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灰燼の王冠  作者: 危機麒麟
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第二章「裏切り者の席」

---


 三つの席が空いていた。


 朝の食堂は広かった。七火しちかの聖域の中庭に面した石造りの部屋に、長卓がいくつも並べられ、候補者と旗下諸家の随員が朝餉を共にしている。温石おんじゃくの仄かな熱が床から足裏に昇り、冬の朝の冷気をわずかに和らげていた。


 麦粥の湯気が卓の上に漂い、焼いたパンと蜂蜜の甘い匂いが——薄く、どこか遠い場所の匂いのように鼻に届く。匙が皿に当たる音、杯を置く音、低い話し声。石壁がそれらを拾い、食堂全体がぼんやりと唸っていた。


 アシュルは卓の端に座っていた。


 左に空席。右に空席。向かいにも空席。その先に——三つ離れた席から、旗下の若い官吏たちが視線を飛ばしてくる。


 誰も灰鎖派かいさはの隣に座ろうとしない。


 アシュルは麦粥を匙ですくった。湯気が指に触れる。温かい。匙を口に運ぶと、穀物の甘さが広がる——はずだった。広がったのか。蜂蜜の香りは鼻の手前までは来ている。だが舌の上では何かが薄い膜を一枚隔てたように遠く、味を確かめようとして指先が止まった。


 昨夜の夕食に何を食べたか、覚えていない。


 いや——思い出せないのではなく、記憶そのものがない。食事をしたことは覚えている。食堂に来て、席について、匙を取った。だがその先の、舌に触れたものの温度も、味も、匂いも——空白だった。


 代償。


 封庫ふうこで姉の視界を読み取った時にも、何かを差し出していた。イシュタの声を奪った術と同じ夜に、もう一つ。何を失ったかわからなかった——今なら、わかる。夕食の記憶。些細な、何の意味もない記憶。


 些細だからこそ、消えたことに気づけなかった。


 匙を口に運んだ。麦粥の温もりだけが喉を過ぎ、胃の底にゆっくりと沈んでいった。


「——裏切り者の血が食に毒を混ぜるかもしれない」


 声は三席向こうから聞こえた。囁きのつもりだろうが、石壁が音を拾い、増幅する。


 顔を上げなかった。匙が粥の表面を薄く撫で、湯気が揺れた。掌の中で、匙の柄の冷たさだけが確かだった。


「灰鎖のかいさのらんの末裔だぞ。よく聖域の飯を食えるものだ」


 若い声だった。旗下諸家の随員。低く陰湿だが、権力を背にした余裕がある。太陽派の旗下だろう。


 アシュルは粥を飲み込んだ。


 味はしなかった。蜂蜜の匂いだけが、まだかすかに鼻の奥に残っている。だがそれは代償のせいなのか、それとも——。


 食堂の向こう端で、金糸の衣が朝陽に光った。ルキウスの席は食堂の上座。旗下の官吏に囲まれ、書簡に目を落としている。こちらを見ていない。


 その二席隣に、嵐雲の紋章を胸に留めた大きな影。シグルは粥ではなく肉とパンを山盛りにした皿の前に座り、一人で黙々と食べていた。北方の戦士は朝から食べる量が違う。額の白い刀傷が、朝陽の中で薄く光っている。


 さらに向こう——藤色の衣が静かに揃えられている。シリンは紅茶の杯を手にしていた。唇に杯を当てたまま、黒い瞳がゆっくりと食堂を巡っている。あの目は全てを見ている。全てを記録している。


 アシュルは視線を卓に戻した。


 空席は三つのままだった。


---


 書庫は聖域の西翼にあった。


 石柱に支えられた高い天井。壁面を埋める書架に革装の書物が並び、乾いた紙と古い膠の匂いが空気の底に沈殿している。帝都の租税局で嗅ぎ慣れた匂いに似て——だが、ここにはもっと深い、何百年も動かされなかった空気の重さがあった。


 窓から差す光が書架の間に幾筋もの柱を作り、埃の粒子がその中を舞っていた。


 アシュルは入口の手前で立ち止まった。


 管理官が石の台に座っていた。中年の男。白い衣の胸元に、太陽の紋章の下にもう一つ小さな紋章——旗下諸家の証。アウレリア家の旗下だった。


「灰鎖派ウルク家の——アシュル、と申します。書庫の閲覧を申請したいのですが」


 下級書記の丁寧語。三年間で磨き上げた、角のない声。


 管理官は書類に目を落としたまま、筆を止めなかった。


「閲覧の許可は、候補者の身分証と宗家の保証状が必要です」


「身分証はこちらに。宗家の保証状については——」


「灰鎖派に閲覧権限はございません」


 管理官の声は平坦だった。怒りもなく、蔑みもなく、ただ事実を述べるような口調。顔を上げもしなかった。


 アシュルは一拍、沈黙した。


「規則にそのような条項が——」


「慣例です」


 筆が止まった。管理官がようやく顔を上げた。目が合った——そこにあったのは敵意ではなかった。もっと厚い、もっと古いもの。三百年分の慣例が作り上げた、揺るがない壁。


「他にご用がなければ」


 アシュルは頭を下げ、書庫の前を離れた。


 廊下を歩きながら、石壁に手を触れた。冷たい。目地の凹凸が掌に食い込む。聖域の石は冬の冷気を溜め込んで、触れた端から指先の熱を吸い取っていく。


 規則ではなく、慣例。


 規則ならば覆す手続きがある。だが慣例には根拠がない。根拠がないものは、覆しようがない。


 三百年間、誰も灰鎖派に書庫を開かなかった。だから今日も開かない。


---


 中庭は白い石畳が広がり、冬枯れの古木が並木をなす場所だった。


 午後の陽が薄い雲越しに降り注ぎ、石畳の上に候補者たちの長い影を落としている。盟約の試煉の合間、候補者たちが血統魔法の力を見せ合う非公式な場——だが、その空気は穏やかとは言えなかった。


 力の見せ合い。それは同時に、力の査定でもある。


 シグルが中庭の中央に立っていた。


 大柄な体が一歩を踏み込むと、周囲の空気が変わった。石畳の上の埃が巻き上がり、枯れ枝が揺れ、アシュルの髪が風に煽られた——だが風は吹いていない。シグルの体の周囲で、空気そのものが渦を巻いていた。


 嵐魔法。


 シグルの右手が天を掴むように持ち上がった。その指先から——白い稲妻が走った。音はなかった。光だけが中庭を一瞬白く焼き、遅れて乾いた破裂音が石壁に跳ね返った。中庭の古木の、すでに枯れた枝の一本が真っ二つに裂け、焦げた匂いが立ちのぼった。


 旗下の随員たちから声が上がった。


 シグルは表情を変えなかった。傷跡の周囲で、微かに錆色の光が消えていく。髪の先端が逆立っている。風と雷。アシュルの持つ鎖魂魔法さこんまほうの残滓とは、次元が違った。


 続いて、紅い衣が中庭に進み出た。


 ライラ。朱謡派サヒル家の代表。唇に引かれた朱が朝陽——いや、もう午後だった。午後の薄い光の中で、紅い衣だけが鮮やかに浮いている。十五か十六の少女。だがその足取りに迷いはなかった。


 ライラが口を開いた。


 歌ではなかった。言葉ですらなかった。声——ただの一音が、低く中庭に落ちた。その音が空気を伝い、石畳を滑り、アシュルの胸の奥に触れた瞬間——


 目が熱くなった。


 理由がない。悲しくもなく、嬉しくもなく、ただ目の奥で何かが揺さぶられていた。隣に立っていた旗下の官吏が不意に目を擦った。その向こうで、別の随員が頬を伝う涙に気づき、慌てて袖で拭っている。


 謡焔魔法ようえんまほう。あの声は耳ではなく、胸の底に届いた。眠っていた何かが、意志とは無関係に揺さぶられていた。


 ライラの唇に——微かに笑みが浮かんだ。幼い笑みではなかった。自分の力の重さを知っている者の、静かな笑み。唇の朱を指先でなぞりながら、黒い瞳がゆっくりと中庭を巡る。その視線が——中庭の隅に立つアシュルの上で、一拍、止まった。何を見ていたのかはわからない。だがあの瞳が通り過ぎる前の一拍に、驚きに似た何かがあった。


 アシュルは目元を指の背で拭った。温かい。涙の温かさだけが、指先に残った。


 嵐の力。感情を揺さぶる声。


 いずれも、アシュルには持ちえない力だった。


 空気を裂くことも、人の心を動かすこともできない。見せるものがない。禁忌魔法の断片的な知識はある——だがそれは、記憶を燃やさなければ使えない力だった。


 中庭の隅に立ったまま、アシュルは両手を外套の中に入れた。指先が冷たい。冬の冷気と——それだけではない冷たさ。


 見学のみ。それが今の立ち位置だった。


---


「お前、魔法は使えるのか」


 声は唐突だった。


 アシュルが中庭の石柱に背を預けて他の候補者たちの訓練を眺めていた時、隣に大きな影が立った。見上げなくても、嵐雲の紋章が視界に入った。


 シグル。


 近づいて初めてわかった。この男は大きい。背丈だけではない。ただそこにいるだけで空気の密度が変わる。風に灼けた肌。太い首。額の白い刀傷。


 そして——蔑みのない目。食堂の旗下とも、書庫の管理官とも違う。品定めでも敵意でもなく、ただ率直な疑問がそこにあった。


「ほとんど使えない」


 アシュルは外套の中で指先を握り、声を整えた。丁寧語ではなく——相手の率直さに引かれるように、素の口調が出た。


 シグルは鼻を鳴らした。軽蔑ではなかった。ただの反応。額の刀傷に無意識に指を当てている——何かを考える時の癖のようだった。


「なら何で来た」


「来いと言われたから来た」


 短い沈黙。


 シグルの口の端が持ち上がった。笑ったのではない。正直な答えに対する、武人の微かな敬意。


「それだけか」


 アシュルは石柱に肩を預けたまま、中庭の向こうを見た。冬枯れの木々の先に、蔦に覆われた封庫の輪郭が見える。


「……それだけじゃない。だが、今は言えない」


 シグルの目が変わった。


「だろうな」


 短い一語に、追及の気配はなかった。「来いと言われたから」が建前だと、最初からわかっていたような声だった。


 シグルは鼻を鳴らした。


「ろくに体も動かせない場所で、一年半だ」


 愚痴だった。アシュルに向けたのか、自分に向けたのか。額の傷に手を当てて、石柱から背を離した。


「退屈で死ぬかもしれん」


 大きな背が中庭の中央に戻っていく。嵐雲の紋章が午後の薄い光を受けて揺れた。


 アシュルは石柱に背を預けたまま、息を吐いた。白い呼気が冬の空に昇り、すぐに消えた。


 裏のない会話。


 ルキウスには先祖の記憶という動機があった。シリンには諜報の目的があった。だがこの男には——何もなかった。理由もなく、計算もなく、ただ話しかけてきた。


 それだけのことが、妙に胸に残った。


---


 三日目の夕暮れだった。


 居室に戻ると、扉が半開きになっていた。


 アシュルは廊下で足を止めた。今朝、部屋を出る時に扉は閉めた。確認してから出た——それは帝都の安宿で身についた習慣だった。


 音がする。部屋の中で、何かが動いている。


 扉の隙間から覗いた。


 衛兵が二人。旗下諸家の紋章を腕に巻いた男たちが、文机の引き出しを一つずつ開けていた。衣装棚の中身が寝台の上に広げられ、外套の裏地に手が差し込まれている。


 定期点検。


 名目はそう聞こえるだろう。だが彼らの動きには、書類を確認する事務的な所作はなかった。探している。何かを。


 背負い袋。


 アシュルの視線が部屋の隅に走った。寝台の下に押し込んだはずの背負い袋が引きずり出され、衛兵の一人がその中身を漁っている。油紙の包みに手が伸びた。


 ——写本。


 胸の中で何かが凍った。


 あれを見つけられるわけにはいかない。イシュタが遺した写本。原炎げんえんの時代の古代文字が記されたあの紙片は、姉が存在した証拠であり——同時に、灰鎖派が禁じられた知識に触れていた証拠でもある。見つかれば没収どころでは済まない。


 衛兵の指が油紙の端を掴んだ。


 アシュルは廊下から一歩踏み出し、扉を押し開けた。


「——何をしている」


 声は静かだった。怒りではなく、問い。


 衛兵が振り返った。


「定期点検だ。候補者の居室は聖域の管理下にある」


「それは知っている。だが私物の検査には事前通告が必要なはずだ」


 嘘だった。そんな規則があるかどうかは知らない。だが衛兵の手が一瞬止まった。油紙の包みを握ったまま、もう一人の衛兵と目を交わしている。


 時間がない。


 アシュルは部屋に入りながら、指先に意識を集中させた。姉の写本が教えた術。血の力を回路にして、代償と引き換えに発動する。


 写本の存在感を薄める。物を消すのではない。そこに在ることの主張を、ほんの少しだけ弱くする。


 指先が冷えた。光はなかった。光が出るほどの力は込めていない。ただ、指先の温度が一瞬下がり、油紙の包みから何かが薄れた。


 衛兵が油紙を手に取った。開いた。


 中には——古い紙片が数枚。


 衛兵は紙面を一瞥し、眉を寄せ、もう一人に見せた。二人とも首を傾げ、紙片を油紙に戻した。何でもない古紙。持ち主が捨て忘れた反故紙。そういうものとして処理された。


「……問題ない。次の部屋に行くぞ」


 衛兵たちが出ていった。扉が閉まった。


 アシュルは息を吐いた。肺の底から、震える息を。


 代償。


 何を失った。


 目を閉じた。記憶を手繰る。今朝の食堂。三つの空席。麦粥の匂いがしたはずだった——蜂蜜の甘い香り、焦げた枝の匂い。記憶にはある。だが鼻が覚えているはずの感触が、薄い。


 では今、新たに失ったものは。


 衣類を片づけながら、姉の記憶を確かめる。顔、手の動き——ある。声は、前から失っている。


 写本を油紙から出した。古代文字がびっしりと紙面を埋めている。楔形に似た古い書体。紙面に鼻を近づけた。


 匂いが、しない。


 紙の繊維の乾いた匂いも、インクの残り香も、油紙の脂の匂いも——何もなかった。


 窓を開けた。冬の夜気が頬を打つ。冷たさはわかる。だが、帝都の冬の灰の匂い——アシュルの最初の記憶だったあの匂いが、ない。


 味の記憶が消えたのではなかった。


 味は匂いなしには成り立たない。昨日の夕食の味が消えたのではなく、匂いが先に消えていたのだ。匂いが薄れれば、味も一緒に遠ざかる。そして今——写本の存在感を薄める術の代償として、さらに何かが失われた。


 嗅覚そのものが薄れている。


 いや——まだ完全には消えていない。かすかに、窓の外から石壁の冷たさに似た無機質な気配が届く。だが、あの帝都の灰の匂い、封庫の停滞した空気の澱み、麦粥の湯気の中の甘さ——そうした繊細な匂いの層が、一枚ずつ剥がされていくようだった。


 記憶の燃焼——それが第一段階だと、写本には書かれていた。だが記憶だけでなく嗅覚そのものが薄れているなら、自分は今どこにいるのか。段階の境目がどこにあるのか、アシュル自身にもわからなかった。


 窓の外を見た。中庭の向こうに、封庫の暗い輪郭がある。石で塞がれた窓。蔦に覆われた壁。あの建物の中に、姉の痕跡がある。


 代償は確実に進行している。術を使うたびに、世界が一枚ずつ薄くなっていく。


 窓を閉めた。


---


 四日目の夜。


 回廊を歩いていた。


 夕餉の後、居室に戻る途中だった。石柱の間から中庭が見え、月明かりが白い石畳を銀色に染めている。冬枯れの古木の影が長く伸び、封庫の輪郭が月光の中で浮かんでいた。


 足音が聞こえた。


 アシュルの足音ではない。もう一つの足音が、回廊の反対側から近づいてくる。規則正しく、迷いのない歩調。石の床に響く靴音は——重くはないが、軽くもない。ただ、正確だった。


 金糸の衣が月明かりの中に現れた。


 ルキウス。


 太陽派アウレリア家の嫡子。三日前の夜、廊下で「イシュタという名に覚えはあるか」と問うた男。あれから——言葉は交わしていない。食堂でも、中庭でも、回廊ですれ違う時も。ルキウスの周囲には常に旗下の官吏か、他家の候補者がいて、灰鎖派の末子が声をかけられる距離ではなかった。


 だが今は、回廊に二人だけだった。


 ルキウスの歩調が変わらなかった。真っ直ぐにこちらに向かってくる。すれ違う——その距離が、五歩になった。三歩。


 視線が来た。


 金茶色の虹彩。その奥に——一瞬だけ、炎のような光が走った。先祖の記憶の発露。制御できない太陽魔法の微かな揺らぎ。


 ルキウスの目がアシュルに留まった。


 留まった。


 通り過ぎるはずの足が、半歩だけ遅くなった。金茶色の瞳がアシュルの灰色の瞳を捉え——何かを見ている。アシュルを見ているのではない。アシュルの中に映る何かを、あるいはアシュルの向こうにいる誰かを。


 先祖の記憶が反応しているのだろう。あの夜、イシュタの名を知っていたのも——おそらく、この反応のせいだ。太陽派の先祖の記憶の中に、灰鎖派に関わる何かがある。


 言葉はなかった。


 ルキウスはアシュルの前を通り過ぎた。金糸の衣が月明かりの中を遠ざかっていく。足音が回廊の奥に消え、石柱の間の影に紛れていった。


 アシュルは立ち止まったまま、ルキウスが消えた方角を見つめていた。


 あの目。蔑みではなかった。敵意でもなかった。もっと複雑な——もっと古い何かが、あの金茶色の瞳の奥で燃えていた。


 回廊を風が渡った。冬の夜気が首筋に触れ、アシュルは外套の襟を立てた。


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 五日目の朝。


 目が覚めた時、窓から差す光が白かった。曇りの朝。石壁の部屋は冷え込んでいたが、床の温石がかすかに熱を放っている。


 寝台から体を起こし、窓辺に立った。


 中庭が見える。冬枯れの並木。白い石畳。その向こうに——封庫。蔦に覆われた壁。石で塞がれた窓。


 盟約の試煉は始まっているが、灰鎖派に立候補資格はない。食堂では三つの席が空き、書庫は閉ざされ、中庭では見学のみ。衛兵は居室を漁り、旗下の官吏は陰口を叩く。


 それがこの場所でのアシュルの立ち位置だった。


 だが——。


 封庫の前で、シリンが協力を申し出た。


 中庭で、シグルが蔑みなく話しかけてきた。


 回廊で、ルキウスの視線が留まった。


 アシュルは窓枠に手を置いた。石の冷たさが掌に沁みた。


 席はどこにもない。だが——姉の痕跡がある。


 封庫の扉に残されたイシュタの足跡。灰鎖の位置に灯った淡い灰色の光。七つ揃わなければ開かない扉。


 声は消えた。匂いが薄れ始めている。代償は確実に進行している。


 それでも。


 写本を背負い袋から取り出し、古代文字に目を落とした。楔形に似た書体が紙面を埋めている。イシュタが書き写したもの。姉の指がこの紙に触れた。姉の目がこの文字を追った。


 読めない箇所がまだ多い。だが三年前よりは読める。三年かけて読めるようになった分だけ、イシュタが見ていた世界の輪郭が、少しずつ見えてきている。


 窓の外で、朝の鐘が聖域に響いた。


 アシュルは写本を油紙に包み、背負い袋に戻した。外套を手に取り、居室を出た。


 この場所に、アシュルの席はない。だが——姉の痕跡がある。


 それだけで十分だった。まだ。


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