3 奥様は、「分かってくださるでしょう?」と言う
挨拶をして帰るつまりだったが、奥方――ヘンリエッタ夫人は、なかなか現れなかった。
応接室に通されたリーゼロッテは、帽子を取らずに待つことにした。
正式な訪問なら、侍女に預けてもよい。けれどもう今日は長居するつもりがない。
アニーもそれを察して、帽子箱を床へ置かず、布箱を持った腕に掛けたままで控えている。重いだろうからさっさと済ませたいところだ、とリーゼロッテは思う。
小テーブルには、何故かすでに茶の支度がしてあった。三人分の。
リーゼロッテ、夫人、そして誰か――?
白地に金縁のカップが三客。小皿には薄い焼き菓子と、柔らかい砂糖菓子。
彼女は菓子を横目で見る。はて、朝食をほとんど取れない病人が、こちらの菓子は食べられるとでも言うのか。
椅子に座らず、窓辺に立つ。すると庭の向こうで、メイドが二人、干したリネンを取り込んでいる。片方は何度も屋敷の方を振り返る。急いでいるのだろう。病人の部屋はリネンの消費が早い。寝具を替え、枕を替え、湯を運び、空いた水差しを下げる。
……そのたびに、誰かの仕事が一つずつ後ろへずれるというのに。アニーも気付いたのだろう、そっとため息を吐いている。メイドの仕事は、魔法ではない。ひとつ増えれば、どこかが減るのだから、と。
やがて廊下で足音が止まり、扉が開いた。
「まあ、リーゼさん」
ヘンリエッタ夫人は、少し疲れた様子で入ってきた。藤色の室内着に、朝のままの髪飾り。お付きのメイドが後ろにいる。だが、そのエプロンには薄く薬湯の染みがある。
なるほど、夫人付きのメイドまで、アネットの部屋へ入っているようだ。
「まあまあ、お待たせしてごめんなさいね。アネットが少し不安がって」
「あの方の、お加減はいかがですか」
「ええ、ようやく落ち着いたわ。ああ可哀想に、昨日は本当にひどくて。あの子ったら、昔から身体が弱いのよ」
夫人は席につき、リーゼロッテにも椅子をすすめる。
「いえ、今日はこれで失礼致します。予定していた布合わせは、別の日に」
「え、あら……」
どうやらそこで初めてリーゼロッテが帽子を取っていないことに夫人は気づいたようだった。
「そんな、帰るほどのことではないでしょう? アネットも貴女にご挨拶したがっていたのよ」
「休ませるべきではありませんか」
「そうだけれど、あの子も気にしているの。貴女のお部屋を使ってしまって、と」
――貴女のお部屋。
まただ、と胸の中を白々としたものが通り過ぎていく。
ヒューバートも、夫人も、言葉では分かっているつもりらしい。あの部屋が何のために整えられる予定だったのか。
分かっていながら、まだ正式ではない、病人だから、気にしているから、という布を上からかぶせているかのよう。まあ、向こう側が透けている薄い布なのだが。
「気になされているのでしたら、移された方がよろしいかと?」
ヘンリエッタの眉が、少しだけ上がった。
「リーゼ……?」
「一階の客間なら、階段を使わずに済みますし、家政婦長の部屋にも近く、夜番も置きやすいはずですわ。庭へも出られますし、医師の出入りも家族棟を通りません」
「で、でも、南棟の方が日当たりがいいでしょう?」
「熱がある方に、午後の日は強すぎるかと」
「風がよく通るし……」
「換気は必要ですが、寝台を窓辺に置くなら風向きは見た方がいいです。ああ、先ほど、白百合の香りも強すぎました」
メイドが、わずかに顔を上げる。
「……貴女、本当にしっかりしているわね」
褒め言葉の形をしているが、リーゼロッテからすれば褒められた気がまるでしない。
「貴女ならきっと、分かってくださると思っていたのに……」
来たな、とリーゼロッテは小卓の三客目のカップを見ながら返す。
「何をでしょう?」
「ねえ、アネットは、今、とても不安定なのよ。家に帰るにも、あちらは今、色々と事情があって。親戚の方から迎えを出すという話もあるけれど、本人が怯えてしまって」
「それで、ラドクリフ家で預かることに?」
「ええ。ほんのしばらくよ。落ち着くまで」
期限の形をしていて、何とまあ、どこにも区切りのない言葉だ、と思わずリーゼロッテは呆れる。
そしてどうやらこの相手ときたら、そのことに気付いていないらしい。大きくため息を一つつくと、彼女は軽く目を伏せる。
「奥様、落ち着くとは、どの状態を指しますか」
「え?」
「熱が下がることですか? 食事がきちんと取れることですか? 先生が移動を許可することですか? それとも、ご本人が帰りたいと思った時ですか」
「リーゼ、そんなふうに詰めなくても」
矢継ぎ早の質問が来るとは思っていなかったのか、夫人は急に焦り出した。
「ですが、決めておかなければ、使用人が困るでしょう?」
「え、使用人?」
そこを意外そうにされるとは思わなかった。




