30 北からの馬車
北部の駅舎には、石炭の匂いがしみついていた。
ウォルフ・アルトハイヤーは、事務机の上に広げた図面へ、赤い鉛筆で印を入れた。
橋脚の位置を一つずらす。斜面の土が思ったより柔らかい。昨日、現場監督が持ってきた報告では、雨の後に二度崩れている。
「ここは、明日の朝にもう一度見ます」
「子爵家の若様が、自分で泥に入りますか」
現場監督が笑う。
「泥が嫌なら、鉄道の監督補佐など来ません」
「それもそうだ」
男は図面を丸め、帽子を取って出ていく。扉が閉まると、部屋には石炭と湿った紙の匂いだけが残った。
その机の端に、手紙が一通ある。エーレンフェルト家の封蝋。
昼前に届いたが、測量の確認があり、橋脚の話があり、夕方には資材の遅れを詫びる商人が来て、なかなか開くことはできなかった。それに、開けたら、北の泥も、石炭も、図面も、全部中途半端になると分かっていた。
*
夜になって、ようやく封を切ると、便箋がは一枚。
宛名は正しい。ウォルフ・アルトハイヤー様。差出人も正しい。リーゼロッテ・エーレンフェルト。どこにも、ロッテとは書かれていない。
そのことに、少しだけ笑いそうになる。
――律儀なやつだ。
ウォルフは椅子へ座り直し、読み始める。
南棟二階の部屋――事前説明なし――「私なら分かってくれると思った」。
返却の遅れ――本人確認を待つという理由で止められた私物整理。
マルヴィン伯爵夫人の茶会――用意された席――別の令嬢――愛称――「そこまで言うことか」。
便箋の上には、怒鳴り声も泣き言もない。句の並びは整っていて、余白も保たれている。
だから、彼には分かる。ロッテは相当怒っていると。
ウォルフは便箋を机へ置いた。窓の外では、夜の作業灯が線路予定地を白く照らしている。遠くで、資材を載せた荷馬車の鈴が鳴った。
出立の日、彼は言った。
――ちゃんと怒れよ、ロッテ。
――順番を守って怒れ。
あの時はあえて軽く言った。それしかできなかった。
王家の意向を受けた婚約で、エーレンフェルト家が決めたことなら、ウォルフが口を挟む場所はなかった。
だから、幼なじみとして言えるぎりぎりの言葉だけを渡して、北へ来た。
そしてロッテは、彼の言ったことを守っているようだ。手紙の最後に、そう書いてあった。
ウォルフは、もう一度そこを読む。
――私は、順番を守って怒っています。
あいつらしい、と彼は思う。そして、彼女がその一文を書くまでに、どれほど飲み込んだかも。
ふと、扉が叩かれた。
「入れ」
副監督の青年が顔を出す。雪焼けした頬に、少し疲れが見える。
「明日の現場確認ですが、朝一番でよろしいですか」
「予定を変える」
「変える?」
「私は一度、南へ戻る」
青年の眉が上がる。
「急ぎのご用で?」
「家の用だ。ここの確認は、私が今夜のうちに指示を書いておく。橋脚の件は、二号杭を基準に測り直せ。雨の後に確認した記録を添えること。商人への返事は、支払いを止めず、納期だけ詰める」
「いつお戻りに?」
「長くは空けない」
ウォルフはそう答えた。正確な日数は言えない。婚約解消の手続きがどこまで進んでいるかも分からない。だが、戻る理由はある。
リーゼロッテの婚約は、まだ完全には解けていないかもしれない。それでも、ここで彼は戻ろうと思った。
彼女の婚約者としてでも、奪いに行く男としてでもなく、幼なじみが、自分の席を守る場に立った後、その席の外で待つために戻る。
「旦那様へもお知らせしますか」
「私から書く。ここの現場を投げるわけではないと伝えておいてくれ」
「承知しました」
青年が下がる。
ウォルフは、もう一度手紙を畳んで内ポケットへ入れた。
机の上には図面が残っている。北部の泥も、石炭も、橋脚も、明日になればまた動く。
だが今夜はとりあえず、南へ向かう手配をする。
*
エーレンフェルト家へ、ウォルフ帰還の知らせが届いたのは、三日後の午前だった。
リーゼロッテは母の部屋で、ヴァルトハイム侯爵家へ返す礼状の文面を確認していた。アニーが新しい便箋を持ってきたところへ、ハルトマンが入ってくる。
「アルトハイヤー家より、お知らせでございます」
母が顔を上げる。
「ウォルフ様?」
「はい。北部より戻られるとのことです。本日の夕刻には王都へ入り、明日の午前、旦那様へご挨拶に伺いたいと」
リーゼロッテは、便箋の上の文字を見たまま止まる。
――帰ってくる。
その事実は、思ったより静かに部屋へ入ってきた。
もっと胸が乱れるかと思っていた。けれど、最初に浮かんだのは、北部の駅舎で彼が手紙を読んだだろうという想像だった。汚れた上着、図面、石炭の匂い。ウォルフはきっと、何度も読み返した。
「父は」
「書斎にいらっしゃいます。すでにお伝えしました」
母はリーゼロッテを見る。
「会いたい?」
問いは優しい。だが、軽くはない。リーゼロッテは少し考える。
「はい」
すぐに続ける。
「ただし、明日はお父様の客人として」
「ええ」
母はうなずいた。
「それがよいわ」
婚約解消の手続きは進んでいる。ヴァルトハイム侯爵家から王家への報告も上がった。
だが、書面が整うまでは、リーゼロッテはまだラドクリフ家との婚約を完全に終えてはいない。
ウォルフも、それを分かっているから《《父へ》》挨拶に来るのだ。
窓の外では、庭師が小道の砂利をならしている。来客の予定が入ったと聞けば、玄関前の植え込みも整えられるだろう。アニーはもう、明日の服を考えている顔をしている。
「深緑の昼のドレスを」
リーゼロッテが言う。
「はい。帽子は?」
「室内だからいらないわ。髪飾りは、控えめに」
「かしこまりました」
アニーは一礼して下がる。母が小さく笑った。
「早いわね」
「準備の話です」
「ええ。準備の話ね」
からかわれた、と分かった。リーゼロッテは便箋へ視線を戻す。礼状の文面が、少し読みにくくなる。
ウォルフが戻る。
それは婚約破棄の慰めにも、すぐ次の恋でもない。あくまで客として迎える。父の書斎へ通し、母が茶を出し、リーゼロッテは必要な距離で会う。それだけだ。
それでも、部屋の空気は少し変わった。
重い紙の束ばかり見ていた数日間に、北からの風が一筋入ったようだった。
*
翌朝、ウォルフは約束の時刻より少し早くエーレンフェルト家へ着いた。
玄関前で馬車が止まる。降りてきた彼は、北部へ発つ前より少し日に焼けている。上着はきちんとしているが、旅の埃が完全には消えていない。玄関のメイドが頭を下げ、ハルトマンが迎えに出る。
「ウォルフ・アルトハイヤー様。旦那様がお待ちでございます」
「急な訪問で、恐れ入ります」
「お約束の時刻でございます」
ハルトマンの返事に、ウォルフは少し笑った。エーレンフェルト家らしい、と言いたげな顔だった。
書斎では、父ウィリバルトが迎えた。母もいる。リーゼロッテは母の少し後ろに座っている。
ウォルフが入ってきた瞬間、彼女は立ち上がった。
彼はすぐに礼を取る。
「エーレンフェルト伯爵、伯爵夫人。急ぎ戻りましたこと、お詫び申し上げます」
「詫びる必要はない」
父が言う。
「北部の仕事は?」
「必要な指示を残してまいりました。長く空けるつもりはありません」
「ならよい」
父は椅子を示す。
ウォルフが座る前に、視線が一度だけリーゼロッテへ来る。ほんの短い間だ。けれど、その短さに、彼が距離を守っていることが分かる。
「リーゼロッテ嬢」
彼は、そう呼んだ。ロッテではない。
リーゼロッテは、軽く頭を下げる。
「ウォルフ様。お忙しいところ、手紙を読んでくださってありがとうございます」
「読むために送られたものですから」
その返しに、母の扇が少しだけ動く。父は何も言わない。
ウォルフは椅子へ座る。茶が出される。カップが置かれる音は、落ち着いている。誰の席もずれていない。誰の名も、別の誰かに奪われていない。
父が先に口を開く。
「手紙の内容は、どこまで理解した」
「部屋、返却、茶会。そこに呼称が加わったことまで」
「十分だ」
「ただし、私は外から聞いた者です。判断はエーレンフェルト家と侯爵家、そしてリーゼロッテ嬢のものだと承知しています」
ウォルフは、リーゼロッテへ視線を向ける。
「手紙を、ありがとうございました」
「知らせるべきだと思いました」
「はい」
彼は短く答える。
「順番を守った手紙でした」
その一言で、リーゼロッテは少しだけ息を吸う。出立の日の声が戻る。
――ちゃんと怒れよ。
――順番を守って怒れ。
書かなかった言葉を、ウォルフは読んだ。
「守れていたでしょうか?」
リーゼロッテは訊ねる。
父と母の前で、少し幼い問いだったかもしれない。だが、今は聞きたかった。
ウォルフは、迷わず頷く。
「守っています」
それだけだった。
慰めも、称賛もない。怒って当然だと声を荒げることもない。彼は、彼女が一番確かめたかったところだけを答えた。
「ありがとうございます」
父が茶を一口飲む。
「ウォルフ殿。婚約解消の手続きはまだ終わっていない」
「承知しております」
「その間、君には距離を守ってもらう」
「もちろんです」
即答だった。
「私は、リーゼロッテ嬢が婚約者のある身である間、何も求めません。今日伺ったのも、手紙を受け取った者として、伯爵へご挨拶し、状況を確かめるためです」
「よろしい」
父の返事は短い。だが、声は少しだけ穏やかになっている。
母がウォルフを見る。
「北部から急ぎ戻るほど、心配してくださったのね」
「はい」
彼はすぐにうなずく。
「ただ、心配だけで戻ったのではありません。リーゼロッテ嬢が自分の席を守る場に立ったのなら、その後、誰がどの距離にいるかも大切だと思いました」
「よく分かっていらっしゃる」
母の言葉には、少しだけ笑みが混じる。
リーゼロッテは茶を飲む。濃さも甘みもちょうど良く、香りがある。これは自分の前に置かれた茶だ。隣には母、向かいには父の客として来たウォルフがいる。
この部屋で、彼は「ロッテ」と呼ばない。そのことが、こんなにも楽だとは思わなかった。
呼べる人が、呼ばずにいる。それは、奪われない距離だった。
やがて父が、侯爵家での確認の場について簡単に説明する。ウォルフは黙って聞いた。ヒューバートの「好きだったのだろう」という発言が出た時だけ、彼の眉が少し動く。
「何か」
父が訊ねる。
「いえ」
ウォルフは答える。
「今、口を開くと礼を欠きそうでした」
母の扇が、今度ははっきり揺れ、リーゼロッテは、思わず口元を緩める。
ウォルフはそれを見て、ほんの少しだけ表情を変えた。北部の乾いた風を含んだような笑みだった。
父は咳払いを一つする。
「礼を欠かない範囲で、今後もそうしてくれ」
「努力します」
「努力では足りん」
「承知しました」
そのやり取りに、部屋の空気が少しだけ軽くなる。
重い話が消えたわけではない。婚約解消の手続きは続いている。ラドクリフ家の後継処分も、社交での説明も、まだ終わっていない。
けれど、リーゼロッテは思う。自分の席に座ることは、ただ一人で背筋を伸ばすことだけではないのだと。
隣に座ろうとしない人、呼べる名を今は呼ばない、手を伸ばせる距離にいながら、手順を待つ人がいる。
その距離の方が、ずっと近く感じることもある。
茶が二杯目に替えられる頃、父が話を切り上げた。
「今日はここまでにしよう。ウォルフ殿、王都にはどれほど?」
「数日です。北部へ戻る必要があります」
「なら、正式な手続きが進み次第、また知らせる」
「ありがとうございます」
ウォルフは立ち上がる。リーゼロッテも立つ。
客としての礼。幼なじみとしての気配。まだ越えない線。
その三つが、書斎の中にきちんと並んだ。
扉の前で、ウォルフが少しだけこちらを見る。
「リーゼロッテ嬢」
「はい」
「北は寒いですが、線路は進んでいます」
唐突な報告に、リーゼロッテは瞬く。
「そうですか」
「はい。橋脚の位置で揉めましたが、直せます。時間はかかりますが、通すべき場所へ通します」
父が、わずかに目を細めた。
リーゼロッテは、その言葉を受け取る。
線路の話だ。けれど、それだけではない。
「では、気をつけて戻ってください」
「はい」
ウォルフは礼をして、部屋を出ていく。
扉が閉まった後、母が何か言いたげにリーゼロッテを見る。リーゼロッテは先に言った。
「線路の話です」
「ええ」
母は頷く。
「線路の話よね」
父は茶を飲み、何も言わない。
リーゼロッテは窓の外を見る。庭の小道は整えられている。馬車寄せへ向かうウォルフの姿は、ここからは見えない。
けれど、北から来た風は、まだ部屋に残っている。




