2 婚約者を愛称でよぶ人
「この方、お食事は?」
皿の菓子を見て、リーゼロッテは問いかける。するとヒューバートははあ、とため息を一つ。
「朝はほとんど食べられなかったんだ……」
「でも、甘いものは召し上がれるのですね」
「リーゼ、今はそういう言い方をする時では」
彼はほんの少し眉を寄せる。――と、寝台の上の女が、ゆっくりとまぶたを上げた。
確かに顔色は悪い。頬は白く、唇にも色が薄い。
だが目元だけは、ぼんやりと潤んで、こちらを見ている。
「ヒュー……?」
弱い声が漏れる。アニーの呼吸が、背後で一度止まった。
――《《ヒュー》》。
この屋敷の後継で、リーゼロッテの婚約者であるヒューバートを、彼女は愛称で呼ぶ。
「ああ、ああも、起こしてしまったか。ごめん、すまない、アネット」
「いいえ…… ねえ《《ヒュー》》、お客様?」
アネットと呼ばれた彼女は、ちらとリーゼロッテを見、それから少し遅れて微笑んだ。
「まあ…… リーゼロッテ様がいらしたのね、《《ヒュー》》」
彼は訂正することなく、寝台へ近づき、声を和らげる。
「ああ、無理に起きなくていい」
「……でも、わたし、こちらのお部屋をお借りしてしまって……」
「気にしなくていい。リーゼなら分かってくれるから!」
リーゼロッテは、彼らの言葉を半目で聞き流しながら、窓の方を見た。
カーテンはまだ古いままだ。日焼けで縁の色が抜けている。
本来なら今日はここに新しい布を当てるはずだった。母が「南向きなら、少し重みのある布の方がいいでしょう」と選んでくれた見本は、今もアニーの持つ箱の中にある。
さて。この男にはどう言えば。
「……ヒューバート様」
「何だいリーゼ」
「私が分かるべきこと、とは、どの部分でしょうか」
彼は呆気にとられ、答えに詰まる。一方アネットは寝台の上で、薄い掛布を引き寄せ、消え入りそうな声でこう言った。
「あの、わたし、そんなつもりでは…… 昨夜だけのつもりで……」
――昨夜だけ。
はあそうですか、と内心彼女は嘆息する。
まったく、何故その言葉を、屋敷の誰も今朝のうちに終わらせようとしなかったのか?
表情を殺し、リーゼロッテはアニーへ顔を向けた。
「布見本は不要になったわ。馬車へ戻して」
「はい! かしこまりました」
アニーはすぐに動く。侍女の仕事は、主人であるリーゼロッテの体面を保つことだ。
布見本を病人の部屋に広げる必要はない。まして、別の女が眠っている寝台の横でなど!
「ちょ、君、リーゼ、待って…… 待ってくれよ。君、怒ることではないだろう? 見ての通り、アネットは病人なんだよ?」
「はい、見ての通りだと、承知しております」
「なら――」
「ですから、婚約者が結婚後に使う予定の部屋にわざわざ病人を休ませる理由を、後ほど奥様から伺いましょう」
ヒューバートの顔から、先ほどの柔らかさが消えた。
「……君は、母上を責めるのか?」
「いえ? 奥様から直にご説明を伺うだけです。ああ、アネット様」
呼びかけると、寝台の上の女が小さく肩を揺らした。
「はい……」
「お加減が悪いのでしたら、窓辺に寝台がある所は避けた方がよろしいかと。午後の日が長く当たりますから。熱がある時にはお辛いでしょう?」
「あ……」
「それから、あちこちの白百合は下げさせた方がよろしいです。香りが強すぎます」
アネットは押し黙る。するとヒューバートはリーゼロッテの方をきっとにらみつけた。
「そんなことを…… リーゼ、君はもう少し優しい人だと思っていた」
今度はその言葉で来るのか、とリーゼロッテは廊下に控えるこの家のメイドへ顔を向ける。
「家政婦長にお伝えください。奥様にご挨拶をしてから帰ります」
「え…… お嬢様、お帰りに?」
「はい」
メイドは焦ってヒューバートを見る。彼はリーゼロッテの言葉を止めるつもりだったのか、口を開きかける。
その前に、寝台の方から弱い声がした。
「ヒュー、ヒュー、わたし…… わたし! やっぱり、ここにいない方が……」
「そんなことはない。そんなことはないよアネット。君はちゃんと休んでいればいい」
やれやれ、とリーゼロッテは改めて呆れた。すぐにそちらを向いてしまうんだ、と。
彼に、そして彼女に対し、言いたいことならいくつでもあげられる。
彼の名の呼び方も、この部屋を使うことも、香りの強い花も――そして菓子も。
何より彼の、《《リーゼロッテなら分かるだろう》》、という雑な期待。
立て板に水とばかりに一気に並べ立てたい気分になるが、廊下でそれをするには、この家のメイドが周囲には多すぎる。
「ヒューバート様」
ため息まじりに呼ぶと、さっ、と彼が振り向く。
「それでは私、奥様にご挨拶をして帰ります」
「え、リーゼ?」
「では」
それだけ言って、リーゼロッテは踵を返した。
アニーが静かに続く。階段へ向かう途中、玄関広間の白百合の香りがまだ鼻につく。
果たしていつ下げるつもりなのだろう? 病人がいるというのに。




