南棟二階の部屋。返却の遅れ。茶会の席。侯爵家へ出した控えだ。
「これは何だ」
「今回の件の記録です」
「記録の中心は何だ」
「僕が、判断を誤ったことです」
「どう誤った」
「アネットを優先しすぎた」
バーナードはただ、次を待つ。ヒューバートは、その待ち方に耐えきれず、言葉を継いだ。
「ですが、アネットは本当に不安定でした。医師も管理が必要だと認めていた。甘いもののことも、あれほどつらいなら、やはり誰かがそばに」
「……お前はまだ、アネットの話をするのか」
「父上」
「今、お前の婚約が解消されようとしている。侯爵家で、王家への報告まで決まった。その帰りに、お前はまだアネットの不安を話すのか」
「だって、彼女は」
ヒューバートの声が少し強くなる。
「彼女は明後日、知らない療養先へ行くんですよ。リーゼは家族に守られている。父上も伯爵も、皆が彼女の味方です。でもアネットは」
「アネットにも親族はいる。医師がいる。療養先がある。管理者もつく」
「けどそれは、僕ではありません」
「そうだ」
バーナードは机越しに息子を見る。
「お前ではない」
ヒューバートの目が揺れた。
「なぜですか」
その問いが出た瞬間、バーナードは思わず椅子の背から身体を離した。
「なぜ、という言葉が出ること自体が問題だ」
「僕は、彼女を助けたいだけです」
「助けたいなら、誰の家の娘か、誰が責任を持つべきかを確かめろ。医師が何を禁じているかを聞け。婚約者の部屋を使うな。婚約者の席を使うな。婚約者の忍耐を、自分への好意に変えるな」
ヒューバートは、少し青ざめる。
「僕は、そんなつもりでリーゼを」
「つもりはもう散々聞いた」
父伯爵は紙の端を指す。
「侯爵家も、エーレンフェルト家も、お前のつもりを聞きに来たのではない。何をしたかを見ている」
「だから、謝ります。正式に。リーゼにも、エーレンフェルト家にも。部屋のことも、茶会のことも。アネットが移れば、もう同じことは」
「お前は必ず同じことをする」
ヒューバートは、言葉を失う。
「お前はそれがアネットでなくても、するだろう。弱い者を見つけるたびに、誰かの場所を少しずらす。自分が優しくするために、他人の部屋を使い、他人の時間を使い、他人の立場を使う。そして、それを相手も分かってくれるはずだと思う」
「そんなことは」
「今日もした」
「今日?」
目を丸くする。
「療養先への移動に同行したがった。婚約解消の場へ来る前から、侯爵家に止められた後まで、まだ言った。まだ分からんのか? お前はアネットの親族ではない。医師でもない。管理者でもない。他家の、婚約者のある男だ。その立場で同行を申し出る意味が、どうしても、分からないのか?」
父の絞り出すような声に、ヒューバートは唇を結ぶ。そこには分かっていない顔があった。彼の中では、今まで起こってきてことの中で、自分が同行することがなぜ悪いのか、まだつながっていない。
バーナード伯は、その顔を見て、胸の奥で何かが決まる音を聞いた気がした。もう、息子を叱れば済む段階は終わってしまった。
「父上」
ヒューバートは、ようやく言った。
「僕は、後継としてふさわしくないとお考えですか」
バーナード伯はちら、と窓の外を見る。書斎の外では、庭師が低い枝を払っている。領地からの報告書には、北の橋の補修費が書かれていた。水利権の調整も残っている。鉄道接続の補償交渉は、まだ終わっていない。
この三年、伯爵はそれらに追われていた。
領地を、家を守るためだった。橋を直し、水を通し、鉄道を引き、領民の収穫と運搬を保つ。それは当主の仕事だ。放り出せるものではなかった。
その間に屋敷の中で、後継が育っていることは励みになった。優しい子です、と妻は言っていた。人の痛みが分かる子です、とも言った。
彼はそれで足りる、と思っていた。だが。
何に優しいのか。誰の痛みを見て、誰の痛みを見なかったのか。その優しさの費用を、誰に払わせていたのか。
そこを見ようとしていなかった。
「私にも責任がある」
バーナードは言った。
「領地を理由に、お前の教育をヘンリエッタへ任せすぎた。社交の細部、女性客との距離、婚約者への礼。私は、当主として見るべきものを見落とした」
ヒューバートの顔に、少しだけ希望が差す。
「なら、これから……」
「だからこそ、もうこの先、お前を後継に据えたままにはできない」
希望が消える。
「父上」
「お前は今、私が責任を認めたことで、自分にも猶予があると思っただろう」
「いえ、違います」
「違わない」
バーナードは、もう紙を見ない。
「後継に必要なのは、善意ではない。自分の行動が、どの家の、どの席を動かすかを見られることだ。お前にはそれを見ることができない」
「学びます」
「侯爵家の場で学ぶ機会はあった。ラドクリフ家の応接室でもあった。青の客間でもあった。南棟二階でもあった」
「だから、今度こそ」
「では今度、《《誰の娘を使って》》学ぶつもりだ」
ヒューバートは、そこで言葉を失った。
伯爵は、机の引き出しから一枚の紙を出す。まだ何も書かれていない紙だ。家令を呼べば、草案はすぐ作れる。親族会議の招集、継承権停止、後見の再検討。いくつかの手順が頭の中に並ぶ。
廃嫡は軽い言葉ではない。だが、軽くないからこそ、ここで避ければ家は完全に沈んでしまう。
伯爵はきっぱりと言う。
「お前の継承権を停止する」
「父上!」
息子は椅子から立ち上がりかけた。
「座れ」
父の声は大きくなかったが、ヒューバートは途中で止まり、再び腰をおろす。
「親族会議を開く。正式な廃嫡の手続きに入る。即日で名を消すわけではない。だが、後継として扱うことは今日で終わりだ」
「そんな、婚約のことで」
「婚約のことだけではない」
バーナードは白紙の上へ、短く題を書いた。
――後継処分に関する件。
「王家の意向を受けた婚約を壊した。他家の未婚令嬢を期限なく屋敷に置いた。婚約者の部屋と席を損なった。療養責任の所在を無視した。止められてもなお、自分が同行すれば安心すると言った。これは、後継としての判断力の問題だ」
「僕は、アネットを助けたかっただけです」
「その言葉で、またその地点へ戻るのか」
ヒューバートは黙る。
「誰かを助けたいなら、自分の持ち物で助けろ。自分の時間と責任と名で助けろ。お前は、他人の席を使った」
伯爵はペンを置く。まだ本文は書いていない。だが題だけで、部屋の中の空気は変わっている。
「リーゼロッテ嬢は、お前を好きだったことがないと言ったな」
ヒューバートの顔がまた歪む。
「その言葉に傷つく権利はある。だが、それを理由に彼女を責める権利はない」
「責めるつもりは」
「ある。お前は心のどこかで、彼女が冷たいと思っている。自分を好きでなかったことを、裏切りのように感じている」
ヒューバートは反論しない。それ自体が答えだった。
「婚約者として礼を尽くされた。それで十分だったはずだ。お前はそこに恋まで欲しがり、得られていると思い込み、その思い込みを根拠に彼女の席を使った」
息子の顔を見る。
「後継にはできない」
ヒューバートは椅子へ戻る。もう、座るというより落ちるようだった。
けれど、伯爵はその姿に同情しない。同情してよいのは、父としての一部だけだ。当主としては、もう別の一線を引いている。
「アネットは」
ヒューバートが、かすれた声で言った。伯爵は次の言葉を待つ。
「アネットは、僕が後継でなくなったと知ったら、どうなるのでしょう」
バーナードは、どうしようもない、とばかりにしばらく息子を見た。
――そこか。
――廃嫡と言われた直後に、家のことでも、自分の責任でも、エーレンフェルト家への謝罪でもない。アネットが自分をどう見るかを気にするのか。
父の最後の迷いが消える。
「それを気にする時点で、お前はまだ分かっていない」
「父上、僕は」
「今日の話は終わりだ」
伯爵はベルを鳴らす。すぐに家令が入ってきた。
「旦那様」
「親族会議の招集状を用意する。至急だ。ヴァルトハイム侯爵家へも、後継処分を検討する旨を報告する。エーレンフェルト家へは、婚約解消手続きとは別に、当家の処分方針として伝える」
「承知いたしました」
「ヒューバートは、当面、外出を禁じる。アネット・カーライル嬢の療養先への接触も禁じる。私信も出させるな」
「はい」
ヒューバートが顔を上げる。
「何ですって、父上、手紙も?」
「出せば、さらに処分を重くする」
「だけど、彼女は不安に」
「不安は、医師と管理者が扱うものだ」
その言葉は、もう何度も言った。けれどヒューバートは、また初めて聞いたような顔をする。
――やはり、分かっていない。
家令が下がると、書斎には父子だけが残る。
ヒューバートは机の上の白紙を見る。題だけが書かれた紙。まだ本文のない処分。けれど、それはもう始まっている。
「父上」
「部屋へ戻れ」
「リーゼに、もう一度だけ」
「戻れ」
バーナード伯は繰り返す。
ヒューバートは、しばらく立てずにいたが、やがてゆっくり椅子から離れ、扉へ向かう。出ていく前に一度だけ振り返った。
「僕は、本当にそんなに間違っていたのですか?」
それを聞いた瞬間、怒鳴りたくなった。今さら何を、と。
だが、息子の顔には本当に分からない色が残っている。
「そうだ」
バーナードは言った。
「そして、まだ分かっていない」
ヒューバートは答えずに扉を閉めた。
書斎に残った伯爵は、白紙の前に座る。
窓の外では、庭師が枝を払う音が続いている。伸びすぎた枝は、早く払えば形を戻せる。家の後継は、そうはいかなかった。
領地を守っているつもりで、家の中の後継を見落とした。その代償を、これから払う。
彼はペンを取り、親族会議のための一行目を書き始めた。




