1 結婚後に使う予定の部屋に、眠る誰か
リーゼロッテ・エーレンフェルトはその時目を疑った。
婚約者の屋敷へ行ったら、自分の部屋に別の女が眠っていたのだ。
正確に言えば、まだリーゼロッテの部屋ではない。
ラドクリフ伯爵家の南棟二階、庭に面した続き部屋。春から夏にかけては風が通り、冬は午後の日が長く入る。隣に小さな私室があり、さらにその奥に侍女が控えられる部屋もある。
つまりは、結婚後、リーゼロッテが使うことになる予定の部屋。そこに彼女は今日、部屋のカーテンと寝台まわりの布を決めるために、母から預かった布見本を馬車に積み、侍女アニーも連れてやって来たのだ。
婚礼前とはいえ、屋敷の奥へ通される用件である。
帽子を直す者も、名刺を取り次ぐ者も必要だった。こういうところを省くと、後で「エーレンフェルトの娘は粗雑だ」と言われる。
だからこの日の彼女は、しっとりとした深緑の外出着に濃藍の帽子を合わせた。羽根飾りは小さく、リボンも幅の細いものに。婚約者の家でわざわざ目立ちすぎる必要はないだろう。
ところが!
ラドクリフ家のメイドは、リーゼロッテの来訪を受けて少しだけ困った顔をしたのだ。
「エ、エーレンフェルトのお嬢様、本日は……」
「あら? お約束の時間より早かったかしら」
「い、いいえ。そのようなことはございません」
リーゼロッテはつ、と玄関広間へ視線を走らせる。
おや、飾られている白百合はやや開きすぎて、香りが強い。
病人のいる家なら、まず下げる。少なくとも玄関から階段までの動線には置かないだろう。
けれどメイドは花に気づいていない?
それとも気づいていても、そこまで手が回らないのかもしれない?
「奥様は?」
「ただいま、カーライル様の方へ」
「カーライル様?」
尋ねると、メイドは一度だけ目を伏せる。
ふと、アニーが半歩後ろで動きを止めた。外出先の侍女は、主人より先に口を挟まない。だが帽子箱を持つ腕の位置が少し変わった。
「その…… アネット・カーライル様でございます。昨夜突然にお加減が悪くなられまして」
アネット・カーライル。彼女もその名には聞き覚えがあった。
ラドクリフ家の遠い親戚筋の男爵令嬢。幼い頃、何度かヒューバートと遊んだことがある。
そんな話を、一度彼から楽しそうに聞かされた。
「ああ、あの方」
「はい…… 昨夜はひどくお苦しそうで、若旦那様が」
若旦那。つまりヒューバートだ。
「それで、今はどちらに?」
メイドは答えを探すように、ちら、と階段の上へ視線を向けた。その先が南棟であることくらい、リーゼロッテにも分かる。
「ご案内いたします」
ふうん、と案内された時点で、彼女はだいたいのことは察した。けれど、察したことと、実際に目にすることとは違うのだ。
*
南棟二階の廊下は、いつもより人の動きが多い。
水差しを運ぶメイド。盆に小瓶を乗せたメイド。替えのリネンを抱えたメイド。
病人の部屋として動かしているなら当然の人数だ。だけど客間で足りるはずなのだが。
何故ならこの屋敷には、客間が六つもある。しかもそのうち二つは一階で、階段の上り下りがつらい者にはそちらを使う。寝台もあるし、暖炉もある。庭に出る扉も近い。夜番を置くなら、家政婦長の部屋からも近い。
だが、案内された南棟二階は、家族の部屋に近すぎるのでは?
扉の前で、案内のメイドが足を止める。
「こちらでございます」
……こちらでございます、ではない。
今日、リーゼロッテは《《この部屋へ》》布見本を置くつもりだったのだ。
窓に当て、午後の日の色を見て、壁紙との相性を確かめ、寝台の位置を聞き、必要なら暖炉前の椅子の布も替える。そういう予定だったのだ!
ふうん、とリーゼロッテは軽く片眉を上げる。
若旦那様、とおずおずとメイドは言いかける。と、扉を叩く前に、中から低い声がした。
「誰だ?」
「エーレンフェルト様がお見えでございます」
ほんの短い間があり、扉が開いた。襟元が少し乱れている。夜を明かしたならメイドがわざわざ通す訳はないから、朝からだろう。だが朝からずっと。
「やあ、リーゼ」
その呼び方に、まず彼女は微妙に引っかかる。
家族や親しい女友達ならいい。婚約者がそう呼ぶことも、いずれはあるだろう。
けれど廊下にはメイドとアニーがいる。そして部屋の中には誰かが眠っている、ということらしい。
そんなところで、そう呼ぶのか。
「……《《ヒューバート様》》。本日は、お約束の件で参りました」
彼はアニーが手にしている荷物をちらと見て、はっと表情を変えた。
「ああ! そうだった! すまないリーゼ、今日は少し事情が変わって……!」
そう言いながら彼は、身体をつと横にずらす。――見えた。窓辺の寝台に、若い女が眠っている。
淡い水色の室内着。枕元には白い帽子が置かれていた。細いリボンと、菫色の造花。いかにも儚げで、いかにも病人らしい、よくできた帽子だった。
……ただし、病人の枕元に帽子を置く必要はない。
外から運び込まれたものを寝台脇に置くのも、あまりよくない。まず埃を払って、別の椅子に置くだろう。
身につけていたショールも同じだ。花飾りの針が外れていないかも確かめる。
なのに! そういうことを、誰もしていない。
「君も聞いたとは思うけど、昨夜、アネットが倒れたんだ……」
ヒューバートは声を落とした。
「医師には?」
「来てもらった…… しばらく安静にするようにと」
「それで、こちらの部屋に?」
「階段がつらいと言うので、日当たりのいい部屋を使わせることにしたんだ。ほら、君の部屋はまだ正式に決まったわけではないし」
――君の部屋。
はっきりそう言った。なのに、すぐ打ち消すように「正式に決まったわけではない」と添えた。
リーゼロッテは視線を寝台の横に置かれた水差しへと送る。半分ほど減っている。
だが、そこからは薬湯の香りはしない。
そして寝台の側の小皿には砂糖菓子が二つ。ひとつは欠けていた。




