33 後継の名は、外される
ラドクリフ家の大食堂から、普段の椅子が数脚下げられる。
食事のためではなく、親族会議のためだった。長テーブルの上に置かれているのは、書類箱と水差し、人数分の紙とペンだけだった。家令が席を一つずつ確かめ、名札を置いていく。
バーナード・ラドクリフ伯爵の席は、上座にある。
その右に、年長の叔父であるセドリック。左に、領地管理を手伝っている従弟のマイルズ。ほかにも、母方ではなくラドクリフ家側の親族が三人ほど入る。
ヘンリエッタ夫人の席は用意されていない。彼女は当事者の一人ではあっても、後継処分を決める家の会議には座らない。
そしてここにはヒューバートの名札もない。
家令が最後に長テーブルを見て、静かに下がった。
バーナードは席に着く。書類箱を開ける前に、親族たちを一人ずつ見た。
「急な招集に応じてくれたこと、感謝する」
セドリックが顎を引く。
「事情が事情だ。ヴァルトハイム侯爵家からも、概要は届いている」
「今日は、ヒューバートの後継資格について判断したい」
バーナードは書類を出す。
南棟二階の部屋――返却の遅れ――マルヴィン伯爵夫人の茶会――ヴァルトハイム侯爵家での確認記録――アネット・カーライル嬢の療養先移動に関する記録――
そして、エーレンフェルト家との婚約解消手続き。
紙がテーブルに並ぶにつれ、食事をする場所だった大食堂が、家の骨組みを見せる場所に変わっていく。
「まず、私の責任を述べる。この三年、私は領地に出る日が多かった。北の橋の崩落、鉄道接続の補償交渉、隣領との水利権、古い小作契約の整理。どれも当主として放っておくことができない仕事だった」
マイルズがうなずく。彼はそのいくつかに実際関わっている。
「領地を守る仕事だったことは、ここにいる者も知っている。だが、その間、私は屋敷の内側をヘンリエッタへ任せすぎた。ヒューバートの社交、女性客への距離、婚約者への礼。優しい子だという報告を聞き、その優しさの中身を見なかった」
長い指で紙の端を押さえる。
「自分の責任を認めるのはよい。だが、今日決めるのは息子の後継資格だ」
「分かっている」
ヒューバートの発言記録がテーブルの中央へ出された。
「ヴァルトハイム侯爵家での確認の場で、ヒューバートは、リーゼロッテ嬢の礼儀を自分への好意と受け取っていたことを露わにした。さらに、婚約者の席を損なったことより、自分が好かれていなかったことに強く反応した」
「若い男なら、失恋に動揺はする」
親族の一人が言う。セドリックがすぐに口を開いた。
「だが、これは失恋ではないな」
その一言で、場が締まる。バーナードはうなずく。
「その通りだ。そもそも恋の成立がなかった。婚約者としての礼儀を、ヒューバートが勝手に恋へ変えた。そして、その誤認を根拠に、彼女の部屋と席を使った」
書記役の家令が、会議記録へ書き入れる。
部屋――席――誤認。
簡潔な文字ほど、逃げ場が少ない。
「アネット・カーライル嬢への対応についても問題があった」
次の紙を取る。
「ヒューバートは、同嬢の療養先への移動に、自分が同行すれば安心すると申し出た。親族でも医師でも管理者でもなく、婚約者のある男としてだ。止められた後も、私信を送ろうとした」
マイルズの眉が動く。
「で、送ったのか」
「止めた。現在、私信はすべて家令が管理している」
「あいつには、そこまでしなければならないのか」
「しなければ、勝手に出すだろう」
バーナードの返事に、誰もすぐには言葉を返すことができなかった。彼らは全くヒューバートのことを知らない訳ではなかっただけに。
セドリックは椅子の背に寄りかかる。
「後継として必要なのは、《《善良に見える》》振る舞いではない。家の名をどこへ置くか、誰の責任で何をするかを見られることだ。ヒューバートには、それが欠けている」
「私も同じ判断だ。だから息子の継承権を停止し、後継から外す。正式な廃嫡手続きへ入る。社交からも当面退かせる」
「代わりは? 宛てはあるのか?」
別の親族が訊く。バーナードはマイルズを見る。
「すぐに次を立てる話ではない。だが領地実務については、当面マイルズに補佐を頼む。後継候補は親族内で検討する。王家と侯爵家へも、家内の処分として報告する」
マイルズは軽く頭を下げた。
「必要な範囲で」
「ヒューバート本人には?」
「この場で告げる」
バーナードは家令へ目を向けた。
「呼びなさい」
家令が下がる。
大食堂は扉が開くまで沈黙が続いた。外の廊下を歩く足音が近づき、ヒューバートは家令に続いて入ってきた。上着は整っているが、目元に眠りの浅さが残っている。
彼は、自分の席を探したが、その場に名札はない。
ヒューバートの視線が、長テーブルの端から端まで動く。空いている椅子はある。けれど、そこに彼の名はない。
「ここへ」
バーナードが、卓の端に用意された椅子を示した。長テーブルに加わる席ではない。呼ばれた者が説明を受けるための椅子だ。
ヒューバートは座る。
その動きだけで、セドリックが小さく息を吐いた。
「ヒューバート」
バーナードは、書類を閉じる。
「親族会議の決定を告げる。お前の継承権を停止し、後継から外す。正式な廃嫡手続きへ入る」
ヒューバートは父を見る。昨日父から聞いた言葉が、今日は家の言葉になっている。
「……父上。もう一度、考え直していただけませんか」
「決定だ」
「僕は謝ります。エーレンフェルト家へも、侯爵家へも。リーゼにも」
「私信は禁止した」
「では、正式な謝罪文として」
セドリックが口を開く。
「謝罪文を書けると思うか」
「もちろんです」
「何を謝る?」
ヒューバートは答えようとして、少し止まる。
「部屋のこと。茶会のこと。リーゼを傷つけたこと」
「足りん!」
セドリックは短く言った。
「お前は、なぜそれが起きたかをまだ言えていない」
ヒューバートは叔父を見る。
「アネットを助けようとして」
大食堂の空気が変わる。
バーナードは押し黙り、マイルズはペンを置く。セドリックは、もう一度、同じ言葉を出した。
「足りんのだ」
「ですが、アネットは本当に」
「カーライル嬢の状態は、医師と管理者が扱う。今、問われているのはお前だ」
ヒューバートは黙る。バーナードは、そこで席から立った。
「お前は、弱い者を助けようとしたのではない。弱い者を助ける自分のために、婚約者の部屋と席を使った。そう見られている」
「僕は、そんなつもりでは」
「その言葉で、今回の会議が開かれている」
ヒューバートは唇を結ぶ。セドリックが続ける。
「後継とは、自分のつもりではなく、家の名で見られる者だ。お前が他家の令嬢をどの部屋へ入れたか、茶会で誰を伴ったか、誰に愛称を許したか。その一つずつが、ラドクリフ家の判断として見られる」
「なら、僕個人の判断として」
「後継に個人だけの判断などない」
ヒューバートの顔が、わずかに歪む。
「では、僕は何をすればよかったのですか」
「客間を用意し、医師を呼び、実家か親族へ連絡し、婚約者家へ説明する」
マイルズが淡々と答えた。
「それだけだ」
「アネットが不安がっても?」
「不安がる人間を、責任のない場所へ置き続ける方が危うい」
「でも、彼女は僕を頼って」
「頼られたからといって、背負えるとは限らない」
ヒューバートは、そこで言葉を失う。頼られることと背負うことが別だという考えが、すぐには入らないようだった。
セドリックは、その顔を確かめると、バーナードへ視線を向けた。
「決定に異議はない」
親族たちも順に同意する。反対の声は出ない。迷いはあっても、ヒューバートをこのまま後継に戻すほどの者はいなかった。
バーナードは家令へ告げる。
「記録に残せ」
「はい」
ヒューバートが、椅子から少し身を乗り出した。
「父上。僕は、どこへ」
「当面、王都の社交から退け。領地の西端にある管理小屋へ向かえ」
「管理小屋?」
「古い水路と林道の点検を行う場所だ。マイルズの部下が監督する。お前は決裁権を持たない。帳面、現場確認、報告書の写しを作る」
「僕が、そんな」
「そう、後継の仕事ではない」
バーナードは言った。
「だからそこに行かせるのだ」
ヒューバートは、大食堂の窓を見た。
外では馬車の支度もない。誰かが迎えに来る予定もない。
管理小屋――林道――水路。
アネットの療養先とも、リーゼロッテのいるエーレンフェルト家とも、王都の茶会とも違う場所だ。
「あの…… アネットの療養先は?」
その名を出した瞬間、親族の何人かが引きつった顔で彼を見る。ヒューバート自身も、言ってから遅れて気づいたようだった。
バーナードは、もういい加減驚かない。
「お前には関わりのないことだ」
「でも」
「何度も言わせるな」
ヒューバートは、ようやく下を向いた。
長テーブルの上には、彼の名札がない。後継としての席もない。座っている椅子は、説明を受けるためだけのもので、会議が終われば下げられる。
セドリックが、最後に言った。
「ヒューバート。お前が学ぶとしたら、まず誰かを助ける前に、誰の席を使うつもりか考えろ」
ヒューバートは返事ができない。分かったとも、分からないとも言えずただ、座っている。
バーナードは家令へ合図した。
「退出を」
家令がヒューバートのそばへ立つ。彼は椅子から立ち上がり、父へ礼をした。親族たちにも礼をする。形は整っている。だが、その形の中から、後継の名だけが抜けている。
扉が閉まり、大食堂には、長テーブルと紙と名札が残った。
家令が、ヒューバートのために用意していた端の椅子を下げた。床に椅子脚の跡が短く残り、すぐ従僕が敷物の端を直す。
セドリックが、バーナードへ言う。
「つらいな」
「当然だ」
バーナードは、ヒューバートの名が入った紙を手元へ引き寄せる。
「親としても、当主としても」
「領地へ出して、戻ると思うか」
「分からん」
正直に答える。
「だが、王都に置けばまた誰かの席を使うのが目に見えている。だからまず、それをできない場所へ置く」
セドリックは頷いた。
家令が会議記録を読み上げる。
――ヒューバート・ラドクリフ。継承権停止。後継扱いを解く。
――親族会議により、廃嫡手続きへ進む。
――王都社交から当面退かせ、監督付きで領地西端の管理実務に就かせる。
――エーレンフェルト家およびアネット・カーライル嬢への接触禁止。
最後の項目まで読み上げられ、親族たちが順に署名し、バーナードは最後に名を書く。
ペン先が紙を進む。自分の息子の名を、後継の欄から外すための署名だ。領地の橋を直す書類より、鉄道の補償を決める書類より、ずっと重い。
けれど、書かないわけにはいかない。
家は、椅子を間違えた者を、そのまま上座には置けない。
署名が終わると、家令が紙を乾かし、控えを作るために下がる。
長テーブルの上から、ヒューバートの名は消えた。
その日は、ラドクリフ家の夕食に、上座の隣の椅子が一つ空いたままになった。誰もそこへ座らない。空席は、空席として置かれる。
家の者たちは、その椅子を見て覚える。
優しさを理由に他人の席を動かした後継が、自分の席を失ったことを。




