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私が使うはずだった部屋に病弱令嬢を寝かせた婚約者とは、白紙に戻します  作者: さんけい


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29 彼の席は、もう使われない

 ヒューバートの部屋から、書類箱が運び出される。


 家令が二人の従僕を連れて来たのは、夕食前だった。父の書斎から戻って、まだ上着も替えていない時間だ。

 従僕たちは礼をしてから、壁際の棚へ向かう。

 領地の地図、収穫予定の写し、来月の狩猟会の招待控え。これまで後継として目を通すよう渡されていたものが、一つずつ箱に収められていく。


「父上のご命令なのか?」

「はい。全て、旦那様のご指示でございます」


 家令の返事は丁寧だった。丁寧で、そこに相談の余地がない。


「まだ決まったわけではないだろう……」

「親族会議までの間、後継関連の書類は書斎で管理いたします」


 ――後継関連。


 その言葉が彼には部屋の中で妙に大きく聞こえた。

 ヒューバートは机の前に立ったまま、運ばれていく箱を見る。空いた棚には、埃の跡が細く残った。そこに何が置かれていたか、形だけが分かる。


「馬車の手配は?」

「当面、旦那様の許可が必要です」

「外出も?」

「はい」

「手紙は?」

「私信は、旦那様を通すようにとのことでございます。ご説明があったはずです」


 ヒューバートは机の上を見た。

 便箋はある。封蝋もある。けれど、ラドクリフ家の小印はない。従僕の一人がすでに小箱ごと持ち出していた。


 ――父は、本気なのだ。


 そう思ってから、すぐ別の考えが来る。


 ――父は怒っているだけだ。侯爵家で恥をかかされ、エーレンフェルト家に頭を下げることになり、だから一時的に厳しくしている。親族会議までには、きっと落ち着く。自分がきちんと謝れば、まだ戻せるはず。


 では、何を謝るのか。リーゼの顔が浮かぶ。


 ――好きだったことは、一度もありません。


 言葉は、何度思い出しても同じ形で戻ってきて、少しも揺れない。

 彼女の声は高くも低くもなかった。怒鳴らず、泣かず、ただそう突きつけられた。だからこそ、ヒューバートの中で何度も繰り返される。好きではなかった。


 ――では、あの丁寧な挨拶は何だったのか?

 ――訪問のたびに交わした会話は?

 ――贈った花への礼状は?

 ――婚礼準備について、きちんと返してきた言葉は?

 ――彼の家の格式を立て、母に礼を尽くし、父の前で穏やかに座っていた姿は?


 礼儀だ、と父は言い、義務だ、とリーゼは言った。

 ヒューバートは、その二つを並べてみる。

 礼儀。義務。どちらも冷たい。そう思いかけて、侯爵家でのリーゼの目を思い出す。


 ――あれは冷たいのではなく、怒っていた。あれほど怒っていたのに、自分は気づかなかった。

 ――それなら、自分は何を見ていたのだろう?


 机の上に残った紙へ視線が落ちる。書きかける前の白い便箋だ。

 リーゼに書くことは禁じられている。訪問も許されない。直接会って、誤解だと言うこともできない。

 誤解。

 その言葉を心の中で出した瞬間、父の声が重なる。


 ――つもりはもう聞いた。


 ヒューバートは椅子へ座る。いつもの椅子だ。背もたれの革は馴染んでいる。子どもの頃から少しずつ部屋を替え、大人用の机を与えられ、書類箱を置かれ、後継としての部屋になった。

 その部屋から、今、後継としてのものだけが消えている。

 椅子はあるが、座っても今の彼には何も決められない。


 ――アネットへも手紙が書けない。


 そのことに思い至ると、ヒューバートは立ち上がりかけ、すぐ扉の方を見る。

 廊下には従僕が一人控えているはずだった。父は外出も手紙も禁じた。アネットの療養先への接触も禁じた。

 だが明後日には、彼女は行ってしまう。

 知らない屋敷へ。知らない管理者のもとへ。薄い茶と薬湯のある場所へ。菓子を医師の許可なしには食べられない場所へ。


 ――彼女は不安がるだろう。ヒュー、と呼ぶだろう。

 ――自分が行かなければ、誰が彼女を安心させるのか。


 ヒューバートは扉へ歩き、取っ手へ触れる前に足を止める。

 廊下にいる従僕の影が、扉の下で少し動く。表向きは控えだ。けれど、彼が廊下へ出れば、すぐ家令へ知らせが行く。

 後継だった時は、誰も止めなかった。青の客間へも行けた。南棟二階へも入れた。馬車を出すこともできた。茶会へ誰を伴うかも、自分で決められると思っていた。

 今は、扉の前で足が止められる。


「若様」


 外から従僕の声がする。彼の動きを察知したのか。


「何かご用でしょうか?」


 若様。後継ではない呼び方だ。以前から使われていたはずなのに、今日は違う響きに聞こえる。


「水をくれないか」

「すぐに」


 足音が遠ざかる。

 ヒューバートは扉から離れ、また机へ戻る。

 水など欲しくなかった。扉の向こうを確かめたかっただけだ。自分がまだ動けるかどうか、試したかっただけだ。

 だが、動けない。

 座れ、と父は言った。安心させるために動くな、とも言った。

 その時は、父が大げさだと思った。

 アネットが不安なら、少し顔を見せるだけでいい。リーゼが怒っているなら、きちんと話せばいい。父が厳しくしているなら、時間を置けばいい。

 少し――きちんと――時間を置けば。

 どれも、これまで使ってきた言葉だ。

 それで、何が戻ったのか。

 部屋は戻らなかった。席も戻らなかった。リーゼの好意も、最初からなかった。

 ヒューバートは便箋を一枚引き寄せる。書いてはいけない。分かっている。けれど、書くだけなら許されるはずだ。《《出さなければよい》》。

 ペンを取る。


 ――リーゼ。


 そこまで書いて、止まる。


 ――その名で呼ばないでください。


 侯爵家の応接室で、彼女は言った。

 静かな声だった。そして、名を呼んだだけで止められるとは思っていなかった。自分は婚約者だから、彼女の愛称を呼ぶ権利くらい、あると思っていた。


 ――あったのだろうか?


 便箋の上の「リーゼ」が、急に行儀の悪いものに見える。ヒューバートは紙を折りかけ、折らずに端へ寄せた。

 次の便箋を取る。


 ――アネット。


 こちらは書ける。

 彼女は自分をヒューと呼んだ。昔からの呼び名。庭で迷った時、彼女は泣きながらそう呼んだ。自分が見つけて、手を引いて戻った。大人たちは優しい子だと褒めてくれた。

 あの時は、誰の席も使っていなかった、はずだ。


 ――本当にそうだろうか?


 ヒューバートは、子どもの頃の庭を思い出す。

 泣いているアネットを連れて戻った時、母は喜んだ。父は出先だった。客たちはほっとした顔をした。そこまでは覚えている。

 誰かが用意していた茶は冷め、誰かが探し回り、誰かが叱られたかもしれない。そこまでは覚えていない。

 はっきり覚えているのは、アネットが自分を見上げたことと、大人が褒めたことだけだ。


 ――今も同じなのか?


 書きかけた「アネット」の下へ、次の言葉が出ない。彼女へ何を言えばいいのか。


 ――僕が必ず助ける。

 ――もう会いに行けない。

 ――父に止められた。

 ――後継でなくなるかもしれない。


 後継でなくなった自分を、アネットはどう見るだろう。

 それを考えた時、ヒューバートは初めて、自分の中にぽっかりと穴が空いたような気がした。

 アネットは自分を頼った。ヒューと呼んだ。甘いものを欲しがり、具合が悪いと言い、自分が行けば顔を上げた。

 後継ではない自分でも、同じように呼ぶだろうか。

 優しいからではなく、ラドクリフ家の後継だから頼っていたのだとしたら。


 ――いや、違う。


 ヒューバートはすぐに打ち消す。


 ――アネットはそんな子ではない。彼女は弱く、純粋で、不安なだけだ。自分の立場ではなく、自分自身を頼っている。


 では、リーゼは?


 ――リーゼは自分自身を見ていなかったのか。

 ――婚約者としての立場だけを見ていたのか。

 ――礼儀と義務だけで接していたのか。


 そう考えると、腹が立つ。だが怒りがうまく続かない。

 ……彼女は最初からそう言っていた。婚約者として礼を尽くす、と。王家の意向と家同士の責任がある、と。

 自分は、それを別のものとして受け取った。受け取りたい形へ変えた。

 では、自分は何を信じていたのか? 父はこう言った。


 ――自分に都合のよいものだ。


 従僕が水を運んでくる。グラスは机の端へ置かれた。彼は部屋の中を見ないようにしている。だが、机の上の書きかけの便箋に気づかないわけがない。


「下がっていい」

「旦那様より、手紙は」

「出さないよ」


 言葉が少し強くなった。

 従僕は頭を下げ、何も言わずに下がる。扉が閉まると、ヒューバートは便箋を見た。

 出せない手紙が二枚。呼んではいけない名と、呼んでも届かない名。

 どちらにも、続きが書けない。

 机の引き出しを開ける。そこには、以前アネットが落としていった菫色のリボンが入っている。南棟二階から移した私物の中に紛れ、返すつもりで一度預かったものだ。返す機会を逃したまま、ここに残っていた。

 ヒューバートはリボンを取り出す。

 細い。軽い。少し香りが残っている気がする。

 これを持って行けば、アネットは喜ぶだろうか。療養先へ送れば、少しは安心するだろうか。彼女は自分を思い出すだろうか。

 すぐに、父の声がまた来る。


 ――出せば、さらに処分を重くする。


 ヒューバートはリボンを机の上に置く。便箋の「アネット」の横で、菫色だけが浮く。

 南棟二階の部屋にあった色だ。リーゼの部屋に残され、返却を遅らせた色だ。今になって、ようやく分かりかける。


 ――これは慰めではなく、証拠だ。


 けれど、分かりかけたものは、すぐ別の思いに押される。


 ――自分が返せばよかった。

 ――自分が直接返して、謝ればよかった。

 ――そうすれば、アネットも安心し、リーゼも分かってくれたかもしれない。


 そんな風に、彼の考えはまた戻っている。


 ――リーゼなら分かってくれる。


 ヒューバートは、机の端を見た。白い便箋、菫色のリボン、水の入ったグラス。書類箱の消えた棚。扉の外の従僕。

 分かってくれる人は、もういない。

 母は扉の前で止めた。父は後継を降ろすと決めた。侯爵は私信を禁じた。リーゼは好きだったことがないと言った。アネットは明後日、行ってしまう。

 ヒューバートは椅子に、ただ座っている。

 動けば誰かが止める。書けば誰かがそれを確認する。呼べば、その名を使うなと言われる。助けようとすれば、誰の席を使うのかと問われる。

 ……こんなに何もできないのは初めてだった。

 自分は優しいはずだった。誰かを安心させられる人間のはずだった。

 泣いている子を見つけ、手を引き、褒められるはずだった。

 けれど今、彼の前に泣いている子はいない。あるのは、出せない手紙と、返せないリボンと、空いた棚だけだ。


 *


 夜になっても、部屋の灯は消えることはなかった。

 ヒューバートは何度も便箋へ目をやるが、ペンを取ることはできない。

 取れば書いてしまう。書けば出したくなる。出せば止められる。止められれば、自分が何者でもなくなったことをまた知る。


 ――後継ではない。

 ――婚約者でもない。

 ――療養先へ同行する者でもない。

 ――誰かの席を使って優しくする者でもない。

 ――ただ、部屋に座っているだけの息子。


 廊下の向こうで、家令が誰かに指示を出す声がする。明後日の馬車の手配だろう。アネットを送るための馬車。ヒューバートが乗れない馬車。

 立ち上がる気持ちは今の彼にはない。

 座っていろ、と言われたからではない。立ち上がっても、もう向かう席がないからだ。



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