31 椅子は、名で決まる
その後、ヴァルトハイム侯爵家からの正式な書状は、朝のうちに届いた。
封書は二通あった。一通は父ウィリバルト宛て、もう一通はリーゼロッテ宛て。どちらも同じ蝋で封じられている。
家令ハルトマンが銀盆を机へ置き、父はまず自分宛ての封を切った。
この日、、書斎には、母シュザンナとリーゼロッテだけがいた。家族全員で怒りをそろえる段階は、もう過ぎた。今日は、手続きの紙を受け取る日だ。
「王家への報告は済んだ」
父は一枚目へ目を通しながら言う。
「ベルンハルト王弟殿下の名で、ヴァルトハイム侯爵へ婚約解消手続きの進行を認める旨が下りている。表向きは、両家協議のうえ、婚約継続が困難となったための解消」
母の扇は膝の上で閉じている。
「表向きは、ですね」
「そうだ」
父は次の紙をめくる。
「ラドクリフ家には、王家の意向を受けた婚約において、婚約者家への説明と配慮を著しく欠いたことについて、侯爵家から厳重な注意が入る。当主バーナードは責任を認め、ヒューバートの後継処分について親族会議を開くと報告した」
「もう、後継処分まで侯爵家へ出したのですね」
「出さざるを得まい。出さなければ、ラドクリフ家全体が後継を庇っていると見られる」
リーゼロッテは、自分宛ての封書を見る。名前は正しく書かれている。リーゼロッテ・エーレンフェルト嬢。
そこに、ラドクリフ家の名はない。
数日前まで、彼女の名の横には、未来の伯爵夫人という扱いがまとわりついていた。
婚礼後の部屋、席、訪問予定、布合わせ、招待状。そのどれにも、ラドクリフ家の影があった。
いま机の上にある封書は、彼女ひとりの名で届いている。
「リーゼ」
母が声をかける。
「開けられる?」
「はい」
リーゼロッテは封を切る。便箋は一枚。侯爵夫人からの私的な言葉ではなく、侯爵家としての正式な通知だった。
――王家への報告が済んだこと。
――婚約解消の手続きが進められること。
――ラドクリフ家からの私的接触は引き続き禁じられること。
――社交上の説明は、両家協議のうえ婚約継続困難となったため、とすること。
その下に、短い一文が添えられている。
――リーゼロッテ・エーレンフェルト嬢の名誉を損なう説明は、侯爵家として認めません。
リーゼロッテは、その行をもう一度読む。
名誉。大きな言葉だと思っていた。誰かが守るもの。家が掲げるもの。社交の場で傷がついたかどうか、他人に見られるもの。
けれど、この数日の名誉は、もっと小さな場所にあった。
部屋に誰を寝かせるか。椅子に誰を座らせるか。名前をどう呼ぶか。事前に知らせるか。返すべきものを返すか。
そういう小さな扱いが積み重なって、名誉という言葉になる。
「何と?」
父が訊ねる。リーゼロッテは便箋を父へ渡した。父は最後の一文まで読み、机の上へ置く。
「侯爵家は、こちらの名を守ると言っている」
「ありがたいことです」
母の声は静かだ。
「ただ、社交の場では、それぞれ好きに読むでしょうね」
「読むだろう」
父は否定しない。
「だが、読むことと、口にできることは別だ。侯爵家がこの文を出した以上、ラドクリフ家の失態をリーゼの嫉妬や若い娘同士の行き違いにすることはできん」
「それで十分です」
リーゼロッテは言う。そして少しだけ遅れて疲れが来た。
婚約解消の書状を受け取る日を、もっと鋭いものとして想像していた。
怒りの終点。勝ち負けの決まる場。ヒューバートが落ち、アネットが去り、ラドクリフ家が頭を下げる日。
……実際には、朝の書斎で紙を読むだけだ。
机の上には、いつもの便箋があり、父のペンがあり、母の扇があり、窓の外では庭師が植え込みの形を直している。世界は、特別な音を立てずに次の手順へ進む。
それでよい。怒りは、見世物にするためのものではない。
父がハルトマンへ目を向ける。
「返答を用意する。侯爵家には、通知を確かに受け取ったこと、婚約解消手続きに異議がないこと、社交上の説明を了承することを伝える」
「承知いたしました」
「ラドクリフ家へは、直接返さない。侯爵家を通す」
「そのように」
ハルトマンが紙を用意する。父の口述が始まる前に、母がリーゼロッテの方へ少し身体を向けた。
「この後、仕立て屋へ連絡しましょう」
「仕立て屋?」
「婚礼用の布を止めたままですもの。使うもの、使わないものを分けなくては」
リーゼロッテは、南棟二階の部屋を思い出す。布合わせのために訪ねた日ら持って行った布地の見本。
あの日から、婚礼準備は止まっていた。そして止めたものは、終わった後に片づける必要がある。
「深緑の布は残しましょう。婚礼でなくとも、あなたに似合うわ」
「はい」
「淡いものは?」
「いりません」
少し早い返事になった。母が一瞬だけ目を細める。
「では、必要な分だけ」
父の口述が始まり、ハルトマンのペンが紙を走る。
リーゼロッテは、自分宛ての通知をもう一度見る。婚約解消。名誉を損なう説明は認めない。接触禁止。両家協議。
どれも重い言葉だ。けれど、もう既に、紙の中に収まっている。
ヒューバートの「分かってくれると思った」という声の中にはない。
*
その日の午後、社交のための説明が各所へ流れ、エーレンフェルト家からは、短い文面だけが出た。
――王家の意向を受け、ヴァルトハイム侯爵家の調整により進められていた婚約について、両家協議のうえ、婚約継続困難との判断に至り、解消手続きに入った。今後の問い合わせは、ヴァルトハイム侯爵家を通すこと。
そこに余計な感情は乗せられていないし、誰の名も、必要以上には出ない。
けれど、読む者は読むし、マルヴィン伯爵夫人の温室にいた者たちは、扇を閉じる。
帽子屋の奥で聞いていた者たちは、深藍のリボンを思い出す。
男たちのクラブでは、誰かが「部屋、返却、茶会」と低く言い、別の誰かが「覚えるなと言われただろ」と返す。
一度覚えたものは、もう消えない。
ラドクリフ家からも、同じ文面が出た。ただし、そこには別の紙が添えられている。
――当主バーナード・ラドクリフは、後継教育および家内管理の見直しのため、親族会議を開く。
それだけで十分だった。
社交界は、直接の言葉より余白を読む。
ヒューバートの名はまだ消えていない。けれど、後継としての椅子から立たされかけていることは分かる。
アネット・カーライルの名は出ない。だが、彼女がグレイヴス卿側の療養先へ移ることも、数日遅れて伝わるだろう。
誰も広場で裁かることはない。ただ、座る椅子が変わるだけだ。
*
夕方、リーゼロッテは自室で、止めていた婚礼準備の箱を開けた。
アニーがそばに控えている。
箱の中には、布地の見本、リボン、レース、招待状の下書き、仕立て屋からの控えが入っていた。
どれも丁寧に束ねられている。急に止めた準備でも、アニーとハルトマンが乱れないようにしまってくれていた。
「こちらは、どうなさいますか」
アニーが、淡い菫色の細いリボンを持ち上げる。婚礼後の室内着の飾りにどうかと、仕立て屋が候補に入れたものだった。
リーゼロッテはそれを見る。
――菫色。
アネットの造花を思い出す。青の客間でずれた髪飾りの話は、報告にはなかった。けれど、南棟二階に残された菫色の造花は、最初から見ていた。
「使わないわ」
「処分いたしますか」
「いいえ。仕立て屋へ戻して。使えるものなら、別の方のために」
「かしこまりました」
アニーはリボンを別の包みへ入れる。
深緑の布見本が出てくる。母が残すと言ったものだ。光の角度で、黒にも見える深い色。リーゼロッテはそれを手に取り、窓際へ持っていく。
「これは、春の外出着にできるかしら」
「よろしいと思います。帽子も合わせられます」
「婚礼用ではなく」
「もちろんです」
アニーの返事は早い。主人が何を切り離そうとしているか、よく分かっている声だった。
婚礼のために選んだ布を、別の服にする。
それは小さな作業だ。けれど、リーゼロッテには必要だった。止まった準備を、ただ箱へ戻すのではない。使えるものを選び直し、自分のための生活へ戻す。
自分の布、服、そして予定。
「招待状の下書きは」
「ハルトマンが回収いたします」
「燃やすの?」
「控えとして必要なもの以外は、処分すると」
「そう」
リーゼロッテは椅子へ座る。ここには、誰の名札もない。けれど、いつも彼女が座る場所だった。午後の光が入り、手紙を書くにも、布を見るにもよい。
アニーが茶を置く。
いつもの濃さだ。砂糖壺もある。ミルクもある。だがリーゼロッテは何も足さず、カップを持ち上げる。苦みと香りが、舌に残る。
「アニー」
「はい」
「明日、ウォルフ様はいらっしゃるかしら」
「旦那様へは、明後日にまた伺いたいとお知らせがあったそうです」
「そう」
リーゼロッテはカップを置く。
――婚約解消の通知を受け取った日に、すぐウォルフのことを考えるのは早いだろうか?
そう思いかけて、やめる。自分の中に浮かんだものを、誰かに裁かせる必要はない。
ウォルフは、距離を守っているし、自分も、手順を守る。
その上で、会いたいと思うなら、誰の席も奪うことはない。
「明後日は、深緑の方で」
「はい」
アニーは、さきほど分けた布見本を見て、小さく頷く。
机の上では、侯爵家からの通知が畳まれている。隣には、婚礼準備から外されたリボンと、これから使う布が並ぶ。
終わったものと、残すもの。その二つを分ける作業は、夕方まで続いた。
窓の外で、馬車の音が遠くを通るが、もう、その音に身構えることはない。ラドクリフ家の馬車は、ここへ来ないことになっている。
リーゼロッテは、深緑の布をもう一度広げた。それは夕方の光を受けて、色は少しだけ柔らかく見えた。




