35 私の席
北部からの手紙は、少し煤の匂いがする。
リーゼロッテは、窓際の机で封を切った。
封筒にはアルトハイヤー家の印が押され、宛名はいつも通り正しい。リーゼロッテ・エーレンフェルト嬢。
だが、便箋の最初の一行だけは違う。
――ロッテへ。
そこから先は、鉄道の話だった。
――橋脚の位置は直した。
――雨の後に崩れていた斜面は、杭を増やして固める。
――現場監督は相変わらず煮込みの材料を教えてくれない。
――北の朝はもう冷える。
――こちらで見つけた小さな菓子は、菓子というより乾いた石に近い。
リーゼロッテは、そこまで読んで笑う。
ウォルフの手紙は、事実ばかりではなくなった。かといって、甘い言葉ばかりでもない。仕事のこと、天気のこと、現場の人々のこと、そして、ほんの少しだけ、こちらへ向いた言葉が混じる。
――あの庭の席は、まだあるか。
リーゼロッテは便箋を机へ置き、窓の外を見る。
庭には、あの日の籐の椅子がある。毎日そこへ置かれているわけではない。雨の日は下げられ、来客が多い日は別の場所へ移される。
それでも、庭師は東屋の近くを少し丁寧にならすようになった。アニーも、午後の茶を用意する時、そこへ視線をやる。
父は何も言わない。
母はたまに、見守りと見張りの違いについて語る。
アドルフは一度だけ、北部の橋脚を見に行くかと言い出し、父に仕事を積まれた。
ヒルデガルドは夫家の茶会で、ウォルフの名が出ても笑って別の話へ流した。
エーミールは厩で馬に何も言っていない、と自分から報告してきた。
皆、少しずつ元の場所へ戻っている。
ラドクリフ家の名は、社交の場で大きく扱われなくなった。大きく扱われないまま、静かに避けられている。
ヒューバートは王都を離れ、領地西端の管理実務へ回されたと聞いた。親族会議の決定はそのまま。後継の椅子は、しばらく空けられる。
アネット・カーライルは、療養先にいる。グレイヴス卿側からは、医師の管理下で生活しているという知らせだけが届いた。甘い茶は出ず、薬と食事と睡眠の時間が守られているらしい。社交の可憐な病弱令嬢として戻る日は、すぐには来ないだろう。
――それでいい。
リーゼロッテは、その先を考えるのを止める。
彼らの席は、彼らの場所で決まる。そして自分の前にあるのは、北部からの手紙だ。
彼女は返事を書き始める。
――ウォルフへ。
最初の一行を書いてから、少し考える。
以前なら、ここでペンが止まった。婚約者のある身で、幼なじみへどこまで書くべきか。どの名を使うべきか。どの距離なら礼を欠かないか。
今も礼は必要だ。だが、もう隠す必要はない。
――庭の席はあります。今日は雨なので下げられていますが、東屋の近くの砂利は、庭師が妙に丁寧にならしています。
次に、家族のことを書く。母が見守りと見張りの違いを語ること。兄が北部へ行きたがり、父に仕事を積まれたこと。エーミールが馬へ何も言っていないと主張していること。
書いているうちに、便箋の上に笑いが戻る。
最後に、少しだけ迷ってから書く。
――私も、その席にまた座りたいと思っています。
書いてから、顔が熱くなる。
事実だけではない手紙を書くと、自分で言った。
これは事実ではないのかもしれない。願いに近い。だが、願いを入れてもよい相手へ書いている。
リーゼロッテは封をし、アニーを呼んだ。
「お父様へ確認してから出して」
「かしこまりました」
アニーは銀盆へ手紙を載せる。出ていく前に、少しだけ微笑んだ。
*
ウォルフが再びエーレンフェルト家へ来たのは、秋の初めだった。
北部の橋脚が落ち着き、線路は予定より少し遅れながらも進んでいるという。
彼は父ウィリバルトへ長い報告をし、母シュザンナへ北部の菓子がどれほど固いかを説明し、アドルフに現場の馬の話を聞かれ、エーミールに鉄道の速度を問われた。
その後で、庭へ通される。
東屋の近くには、籐の椅子が二つある。斜め向かいより、今日は、少しだけ近い。
とはいえ、隣り合うにはまだ早い。小テーブルを挟み、互いの顔がよく見える位置に置かれている。
父の書斎の窓は、半分だけ開いていた。母の部屋の窓も、なぜか少し開いている。
「見守りが多いね」
リーゼロッテが言う。
「見張りでは?」
「お母様によると違うそうよ」
「なら、信じよう」
ウォルフは椅子に座る。リーゼロッテも自分の椅子へ腰を下ろした。
秋の光は夏よりやわらかく、庭の葉は少し色を変え始めている。茶は温かく、菓子は薄く焼かれている。
「ロッテ」
「何?」
「手紙、読んだ」
「あなたの返事も読みました」
「庭師が丁寧にならしている席に、また座りたいと書いてあった」
「書いたわ」
「うん」
ウォルフは、茶を飲む前に少し笑う。
「だから、戻ってきた」
「橋脚は?」
「落ち着いた」
「現場監督は?」
「煮込みの材料を最後まで言わなかった」
「……それは、結局大丈夫なの?」
「おそらく」
二人は笑う。以前より近い。けれど、軽すぎることはない。
ここまで来るのに、いくつもの紙と手順と、互いの家の窓があった。それを二人とも分かっている。
ウォルフは、テーブルの上に小さな箱を置いた。
「これ、土産」
「北部の石みたいな菓子?」
「それはやめた。歯を壊す」
「賢明ね」
「代わりに、線路沿いの町で見つけた」
箱を開けると、濃い青のリボンが入っていた。しっかり織られた、少し硬めのリボンだった。帽子に使っても風に負けることがなさそうなものだ。
「深緑に合うと思った」
リーゼロッテは、リボンを見る。
菫色のような淡すぎる色ではなく、深い色の布へ合わせるための、強い青。
「ありがとう」
「気に入らなかったら、馬の飾りに」
「それは困るわ」
「私も困る」
同じ言葉が、また戻ってくる。
アニーが少し離れた場所で茶の替えを用意している。聞こえているだろう。聞こえていても、今日はもう構わない。
リーゼロッテはリボンを箱へ戻さず、膝の上の布に置いた。
「使うわ。帽子に」
「よかった」
「でも、あなたが選んだと言うと、お母様が何か言うと思う」
「言われる覚悟はある」
「お父様も何か言うわよ」
「そちらの覚悟は、少し時間が欲しいな」
「弱いわよ」
「伯爵は橋脚より厳しいんだよ」
リーゼロッテは笑う。ウォルフも笑う。庭の空気が、秋の光の中で少し温かくなる。
しばらく、二人は北部の話をした。
線路の進み具合、雨の後の斜面、現場の馬、宿の固い寝台。
リーゼロッテは、仕立て直した外出着の話をした。婚礼用に止めていた深緑の布は、春の服ではなく秋の外出着になった。帽子はまだ仕立て屋にある。今日のリボンを合わせれば、ちょうどいいだろう。
ウォルフは、その話を途中で別の意味に変えない。ただ聞いてくれる。
そして時々相槌を入れ、笑う。こちらの言葉を待つ。
その待ち方が、今のリーゼロッテには心地よかった。
「ロッテ」
少しして、ウォルフが声を変えた。軽い話ではない、と気付く。
「うん」
「今日は、伯爵に話すつもりで来た」
リーゼロッテは、カップを置く。
「何を?」
「いずれの話」
庭の音が、一瞬だけ遠くなる。小テーブルの上には茶があり、リボンの箱があり、二人の椅子がある。
「今すぐではないと、言ったわよね?」
「分かってる」
「私も、まだすぐ、婚約へ進みたいわけじゃない」
「それも分かってる」
「では、何を話すの?」
ウォルフは、少しだけ背筋を伸ばす。
「今すぐ求婚する許しではなく、求婚する日のために、通ってもいいかを聞く」
リーゼロッテは、彼を見る。
急がないけれど、曖昧にしない。ウォルフらしい言い方だった。
「お父様、たぶん色々あなたに聞くわよ」
「何を」
「北部の仕事はどうするのか。家の許しはあるのか。私を当てつけにするつもりではないか。急いでいないと言いながら急いでいないか」
「全部答えるよ」
「橋脚の話も聞かれるかも」
「それなら得意だ」
「よかった!」
リーゼロッテは、箱の中のリボンへ視線を落とす。
「ねえ、ウォルフ」
「何だ?」
「私、あの婚約で疲れた」
「うん、そうだろうな」
「怒りもしたし、家に守られもした。でも疲れたの。だから、誰かの妻になる話へ、すぐに綺麗に切り替えることはできない」
「うん、わかってる」
「それでも、あなたが来る日は嬉しいの」
ウォルフは、まっすぐこちらを見ている。
「手紙を待つのも、嬉しいのよ」
「うん」
「その返事が『うん』ばかりなのも、少し腹が立つけど、安心もする」
「そこは直そうか?」
「直さなくていいわよ」
「うん、分かった」
「また、うんって言った」
「じゃ、ただ、分かった」
二人は、また少し笑う。
笑い終えた後、ウォルフが静かに言う。
「ロッテ。私は待つよ」
待っていた、ではない。待つ。これからの言葉だ。
「でも、ただ遠くで黙って待つのはやめる。手紙を書く。来られる時は来る。伯爵と伯爵夫人に話す。ロッテが嫌なら、そこで止まる」
「嫌じゃないわ」
リーゼロッテはすぐ答えた。答えてから、少しだけ照れる。
「嫌じゃないのよ」
ウォルフの表情が、ゆっくり明るくなる。
「それは、かなりいい返事だ」
「求婚への返事ではないからね」
「分かってる」
「分かっているなら、結構」
東屋の向こうで、父の書斎の窓がまた小さく音を立てる。今度は風ではない気がした。ウォルフもそちらを見て、少し緊張した顔になる。
「そろそろ伯爵へ話してくるよ」
「頑張って!」
「橋脚より厳しいけどな」
「それ、お父様には言わない方がいいから!」
「分かった」
ウォルフは立ち上がる。リーゼロッテも立つ。庭の茶はまだ少し残っている。菓子皿にも一枚だけ残っている。けれど、今日の席はここで区切るのがいい。
彼が書斎へ向かう前に、リーゼロッテは声をかけた。
「ウォルフ」
「何?」
「戻ってきてくれて、ありがとう」
彼は少しだけ首を傾ける。
「また戻ってくるから」
「うん」
今度は、リーゼロッテがそう答えた。
ウォルフは笑い、屋敷へ向かう。
リーゼロッテは庭に残る。籐の椅子、小卓、茶器、青いリボンの箱。どれも、そのままそこにある。誰かに押しのけられたものはない。
彼女は自分の椅子へもう一度座る。父の書斎へ向かうウォルフの背中は、庭木の向こうに消えた。
すぐに結果が出る話ではない。けれど、これからの手順が始まる。
リーゼロッテは、膝の上の青いリボンをそっと撫でる。
――秋の外出着に、きっと似合う。その服を着て、いつか北部の線路を見に行くのも悪くない。
まだ先の話だ。でも、先の話を考えることが、もう怖くない。
庭の椅子は、少し硬い。座り心地は完璧ではない。それでも、リーゼロッテはそこへ落ち着いている。
誰かが用意した席に、自分の名で座っている。
それだけで、午後の光は十分にあたたかかった。
END




