34 ロッテと呼ぶ人
婚約解消の書面が整った翌日、エーレンフェルト家の庭には新しい椅子が出された。
新しいといっても、いつもは西側の小道に置かれている籐の椅子を、庭師が東屋の近くへ運んだだけだ。
午後の光が入り、風も穏やか、屋敷の窓からも様子が見える。客を迎えるにはよく、二人だけにしすぎる場所でもない。
アニーは、深緑の昼のドレスの裾を確かめる。
婚礼用の箱から残した布は、まだ仕立て上がっていない。今日のドレスは以前からあるものだ。
それでも、同じ深い色を選んだだけで、リーゼロッテには少し新しい服のように思えた。
「髪飾りは、こちらでよろしいですか」
アニーが、小さな濃い青の飾りを示す。細い葉を模した飾りで、光が当たるとわずかに青く見える。
「ええ。それで」
「帽子は」
「庭なら、あのつばの狭い方を」
「かしこまりました」
鏡の中の自分は、婚約解消の通知を読んだ日の顔より、少しだけ雰囲気がやわらかい。
疲れはまだ少し残っている。手続きが終わっても、噂や家同士の説明、ラドクリフ家の後継処分も、しばらくは続く。
けれど、今日はウォルフが来る。
その事実だけで、鏡の中の自分の表情が変わる。
「お嬢様」
アニーが帽子を持ちながら、少しだけ目を細める。
「何?」
「よくお似合いです」
「いつも言っているわ」
「今日は、少し違います」
リーゼロッテは返事を考え、やめた。アニーが見ているものを否定する必要はない。自分でも、少し違うと分かっている。
階下へ降りると、母シュザンナが玄関広間の花を見ていた。白い花より、濃い葉ものが多い。甘すぎず、重すぎず、母らしい選び方だった。
「緊張している?」
「少し」
「よろしい」
母は当たり前のように言う。
「緊張しない相手なら、わざわざ庭に椅子を出す必要もありませんもの」
「母上」
「父上も、今日は書斎の窓を開けていらっしゃるわ」
つまり、見える場所にいるということだ。リーゼロッテは少しだけ息を吐く。
「見張りですか」
「見守りです」
「同じように聞こえます」
「違います。見張りは疑っている時。見守りは、信じたうえで席を用意する時」
母は、さらりと言う。その言葉が、今日の庭に合っている。
席を用意する。
それは、誰かに奪わせるためでも、勝手に譲るためでもない。相手を迎えるために、自分で決めて置くものだ。
*
玄関の外で馬車の音がして、リーゼロッテは広間の奥で待つ。
家令ハルトマンが先に迎えに出て、客として通す。順番は守る。急ぐ必要はない。
ウォルフ・アルトハイヤーは、今日も約束の時刻より少し早い。
王都用の上着に替えているが、北部の日差しで焼けた肌と、風に慣れた立ち方はそのままだ。彼は父ウィリバルトへ挨拶し、母へ礼を述べ、最後にリーゼロッテを見る。
「リーゼロッテ嬢」
今日も、まずそう呼ぶ。リーゼロッテは礼を返す。
「ウォルフ様。お越しくださってありがとうございます」
「こちらこそ、お招きありがとうございます」
父が短くうなずく。
「庭で茶を用意してある。長くはないが、話してくるといい」
「ありがとうございます」
ウォルフは父へ頭を下げる。母にも同じく礼をする。その一つずつが、彼の言葉以上にものを言う。距離を越えない。けれど、退きすぎもしない。
庭へ出ると、東屋の近くに椅子が二つ置かれていた。隣り合うよりは遠く、正面から向き合うほどでもない。斜めに置かれた二つの椅子の間に、小さなテーブルがある。ティーカップ、薄い焼き菓子、季節の果物を少し。
菓子皿を見ても、もう別の場面は浮かばない。ここにあるものは、この庭の客のために用意されたものだ。
リーゼロッテは先に座る。ウォルフは、彼女が腰を下ろしてから、斜め向かいの椅子に座った。庭師が整えた小道の向こうでは、低い木が午後の光を受けている。
「北部へは、いつ戻るのですか」
「明後日の朝です」
「早いのね」
「橋脚が待ってくれません」
「橋脚は、なかなか厳しい相手なのですね」
「はい。機嫌を取っても沈みます」
リーゼロッテは笑った。笑ってから、自分で少し驚く。
ここ数日、笑っていなかったわけではない。家族の前ではエーミールに笑わされもした。けれど、今の笑いは違う。少し軽くて、少し落ち着かない。
ウォルフは、その笑顔をさりげなく眺めては、カップの方へ視線を移す。
「北の仕事は、まだかかります」
「ええ」
「ただ、今回は戻ってきてよかった」
リーゼロッテはカップを持ち上げかけ、すぐ置く。
「手紙の返事だけなら、北からでも出せたでしょう」
「返事だけなら」
ウォルフは、茶を一口飲む。
「でも、ロッテが順番を守って怒った後に、私が北から紙だけ送るのは、少し足りないと思った」
名前が落ちる。
――ロッテ。
庭の中で、呼ばれた。
父の書斎でも、玄関広間でもない。母の目が届く庭で、距離を守った席の上で、彼は初めてその名を使った。
リーゼロッテは、すぐには返事ができなかった。
返事をしたいのに、名前の余韻が先に広がる。
アネットの「ヒュー」は、席を盗る声だった。ウォルフの「ロッテ」は、置いてあった椅子へ静かに戻ってくる声だった。
「もう、呼んでいいのですか」
リーゼロッテは訊ねる。ウォルフは、少し困ったように笑った。
「それを、こちらが聞くつもりでした」
「では、聞いてください」
ウォルフは姿勢を少し正す。
「ロッテ、と呼んでもいいか?」
庭の向こうで、鳥が一度鳴く。屋敷の窓が開いていることも、母がどこかで聞いているかもしれないことも、今は分かっている。それでも、その問いは二人の間だけに置かれた。
「いいわ」
リーゼロッテは答える。
「呼んで」
ウォルフの顔が、少しだけ緩む。北部の乾いた風が庭の中へ戻ってきたような顔になる。
「ロッテ」
「うん」
ただそれだけで、茶の香りが変わった気がした。
ウォルフは、焼き菓子の皿を少しだけリーゼロッテの方へ寄せる。
「これ、食っていいやつ?」
「客人用でしょ」
「じゃあ、もらう」
「聞くまでもないじゃない」
「いや、いまの私は礼儀正しい客人だからな」
「自分で言う?」
「言っておかないと、君の父上に窓から見られていそうで」
ウォルフが焼き菓子を取る。リーゼロッテも一つ取った。薄く焼かれた菓子は甘すぎず、口の中で軽く割れる。
「北部では、こういう菓子は出ないの?」
「出ないな。固いパンと、よく分からない煮込みなら出る」
「よく分からない煮込み……」
「材料を聞くと、知らなかった方が幸せだったと思う時がある」
「それ、食べて大丈夫なの?」
「今のところ生きてる」
「答えになってない」
声を立てて、彼女は笑う。
「よかった」
「何が?」
「君が笑ったから」
彼はそれだけを言う。慰めるためではなく、確かめるように。
リーゼロッテは、カップの縁を見る。
「笑えるわよ」
「うん」
「そりゃ、怒ってるし、疲れてもいる。でも、今は笑えるの」
「うん」
「……その返事、昔から多いわね」
「ロッテが言ったことを、勝手に別の意味にしたくないからな」
リーゼロッテは顔を上げる。ウォルフは、まっすぐこちらを見ている。熱のある告白ではない。けれど、これ以上ないほど今の彼女へ向けられた言葉だった。
――勝手に別の意味にしない。
――礼儀を恋だと受け取らない。
――怒りを嫉妬にしない。
――距離を拒絶だと決めつけない。
その慎重さに、ほんのり恋の色が差している。
「ウォルフ」
「何だ」
「私は、今すぐ次の婚約の話をしたいわけじゃないのよ」
「分かってる」
「でも、あなたが北部から戻ってきたのは、本当に嬉しかったの」
彼は一度だけ目を伏せる。茶の水面に庭の光が映った。
「それを聞けただけで、戻ってきた甲斐があるな」
「橋脚に叱られない?」
「叱られる」
「じゃ、ちゃんと謝って」
「橋脚に?」
「現場監督に」
「そっちには、もう謝った」
軽いやり取りの後で、二人は少し黙った。茶を飲み、庭の音を聞き、隣ではない席に互いがいることを確かめるための間だった。
リーゼロッテは、東屋の柱に絡む葉を見る。
「婚約解消の手続きは終わったけど、社交ではしばらく話になると思うの」
「なるだろうな」
「あなたが戻ってきたことも、すぐ話になるわ」
「だろうな」
「分かってるなら、もう少し困った顔をしてよ」
「困ってはいる。顔に出すと、ロッテが余計に気にするだろ」
「そういうところ」
「どこだ」
「昔から、変に気を回すところ」
「ロッテも昔から、変に気を回すよな」
「お互いさまね」
「そうだな」
リーゼロッテは、焼き菓子の皿を見た。もう一つ取るほどではない。
「私は、あなたの名前を、ラドクリフ家への当てつけに使いたくないの」
ウォルフはすぐに頷く。
「使われるつもりもない」
「でも、いずれ」
言葉が少し止まる。
――いずれ。
未来のことを口にするのは、まだ少し怖い。ヒューバートとの婚約も、王家の意向も、家の責任も、すべて未来の名で迫ってきた。その未来を一つ解いたばかりだ。
それでも、目の前にいる人との未来は、別の形をしている。
「いずれ、父と母に、ちゃんと話すわ」
リーゼロッテの言葉に、ウォルフは、カップの向こうで姿勢を正す。
「うん」
「今じゃないから」
「分かってる」
「北部の橋脚が落ち着いてからよ」
「できれば、崩れる前に一度」
「……それは困るでしょ」
「私も困る」
二人は、また少し笑う。
庭の向こうで、父の書斎の窓が閉まる音がした。わざとなのか、風なのか、分からない。リーゼロッテは音の方を見て、母がどこかで笑っている気がした。
ウォルフも気づいたらしく、茶を飲むふりをする。
「ありゃ、聞こえてたな」
「たぶんね」
「じゃあ、今の『いずれ』も」
「聞こえてるでしょうね」
「……私は、明後日ちゃんと北部へ戻れるんだろうか」
「お父様が橋脚を見に行くと言い出さなければね」
「それは困る」
「私も困るわ」
さっきと同じ言葉になった。そして二度目の方が、少し近い。
午後の光が傾く。アニーが遠くから新しい湯を持ってくるのが見えた。時間が区切られる。今日の茶は長くしすぎない。そう決められている。
ウォルフはその動きを見て、椅子に座ったまま言った。
「なあ、ロッテ」
「何?」
「私は北へ戻る。でも、今度は黙って離れるつもりはないから」
「手紙をくれる?」
「うん。伯爵を通してだけど」
「順番を守るのね」
「ロッテに鍛えられたからな」
「私が?」
「出立の日からずっと」
リーゼロッテは、少しだけ帽子のつばを傾ける。顔が熱いのを、風のせいにするには今日の庭は穏やかすぎる。
「じゃあ、私も返事を書くわ」
「うん」
「事実だけじゃない手紙をね」
ウォルフの顔が、今度こそはっきり明るくなる。
「……それは、楽しみだ」
「期待しすぎないでよ」
「無理だな」
アニーが近づき、茶の替えをテーブルへ置く。彼女は何も言わない。けれど、目元だけで十分に何かを言っている。だがリーゼロッテは見ないふりをした。
庭の椅子は、斜め向かいのまま置かれている。
まだ隣ではない。でも、遠くはない。
ウォルフは、カップを取る前にもう一度言った。
「ロッテ」
「何?」
「その席、座り心地はどうだ」
出立の日にはなかった問いだ。茶会の温室にも、侯爵家の応接室にも、ラドクリフ家の南棟二階にもなかった問い。
リーゼロッテは、自分の椅子に腰を落ち着ける。
籐の背は少し硬い。庭の光はまぶしすぎず、足元の砂利は整っている。前には茶があり、斜め向かいには、呼べる名を待ってくれる人がいる。
「悪くないわね」
ウォルフは笑う。
「そりゃよかった」
「うん」
リーゼロッテも笑う。
「かなり、悪くない」




