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私が使うはずだった部屋に病弱令嬢を寝かせた婚約者とは、白紙に戻します  作者: さんけい


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6 ロッテと呼ぶ人

「ウォルフには、知らせるの?」


 母がその名を出した瞬間、部屋の中の空気が少しだけ変わる。父は肘掛けに置いた腕もそのままに、視線だけをリーゼロッテへ送る。

 アニーも後ろで控えたまま、息をひそめた。

 家令が下がった後の居間には、献立表と、冷めかけた茶と、リーゼロッテが使わなかった布見本の箱がある。

 ウォルフ・アルトハイヤー。

 その名を聞いても、今はもう胸が痛むということもない。彼が遠方の仕事へ出ると決めた日以来、もうそんなことは起きない。


「いえ、まだ」

「そう」


 母はそれだけ言い、父が少し眉を寄せる。


「お前がそう言うなら、今はそれでいい。ただ、あいつの耳にはいずれ入る」

「ええ」


 入るだろう。

 アルトハイヤー家とうちは、領地も近く、古くからの付き合いがある。

 父伯爵とアルトハイヤー氏は、若い頃から馬と山と猟犬の話ばかりしている仲だ。母と向こうの奥様も、春の保存食と秋の繕い物の量で互いにため息をつく仲である。

 そしてリーゼロッテとウォルフは、幼い頃から同じ庭で育った。

 向こうの屋敷へ行けば、リーゼロッテはいつも東の林まで走っていく。ウォルフはたいてい先にいて、木の根に腰掛け、本を読んでいた。

 リーゼロッテが枝に引っかかった帽子を取れずにいると、彼は本に栞を挟み、呆れた顔で立ち上がる。


「ロッテ、またそんなところへ登ったのか」


 そう呼ぶのは、彼だけだ。

 リーゼでも、リーゼロッテでもない。《《ロッテ》》。


 *


 初めてそう呼ばれた時、リーゼロッテは怒った。そんな呼び方をしてよいとは言っていない、と言ったはずだ。

 だがウォルフは平然としていた。長い名を毎回呼んでいたら、君が木から落ちる方が早い、と言った。

 ひどい言い分だ、と後になれば彼女もそう思う。けれどその日から、彼だけはそう呼ぶようになった。


 周囲の大人たちは、リーゼロッテたちを見るたびに同じような顔をした。まだ何も決まっていないのに。

 エーレンフェルトとアルトハイヤーなら家格も釣り合う。領地も近い。気質も合う。なにより本人同士が、黙って同じ馬を見ていられる。

 恋というより、もっと生活に近い。

 冬にどの道が凍るか知っていること。春先に厩の屋根から落ちる雪を避けること。

 夏の夕方、母たちが話し込んでいる間に、厨房から冷えた果実水を二つ取ってくること。

 秋の猟犬が太ったか痩せたかで言い合うこと。

 そういうものの積み重ねの先に、たぶん結婚があるのだろうと、皆が思っていた。

 リーゼロッテも、強く望んだわけではない。ただ、いつかそうなるなら悪くないと思っていた。

 ウォルフとなら、朝の厩で顔を合わせても困らない。領地の話をしても、家の修繕の話をしても、黙っていても、たぶん無理がない。


 そんな頃に、王家から話が来た。ラドクリフ家との婚約だ。

 王命、とまではいかなかった。陛下の印が押された命令書が届き、これに従えと告げられたわけではない。

 けれど、王家が望ましいと考え、両家の結びつきを進めよという意向が示された時、それを軽く扱える伯爵家などない。

 ラドクリフ家は王都寄りの名家だが、近年少し立場が揺れていた。王家はそこを突きたがった。

 エーレンフェルトは質実で古い地方貴族としての信用がある。リーゼロッテがヒューバートと婚約すれば、ラドクリフ家は王家の近くに戻り、エーレンフェルト家も中央との結びつきを強める。

 そういう話だった。

 父はその日、長く黙っていた。母はリーゼロッテに、すぐ答えなくてよいと言った。

 けれど答えないでいられる時間はあまりなかった。

 家はリーゼロッテ一人の気分で動いていない。

 父が積み上げ、母が守り、使用人たちが日々動かしているものがある。

 王家からの意向を受けるということは、それら全部を一度テーブルの上に並べることだ。


 そしてその夜、ウォルフが来た。いつもの乗馬服ではなく、きちんとした上着で。

 それを見てリーゼロッテは分かってしまった。ああ、この人は聞いたのだ、と。

 父と母は、二人を庭へ出した。春の終わり、白い小さな花が垣根の下に残っていた。

 ウォルフはしばらくそれを見てから、リーゼロッテを見た。


「ロッテ」

「何?」

「返事は、決めたのか」

「まだだけど」

「そうか」


 いつもなら、リーゼロッテが早く決めろと言われる前に決めるくせに、とでも言う。

 けれど、その日は言わなかった。

 庭師が遠くで道具を片づける音がし、屋敷の窓には灯りが入っていた。


「王家の話なら、受けた方がいい」

「あなたが言えることじゃないでしょう」

「うん。でも、今だけは言う」


 その言い方で、リーゼロッテは少し腹が立つ。


「今だけ?」

「俺がここにいて、君が迷う理由になるのはよくないだろ?」


 そこで初めて、彼がもう決めてきていることに気づく。


「あなた、何をするつもり」

「俺は北部へ行く。鉄道敷設の監督補佐を探している話があるんだ。父の知人が噛んでいてさ。前から声はあった」

「北部って…… 国境近くじゃないの!」

「遠いな」

「遠いな、じゃないわよ」

「うん」


 彼はあっさりうなずく。リーゼロッテは彼のそういうところが昔から嫌だった。

 腹の据わり方が、こちらより半歩早い。リーゼロッテが怒る場所まで、先に片づけてしまう。


「あなた、私から逃げるんでしょ」

「そうだよ、俺は君から逃げる」


 あまりに正直に返すので、言葉が少し止まる。


「君の婚約者の近くで、幼なじみ面をしている男になるのは嫌だ。君も困る。エーレンフェルト家も困る。うちも妙な目で見られるだろう?」

「私は困らないと言ったら?」

「確かに君は、困らない顔をするだろうさ」


 ウォルフは、リーゼロッテを見る。


「でも、ロッテ。君はそういう顔ができる」


 その言葉は、妙に彼女の胸に突き刺さった。責められているわけではないのに。


「でも、面倒だろ? 俺が近くにいれば、君は俺のためにも平気な顔をする。だから行く」

「は、勝手ね!」

「そうだな」

「私の中で何もまとまっていないうちに」

「先に君に言われたら、行きにくくなるだろ」


 腹が立った。

 けれど、その腹立ちは今日ラドクリフ家で覚えたものと違った。

 ウォルフはリーゼロッテの我慢を当然のようにはしなかった。

 リーゼロッテが平気な顔をすることを知っていて、それに寄りかからないために離れたのだ。だから余計に腹が立つ。


「いつ発つの?」

「十日後」

「早いわよ!」

「早くしないと、皆が慰めに来る」

「誰を?」

「俺を」


 少しだけ、彼は苦笑いを浮かべた。リーゼロッテは笑えなかった。


「私ではなく?」

「君を慰めに来たら、君は全員に茶を出すだろう」

「当然でしょ」

「だから駄目だ」


 ウォルフは庭の白い花を一輪摘もうとして、やめた。母夫人から大事にされている垣根だと思い出したのだろう。そういうところまで知っていた。


「ヒューバート・ラドクリフは、悪い男ではないと聞いている」

「私もそう聞いているわ」

「なら、本当に悪い男ではないことを祈るよ」


 その時、リーゼロッテは返事をしなかった。


 *


 たしかに、ヒューバートは悪い男ではないのだろう。今日だって、彼は病人を追い出したわけではない。弱った女を見捨てたわけでもない。優しくしようとしている。

 けれど、悪い男ではないということと、婚約者の席を守ることは別だ。

 あの時のリーゼロッテは、まだそれを知らなかった。


 *


 ウォルフは十日後、本当に北部へ出発した。

 その日、リーゼロッテは見送りに出た。彼は荷馬車に近い頑丈な車に荷を積んでいた。仕事道具が多い。厚い外套、測量用の器具、図面筒、泥に強い靴。貴族の若者が気分転換に遠出する荷ではない。


「なあロッテ」

「何」

「これからもちゃんと怒れよ」


 その言葉に、リーゼロッテは顔を上げる。


「何を」

「怒ることがあったら」

「何言ってるの、私は怒ることがあったらちゃんと怒るわ」

「知ってる。でも、君は順番を守りすぎることがある」

「順番は大事でしょう?」

「大事だ。だから、順番を守って怒ってくれよ」


 *


 あれは妙な言い方だった、と今の彼女は思う。

 けれど今、居間で母と父の前に座っていると、その言葉が戻ってくる。

 順番を守って怒れ、と。

 確かに自分はそうしたのだろう。

 ラドクリフ家で怒鳴ることもなく、病人の寝台の前で、ヒューバートを責め立てることもなく、ヘンリエッタ夫人の応接室で、茶器を下げさせもしなかった。

 そして帰って、ただ報告して、記録に乗せる。順番は守っている。


「ウォルフは、北部へ行く前に言いました」


 リーゼロッテは母へ向き直る。


「何を」

「怒ることがあったら、順番を守って怒れ、と」


 母はあら、と小さく声を立て、父は、低く息を吐く。笑ったのかもしれない。


「は、あいつらしい」

「はい」

「それで、お前は怒っているのか?」

「怒っています」


 今度は迷わず答える。


「この婚約が王家の意向で決まったものだから、私は自分の気持ちを脇へ置きました。ウォルフも身を引きました。家同士の責任があると思ったからです」


 母はリーゼロッテを見る。


「ええ」

「なのにヒューバート様は、私が婚約者として果たそうとした礼を、ご自分への好意だと思っているようです」


 言葉にすると、やはりその点が一番腹が立つ。

 そしてつい思い出してしまう。

 ラドクリフ家の南棟二階。白い帽子。菫色の造花。寝台の横の砂糖菓子。ヒュー、と呼ぶ声。リーゼロッテなら分かる、という顔。


「その点については絶対に許しません」


 父の指が肘掛けから離れる。母は伏せていた献立表を横へ寄せる。


「では、順番を守りましょう」


 母が言う。


「まず確認状。次に、返答。そこで曖昧なら、こちらから日を切ります」

「はい」

「で、ウォルフには?」


 リーゼロッテは少しだけ考える。

 北部の鉄道敷設地は遠い。手紙も遅れる。今この段階で知らせれば、彼は仕事を放り出して戻るかもしれない。戻らないとしても、余計な心配をする。

 だったらその手紙は、今出すものではない。


「今は知らせません」

「分かったわ」

「ただ」


 リーゼロッテは、ラドクリフ家から持ち帰った布見本の箱を見る。


「この件が婚約の解消に進むなら、その時は私から書きます」


 ロッテ、と遠い北部で、彼がそう読むかどうかは分からない。

 けれど、その名で呼ぶ人にだけは、自分の方から伝えるべきだと彼女は思った。


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