5 エーレンフェルト家では、花の匂いまで報告する
「ただいま戻りました」
リーゼロッテが屋敷に戻ると、父伯爵はいつも通り厩の前にいた。
エーレンフェルト伯爵家の当主について、大概の人はこういう。いつも馬の脚を見ていると。
実際、そうとしか答えようがない。リーゼロッテにとって、父は昔からそういう人だ。
王宮に出る服より、狩猟服や乗馬服の方が身体に馴染んでいる。この日も上着の袖をまくり、厩番と一緒に若い馬の膝を見ていた。
「おお、早かったな。確か今日は大事な用事があるんじゃなかったのか?」
父はリーゼロッテの馬車を見て、まずそう言う。
アニーが先に降り、リーゼロッテへ手を差し出す。リーゼロッテはその手を借りて地面へ降りる。
「布合わせのことでしたら、無しになりました」
「ほう? 何かあったのか?」
「ラドクリフ家の南棟二階、私が使う予定の部屋に、アネット・カーライル様が寝ています」
父が馬の膝から目を離す。厩番も、ブラシを持ったまま止まる。
「……誰だ? それは」
声が低くなる。
「ヒューバート様の幼なじみで、遠い親戚筋の男爵令嬢だそうです。昨夜、具合が悪くなり、しばらくラドクリフ家で預かることになったとか」
「それで何故お前の部屋に寝るんだ」
父伯爵は病人を責めない。可哀想かどうかも言わない。まず部屋の線引きを見る。
「皆おっしゃいました。日当たりがよく、風が通るから、と」
「一階に客間があるだろう」
「ええ、あります」
「医師は?」
「来たようです」
「カーライル家への連絡は」
「まだのようです」
父は眉を寄せ、ううむとうなる。ラドクリフ家が昨日から今朝にかけてしなかったことが、今この時の父の頭の中で順に並んでいくのだろう。
馬、厩、飼葉、使用人、客間、手紙、馬車。父はそういう数え方をする。
「リーゼ、今はすぐに奥へ行け。お前の母に話せ。俺も行く」
「今日はお馬はよろしいのですか?」
「馬は逃げん」
はい、と厩番が、少し胸を張る。
「旦那様。こちらは見ておきます!」
「頼む!」
袖を戻しながら歩き出す父の横へ彼女は並ぶ。
*
エーレンフェルト家の本館は質実剛健、と言うのが正しい。
ラドクリフ家のように飾り立てない。玄関広間の花も、香りの強いものは置かない。客の前で花が主張するのは趣味が悪い、というのが館を取り仕切る母夫人の考えだ。
奥の居間に入ると、この日の母は献立表を見ていた。今日の晩餐に誰がいるか、明日の朝に何を残せるか、干し肉をどの時点で戻すか。その横に、料理長からの小さなメモが置かれている。厨房と食卓の間をつなぐ紙だ。
「あらリーゼ、お帰りなさい。早かった――? ……何があったの?」
その眼力は、父より鋭い。娘が父と共に帽子も取らずに奥まで来たことは、母夫人にとっては危険信号だったようだ。
「ラドクリフ家の、私の部屋になる予定だった部屋に、アネット・カーライル様が寝ています」
献立表を母は夫人は伏せる。
「アネット・カーライル。あれはそうね、そう、男爵家の?」
「はい。昨夜、あの館で具合が悪くなったそうです」
「それで、南棟二階?」
「はい」
「ということは、寝台は窓辺?」
「窓辺です」
話が早い。
「花はどうだった?」
「玄関に白百合。部屋にも香りが残っています」
母の眉間にしわが寄る。父が椅子に腰を下ろす。母はリーゼロッテに座るよう示す。アニーが帽子を外し、静かに後ろへ控える。
「アニー。あなたも聞いたこと、見たことを後で書きなさい」
「かしこまりました」
「今ここで言えることは?」
母に問われ、アニーが一歩だけ前へ出る。
「若旦那様は、カーライル様を《《アネット》》と、カーライル様は、若旦那様を《《ヒュー》》とお呼びでした」
父の顔が険しくなる。母はそこで目を丸くする。
「ヒュー……? リーゼの前で?」
「はい」
「ラドクリフ家の使用人の前で?」
「はい」
「それで誰も訂正しないというの?」
「はい、私が見た限りでは」
アニーは余計なことを言わない。だが、見た限りで十分である。
「そう。ではリーゼ、あなたはどうしたの」
「布合わせを取りやめ、向こうの奥様へご挨拶して帰りました」
「奥様はあなたに何て?」
「私なら分かってくれると思っていた、と」
「……何を?」
「アネット様は身体が弱く、不安定で、家に帰るにも事情がある。ほんのしばらく、落ち着くまで預かるそうです」
母の口元が、笑う形になる。ただし、笑ってはいない。
「そう、落ち着くまで」
「ええ」
「何がどうなれば落ち着いたことになるのか、訊いた?」
「そこはきちんと訊きました。熱が下がることか、食事が取れることか、医師が移動を許可することか、ご本人が帰りたいと思うことか、と」
父がくっ、と笑う。
「それで?」
「詰めなくても、と」
「馬鹿が。詰められて困る言葉を使うからだ」
父は肘掛けに腕を置く。母はもう笑う形も消している。
「じゃあきっと、三客目の茶も用意していたのでしょうね?」
「お母様は千里眼ですか」
「そのくらいわかるわ」
「私、奥様、そしておそらくアネット様かヒューバート様の分です。謝りたいとか何とか」
母は献立表の端を指で軽く押さえる。紙がわずかに浮き、また卓へ戻る。
「何をやっているのやら! 謝るために病人を応接室へ連れてくる。婚約者が来ている席に同席させる。相手が怒れば、病人に冷たい娘になる。受け入れれば、その場で南棟二階の件も流れるじゃないか」
「奥様がどこまで考えていたかはわかりませんけど」
「考えていないから困るのよ」
即座に母夫人は言う。
「悪意があっても困るけれど、考えていない家も困りものよ。悪意のある家はまだ手順を警戒できる。考えていない家は、椅子を一つ足すみたいに人の立場を動かすから」
椅子を一つ足す。まさにそれだ、とリーゼロッテは思う。
小卓に三客のカップ。席に誰かを加える。あの人も可哀想だから、こちらも分かってくださるから、と。
席は広げればよいものではない。そして広げるなら、誰がどこに座るか決めなければならない。
「それで、ヒューバート様は何と?」
「怒ることではない、彼女は病人だ、と。それから、私に対しては、もう少し優しい人だと思っていた、と」
父の指が、肘掛けを一度叩く。
「馬鹿か?」
短い。母も止めない。
「馬鹿だな!」
父はもう一度言う。
「自分の婚約者に、他の女の病室の前で優しさを求めるか!」
「ヒューバート様としては、病人を思いやる当然のことだったのかもしれません」
「は! それを婚約者の部屋でやるな」
父の答えは、やはり短い。
そういう家で育ったから、リーゼロッテはラドクリフ家の応接室で黙っていられたのかもしれない。
黙っていたというより、余計な形で怒る必要がなかった。帰れば、この家には通じる人がいるのだ。言うことを言ってしまえば、悩みもせずに次の手順へと移る。
まずは母がベルを鳴らす。入ってきた家令に、母はすぐ指示を出す。
「ラドクリフ家への正式な確認状を用意して。今日の訪問予定、南棟二階の部屋の使用状況、布合わせができなかった理由、アネット・カーライル様の滞在期限と責任者について。責める文面にはしないで」
「確認でございますね」
「ええ。確認。こちらの記録にも残すわ」
家令はうなずき、父を見る。
「旦那様からも何か」
「王家の担当にはまだ出すな。ただし草案は作れ。婚約は王家の後押しがあるからな、扱いは慎重に。こちらが勝手に騒いだ形にはしない」
「かしこまりました」
家令が下がる。その手際のよさで、リーゼロッテの肩に入っていた力が少し抜けた。ここでは、ひとつの出来事が、ちゃんと手順へ乗る。可哀想だからと、誰かの寝台だけが先に運ばれることはない。
「リーゼ」
母がリーゼロッテの名を呼ぶ。
「大丈夫?」
父が母を見る。リーゼロッテは少し考えてみる。
自分は傷ついたのだろうか? いや、それは少し違う。
傷はあるのかもしれない。自分のために整えられるはずだった部屋に、別の女が寝ている。それを見て何も感じないほど、リーゼロッテの心は木石でできているわけではない。
けれど、それを《《失恋の痛みのように扱われる》》のは嫌だった。
「腹が立ちます」
率直に言うと、母はうなずく。
「どのへんが?」
「私がまるでヒューバート様を好きで、だから我慢すると思われているのなら、腹が立ちます」
父がこちらを見る。母も何も言わない。
「私は、婚約者として礼を尽くすつもりでした。夫になる方なら、支えるつもりもありました。でも、それを恋心のように扱われるのは嫌です」
言葉にすると、リーゼロッテの胸の内側で形が決まっていく。
ラドクリフ家の南棟二階で見たものは、ただの病人というにも微妙で、ただの幼なじみというには親密すぎて。そしてその女がリーゼロッテのための場所に眠っていて。婚約者であるヒューバートは、それをリーゼロッテなら分かると考えた。
リーゼロッテの配慮を、リーゼロッテの我慢を、リーゼロッテの礼儀を、すでに自分の持ち物のように扱っている。
「確かにそれは違うわ」
母はきっぱりと言う。
「ええ。そこは、絶対に! 違います!」




