32 甘い茶は、出ない
アネット・カーライルの出立は、朝の八時と決められた。
ラドクリフ家の玄関前には、グレイヴス卿側の馬車が止まっている。
紋章は控えめで、車体も派手ではない。そこに旅用の箱が二つ、従僕の手で積まれた。
南棟二階から青の客間へ移された私物のうち、香水瓶や造花のいくつかは、療養先では不要として別に包まれている。
白い帽子は、箱に入らなかったので、アネットはそれをかぶって玄関広間に立つ。紐は少し緩めに結ばれていた。
そして淡い灰色の外套の襟元には、菫色の小さなリボンが一つだけ留められている。アネットがどうしてもと頼み、ヘンリエッタ夫人が許したものだ。
ただし、香水はつけられていない。
「寒いわ」
アネットは閉じたままの玄関の扉を見る。馬車の支度が整うまで、広間の中で待つよう言われている。
「膝掛けは馬車にございます」
ミセス・ミュラーが答える。
「今、寒いの」
「では、こちらを」
メイドがもう一枚のショールを差し出す。アネットはそれを受け取るが、すぐ肩に掛けはしなかった。彼女が欲しかったのは、ショールではない。
やがて奥から、ヘンリエッタが夫人がやって来る。
数日前より少し顔色が悪い。アネットの前まで来て、旅の支度を一つずつ見る。帽子、外套、膝掛け、薬の小箱、医師の指示書。菓子の包みはない。
「体調は?」
「……よくありません」
アネットはすぐに答えた。
「昨夜も眠れませんでした。知らない場所へ行くと思うと、胸が苦しくて」
「そうね、医師には伝えました」
「伝えただけでは」
「途中で休憩を取ることになってます。昼の薬も、付き添いの方が管理します」
夫人の声は、以前より痩せているように思えた。優しくないわけではない。だが以前のように柔らかく包み込むような余地がない。
「……ヒューは?」
アネットは、ついにその名を出す。
広間の端にいた家令が、わずかに顔を上げ、ミセス・ミュラーは記録用の小箱を閉じる。夫人は、すぐ答えた。
「ヒューバートは来ません」
「お別れも?」
「しません」
「わたしが明日から遠くへ行くのに」
「今日からです」
アネットは唇を噛む。
――今日から。
そういうところが嫌だ。
もう、誰も少し先にのばしてくれない。落ち着いたら、と言ってくれない。具合が悪いと言っても、では薬を、では休憩を、では記録を、と返される。
「奥様」
アネットは声を細くする。
「お願いします。わたし、ヒューにひと言だけお礼を言いたいのです。こちらでお世話になったのに、何も言わずに出ていくなんて……」
「礼状なら、グレイヴス卿側を通して出せます」
「直接言いたいのです」
「いけません」
夫人の声に、アネットは初めて相手をまっすぐ見た。
以前なら、この目で誰かが迷った。可哀想な娘を追い詰めているような気にさせることができた。
けれど今日のヘンリエッタ夫人はそれでは動かない。
「わたしがそんなに悪いことをしたのですか?」
問いは広間に響く。
メイドたちの視線が下がる。従僕が玄関の外を確認するふりをする。ミセス・ミュラーだけはアネットの帽子の紐を見ている。結び目が少しずれていることは気付いたが、そのままだった。
夫人はしばらく答えを選ぶ。
「……あなたには、療養が必要です」
「そういう言い方――」
「そして、わたくしたちは、あなたをここに置くべきではありませんでした」
アネットの言葉を遮った。
「わたしは、お願いしただけです……!」
「ええ。わたくしたちは、そのあなたのお願いを、断るべきでした」
アネットの視線が揺れる。
一方的に責められ、追い出されると思っていた。だが、目の前の夫人は、自分の方へも刃を向けている。
自分がただ責められたなら、可哀想な人になれる。だけど夫人は自分自身をも責めている。だからアネットは余計にどこへ逃げればよいか分からない。
「でも、ヒューは」
「《《ヒューバート》》は来ません」
その名を、ヘンリエッタは短く切る。
「あなたのためにも、来させません」
「わたしのため?」
「今は、そういうことにしておきなさい」
アネットは押し黙り、言葉を失う。
玄関の外で、馬車の扉が開けられる音がして、グレイヴス卿側の女性管理者が入ってきた。
年は四十代半ばほど。深い灰色の旅装に、飾りの少ない帽子。背筋はまっすぐで、顔には必要な分の礼儀だけがある。
「カーライル嬢。道中お付き添いいたします、マーサ・リードです」
アネットは小さく礼を返す。
「どうぞ、よろしくお願いいたします」
「こちらこそ。最初の休憩は二時間後です。車内ではぬるい湯を用意しております。朝の薬は服用済みと聞いておりますが、確認いたします」
「……朝から、薬の話なのですね」
「はい」
マーサは迷わない。
「道中で貴女の具合が悪くならないためです」
アネットは、ヘンリエッタ夫人の方を見るが、助けは来ない。ミセス・ミュラーも、いつもの記録箱をマーサへ渡している。
「こちらが、ここ数日の記録です」
「拝見します」
「甘味と濃い茶は、医師の許可があるまで控えるようにとのことです」
「承知しました」
そのやり取りで、アネットの中に小さな怒りが灯る。
自分のことが、自分抜きで紙になって渡されている。食べたもの、飲んだもの、眠った時間、呼び鈴、薬の残り、応接室でのこと。全部。
「わ、わたし、あの時は緊張していただけです」
アネットは言う。マーサは記録箱を閉じる。
「そうかもしれません」
あまりにあっさり認められて、アネットは次の言葉を失う。
「ですが、《《緊張した場で甘味を抑えられなかった》》ことも、療養先では考慮する必要があります」
「一つだけだったら……」
「一つで止められなかった、と聞いております」
これはの新しい管理者の声だった。そして新しい場所でも、同じことを言われる、と彼女は覚悟せざるを得ない。
アネットは帽子の縁を少し下げ、玄関の階段へ出る。
朝の空気は冷たく、馬車の黒い車体が白く光っている。ヒューバートの姿はない。窓にもいない。青の客間の方を振り返っても、見えるのは壁と窓枠だけだ。
――来てくれない。
来させない、と誰かは言った。けれど、アネットの中では同じことだ。ただ一つはっきりしているのは、ヒューは、来ない。それだけだ
馬車に乗り込む時、菫色のリボンが外套に引っかかった。メイドが直そうとしたが、マーサが先に気づく。
「その飾りは、道中では外しましょう。引っかかると危険です」
「これは……」
「箱に入れましょう」
「でも」
「療養先に着いてから、管理者に確認してください」
アネットはリボンを見る。小さな飾りだ。これくらい、と思う。
――これくらい許してくれてもいいのに。
――白い帽子も、菫色の造花も、淡いリボンも、自分を自分らしく見せるために必要なものだった。
だが、マーサはただじっと待っている。
アネットはしぶしぶリボンを外す。自分で外したのか、外させられたのか、もう分からない。
メイドがそれを小箱へ入れ、蓋を閉める。小さな音がした。
馬車の中には、膝掛けと湯差しがあり、座席は清潔で、座り心地も悪くない。悪くないことが、かえって嫌だった。文句を言うためのものが少ない。菓子箱もない。
夫人が馬車のそばに立つ。
「アネットさん」
アネットは窓から顔を向ける。
「療養先で、医師と管理者の言うことを聞きなさい」
「はい」
返事はする。いい子の声だ。まだ、その声なら作れる。夫人はその声を聞いて、少しだけ目を伏せた。
「わたくしも、あなたを可哀想に思うだけで、見るべきことを見ませんでした」
アネットはその言葉の意味を測りかねる。
「奥様?」
「あなたが本当の意味で、よくなることを、祈っています」
その言葉は優しいが、戻っておいで、でも、落ち着いたらまた遊びにいらっしゃい、でもない。終わりの挨拶だ。
馬車の扉が閉められる。ラドクリフ家の玄関が、窓枠の中に収まる。
アネットはもう一度、扉の奥を見る。ヒューバートは出てこない。
馬車が動き出す。
最初の揺れで、膝の上の布が少しずれる。アネットは窓の外を見続ける。ラドクリフ家の玄関、門、庭木、鉄柵。全部が少しずつ後ろへ流れていく。
もう少しだけ、と不意に思った。
――あと一日。
――あと一度だけ、ヒューに会えたら。
――あと一つだけ、甘いものがあったら。
――あと少し体調が悪ければ、出発は延びたかもしれない。
けれど馬車は止まらない。
*
最初の休憩所では、茶が出た。
アネットは、少しだけ期待した。旅の途中だし、自分は緊張している病人だ。馬車酔いもあるかもしれない。甘いものを少し口にした方が、落ち着くと言えば……
マーサは、宿の女に湯を頼んだ。
「お茶は?」
「昼までは薄い茶を許可されていますが、先ほど少し顔色が悪くなりました。まず湯を」
「顔色が悪いなら、甘いものを――」
「必要ありません」
即答だった。
宿の卓には、他の客のための焼き菓子が置かれている。素朴なものだ。ラドクリフ家の応接室の菓子ほど美しくはない。けれど、焼き色のついた縁が目に入ると、舌の上が少し動いた。
マーサが、湯のカップをアネットの前に置く。
「ゆっくり飲んでください」
「味がないわ」
「はい。湯ですから」
アネットは、思わずマーサを見る。相手は真面目な顔をしている。嫌味ではない。本当に、湯だから味がないと言っただけだ。
それが少しおかしくて、少し腹立たしい。
「あなた、厳しいのね」
「私は療養の付き添いですから」
「優しくはしてくださらないの?」
「します」
マーサは、アネットの外套の襟を少し直す。
「馬車の中で冷えないようにします。薬の時間を守ります。食べられるものを宿へ頼みます。貴女が眠れない時は、湯を温めます」
「お菓子は?」
「今は出しません」
アネットはカップを見る。優しさが、思っていた形では出てこない。
ラドクリフ家で自分が欲しがり、受け入れられた優しさは、甘い茶だった。ヒューの声だった。苦い薬の後の砂糖菓子だった。具合が悪いと言えば、今日は仕方ないと延ばしてくれることだった。
だがこのマーサの優しさは、延ばすこととは無縁だった。薬の時間を守り、休憩を取り、馬車を進める。
それが今のアネットには、ひどく苦しい。
彼女はそれでも湯を飲む。熱すぎも、冷えてもいない。そして味はない。口の中に残っていた甘さの記憶が、少しずつ薄くなる。
宿の焼き菓子へ、またふと目が行く。マーサはそれを見ても何も言わない。言わないが、見ている。
アネットは、カップを両手で包むように持ち直す。そうしないと立ち上がってしまいそうだった。
「ヒューは、怒っているかしら」
つぶやくと、マーサは少しだけ首を傾けた。
「ヒューバート様のことは、私には分かりません」
「来なかったわ」
「来ないように決められていました」
「決められたら、来ないのね」
「決められたことを守るのは、大切です」
アネットは笑いそうになる。昨日までの自分なら、そんな言葉をつまらないと思っただろう。今も、少し思っている。
けれど、決められたことを守らなかったから、あの部屋は返されなかった。あの席はずれた。あの菓子皿は下げられた。
そこまで考えて、アネットはすぐに顔をそむける。
――考えたくない。
でも、馬車の中には詩集も香水瓶もない。菓子箱もない。考えたくないことを遠ざけるものが、今日は少ない。
*
療養先の屋敷へ着いたのは、翌日の昼過ぎだった。
大きくはないが、整然としている。庭には低い木と砂利道があり、落ち着いた様子。派手な花はない。
玄関先には年配の女性管理者と、若いメイドが一人立っていた。
医師の往診日は週に二度、急ぎの時は村から呼べるという説明を、マーサが到着前にしていた。
アネットの部屋は一階の東向きの部屋だった。窓は二つ。寝台、椅子、小テーブル、衣装箪笥。
壁は淡い灰色で、青の客間ほど冷たくは感じない。花瓶はあるが、花はまだ入っていない。
「花は?」
アネットは訊いた。管理者が答える。
「明日の朝、庭のものを少し。水替えは毎朝こちらで行います。香りの強いものは避けます」
「わたし、白い薔薇が好きなの」
「季節が合えば」
――季節が合えば。
ここでは、好きなものがすぐ出てこない。
荷ほどきが始まる。白い帽子は帽子掛けへ。外套はブラシをかけてから箪笥へ。菫色のリボンの小箱は、管理者が中を確認し、衣装箪笥の上段へ入れた。
「明日から、一日の予定をこちらに貼ります」
管理者が壁際の小さな板を指す。
「起床、食事、薬、休息、短い散歩、読書。菓子は医師の許可が出た時のみ。茶は午前中に薄いものを一杯まで」
アネットは寝台に座る。
「ずっと、その話なのですね」
「しばらくは」
「わたし、そんなに――」
言いかけて、止まる。
――そんなに悪いことをしたの?
――そんなに弱いの?
――そんなにおかしいの?
どの言葉も、うまく選べない。管理者はその言葉は受け流し、ただ、小テーブルへ湯を置く。
「今日は移動で疲れています。昼食は軽く、薬は食後に。眠る前に、もう一度湯をお持ちします」
「甘いものは」
「今日は出ません」
アネットは窓の外を見る。
庭の向こうには、知らない道がある。もうラドクリフ家の庭も、カーライル家の屋敷も見えない。ヒューもいない。ヘンリエッタ夫人もいない。リーゼロッテの深い色のドレスも、もうない。
――ここには、自分を可憐に見せる相手がいない。
そのことが、思ったより心細い。
*
昼食は、粥と柔らかい野菜だった。味は薄いが、青の客間のものより少し温かく感じた。
アネットは三口でやめようとして、管理者の視線に気づき、もう二口食べた。
薬は苦かったが、湯で飲む。口直しはない。
*
夕方、アネットが一度だけ呼び鈴を鳴らしたら、若いメイドが来た。
「眠れないの」
「まだ夕方でございます」
「心細くて」
「では、椅子を窓際へ寄せましょう。少し外をご覧になりますか」
「甘いお茶は」
「今日は出ません」
また同じ返事。
アネットは怒りかけたが、疲れの方が先に来た。
椅子へ移ると、窓の外に低い木の影が見えた。華やかな庭ではないが、手入れはされている。水の通り道も、砂利の端も、きっちりしている。
誰かが毎日、整えている。花がなくても、庭は庭だった。
アネットは、そのことを少し不思議に思う。
*
夜、湯が来る。薬も来る。菓子は来ない。
眠れないと思った。泣くかもしれないと思った。ヒューの名を呼ぶかもしれないと思った。
けれど、馬車で揺られ、湯を飲み、薬を飲み、何も甘いものを取らなかった身体は、思ったより早く重くなった。
寝台の布は、少し硬いけど、清潔だった。
アネットは、窓の方を向いて目を閉じる。
甘い茶は、出ない。その代わり、朝にはまた湯が来る。薬が来る。食事が来る。決められた時間が来る。
今はそれが罰にしか思えない。
けれど、罰の形をした規則の中で、彼女の眠りは久しぶりに深く沈んでいった。




