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灰燼の王冠  作者: 危機麒麟
2/14

第一章 灰の子

---


 帝都の冬は、灰の匂いがする。


 墨壺の乾きかけた墨の匂いと、その下に沈む燃え殻の気配。何百年も前に焼かれたものの残り香が、冬の乾いた風に乗って、ときおり石壁の隙間から忍び込んでくる。窓硝子の向こうに鈍色の空。未処理の帳簿が山をなす執務室は、もうじき日が落ちる。


 アシュルは数字の列に目を落としたまま、隣席の老吏が立ち上がるのを視界の端で捉えた。上席の老吏。三年、同じ部屋で過ごして、この男がアシュルの名を口にしたのは両の手で足りるほどだった。


 租税局の下級書記。それがこの三年間のアシュルだった。


 帳簿を提出しても、上席の老吏は目を上げない。名を呼ばず、頷きもしない。ただ未処理の山の隣に積まれるだけだった。そういう存在でいることに、アシュルは三年をかけて身体を馴染ませてきた。


 老吏が外套を羽織り、戸口に向かう。防虫の樟脳の匂いが微かに立った。


 今日か。


 アシュルは帳簿を閉じた。


 ——今日だ。


 四畳半の借り部屋に戻ると、隣室の老人の咳が壁越しに聞こえた。油灯の芯に火を移す。湿った壁と油の匂いが混じる、三年間嗅ぎ慣れた空気。床板の一枚に指をかけると、隙間から古い埃の匂いが立った。外れた板の下から油紙の包みを取り出す。


 写本だった。


 油紙を開くと、古い墨と乾いた紙の匂いが指先に触れた。姉がくれた、原炎げんえんの時代の写し。


 楔形に似た古い文字が紙面を埋めていて、最初は一字も読めなかった。三年かけて、少しずつ読める箇所が増えた。増えたぶんだけ、理解が追いつかなくなった。


 読める一節の中に、姉の筆で紙面に走る短い言葉があった。


 ——原炎ハ存在ヲ燃ヤス火ナリ。封薄ルレバ、在ルモノ微カニ焦グ。


 言葉として訳すことはできる。だがその芯——何が「在る」ことで、何が「焦げる」のか——は、アシュルの中でまだ結晶していなかった。姉はその一節の余白に、細い字で観測を書き添えていた。北、魔獣の狂い。南、土の痩せ。西、火のない焼失。三つの方角に小さな丸印が並び、丸と丸が一本の線で繋がれていた。


 姉は、何かを見つけようとしていた。


 ——読み方は、そのうちわかる。


 イシュタはそう言って笑った。五つ年上の姉の声が、耳の奥でまだ響く。古い巻物を膝に広げ、ひどく真剣な顔をしていたかと思えば、不意に振り向いて笑う。その笑い方がいつも少し不器用で、研究者の顔と姉の顔が切り替わる一瞬の、あの柔らかさ。


 三年前の夏、イシュタは帝都で消えた。


 行方不明とは違う。痕跡ごと消えた。宿の帳面からイシュタの名が消え、会ったはずの人間がイシュタの顔を思い出せなくなっていた。この写本がなければ、姉の存在そのものを疑っていただろう。


 わたしたちは裏切り者じゃない——。


 姉が遺したその言葉を、アシュルは三年間、帳簿の数字の下に隠して生きてきた。


 写本を油紙に包み直し、背負い袋の底に押し込む。外套の襟を立て、安宿を出た。


 空気が頬を刺した。吐く息が白く凍る。大路に出ると、黄金の太陽の紋章が軒先ごとに鈍く光っていた。荷車の車輪が石畳を削る音、兵士の靴底が鳴らすリズム。商人と兵士で混み合う通りを、アシュルはすり抜けるように歩いた。


 懐の中に、勅命の書状がある。


 ——七火しちかの聖域に出頭せよ。


 焔武帝えんぶていの名で発された召集令。三日前に租税局の窓口に届いた召喚状は、アシュルの名を指していた。灰鎖派かいさはウルク家の末子。封蝋ふうろうに押された太陽派の紋章の、指先で触れた瞬間の滑らかさが記憶に残っている。


 罠かもしれない。おそらく罠だろう。没落した家の、継承のけいしょうのぎすら許されなかった家の末子を、三百年ぶりに聖域に呼ぶ理由が善意であるはずがない。


 だが。


 ——姉は帝都に来て消えた。聖域の奥に何かがある、とイシュタは言った。古い写本を膝に広げ、震える指で一行を指し示しながら。


 行くしかない。


 アシュルは人混みを縫い、帝都の北端に向かった。


---


 丘陵を登り切ると、白い石壁が冬の空を切り取っていた。


 七火の聖域。千年の学舎。帝都の雑踏から離れた丘陵の空気は乾いて冷たく、古い石と冬枯れの草の匂いがかすかにした。


 中核の建物は千年前の姿を留め、増改築を重ねた痕跡が石材の風化の差に刻まれている。尖塔に翻る旗。白い石材が基調の、荘厳で——しかし、どこか硬直した佇まい。


 正門は高さ三丈の黒鉄の門だった。近づくと、日に灼けた鉄の乾いた匂いがした。左右の柱に家紋が刻まれている。アシュルは数えた。太陽、半月、嵐雲、大樹、氷結晶、紅炎。


 六つ。


 アシュルは柱の最下部に目をやった。苔と黴に覆われた一角に、のみで削り取られた跡があった。指先で触れると、石のざらつきの中に、刃の入った鋭い溝の感触がある。注意深く見なければわからないほど古い傷。かつてそこにあったはずの七つ目の紋章——灰に沈む王冠と断ち切られた鎖。


 三百年前に消された紋章の、傷跡だけがまだ残っている。


 門衛が書状を検めた。太陽派の紋章入りの封蝋を見て、門衛の態度が微かに変わった。敬意ではない。困惑に近い何か。反逆者の末裔を通す——しかし焔武帝の名で呼ばれている。門衛はアシュルの顔を一度じろりと見てから、無言で門を押し開けた。


 白い石畳の大路が本館へ真っ直ぐ伸びていた。冬枯れの古木が並木をなし、葉を落とした枝が灰色の空に指のように広がっている。


 中庭の向こうに——窓を石で塞がれた古い棟が見えた。


 蔦が壁の半分を覆い、本館より一段低い。手入れされていない白い石材の、風化した表面。周囲の空気だけが違う気がした。他の建物から漂う人の気配が、その棟の手前で途切れている。


 アシュルは歩きながら、その建物の位置を記憶に刻んだ。


 案内役の侍従が早足で近づいてきた。若い男だったが、アシュルの外套に目をやり——擦り切れた裾、継ぎ当ての肩を確かめるように——足が一瞬止まった。


「……ウルク家のアシュル殿ですか」


「自分がそうです」


 侍従は言葉を選ぶように間を置いてから、先導を始めた。アシュルは黙って従った。二人の足音が石の廊下に反響する。侍従の早い足取りと、アシュルの抑えた靴音。高い窓から差す冬の光が石壁に影の縞を作っていた。


 廊下に並ぶ記録画に、灰鎖の影はなかった。


---


 七火の間は、半円形の議場だった。


 扉を開けた瞬間、古い樫と蜜蝋みつろうの匂いがした。高い天井に天窓があり、冬の光が斜めに差し込んで石の床に白い矩形を落としている。中央に長い樫の卓が据えられ、その周囲に七脚の椅子が並んでいた。


 六脚は同じ材と仕様だった。磨かれた暗色の木に、座面には紋章の織り込まれた布地。


 末席の一脚だけが違った。


 木材が異なる。座面の布地は擦れ、脚には補修の跡がある。三百年前からそのまま残されていたのだろう。取り替えもせず、修繕もせず——かといって撤去もせずに。


 六人の候補者が、すでに席についていた。


 アシュルが扉をくぐった瞬間、六つの視線が同時に突き刺さった。六つの温度。六つの値踏み。


 正面の上席に、金糸の刺繍が施された白い衣の若い男が座っている。ルキウス・アウレリア。太陽派の嫡子。整った顔立ちに金茶色の虹彩。彼の周囲だけ空気の温度が変わっていた。噂通りの顔だった。だが眼の奥に、燃え殻のような翳りがある。背筋の伸び方、指の置き方、瞬きの少なさ。それでいて——二十そこそこの青年だった。


 ルキウスの隣、半歩引いた位置に若い女。黒髪を高く結い上げ、藤色の衣に銀糸の帯。袖口に月影派の半月の紋章。シリン・マフザル。暗く深い瞳がアシュルを見ていたが、口元に浮かぶ笑みは完璧に制御されている。何を考えているかを読ませない顔。


 卓の向かい側に、大柄な体躯の男。戦士。一目でわかる。肩幅が他の候補者の倍近くあり、額に古い刀傷が走っている。荒嵐派こうらんはガルド家のシグル。粗い布の上衣に革の帯。獣脂と冷たい鉄の匂いが、議場の蜜蝋の空気を裂いていた。アシュルを見る目に侮蔑はない。品定めする鋭さはあったが、それは率直な好奇心に近い。


 シグルの隣に、赤みがかった茶髪の少年が俯いている。まだ十五か十六か。深根派しんこんはケルナッハ家のオーシン。農夫のように大きな手を膝の上で組み、居心地悪そうに背を丸めていた。穏やかな面立ちだが、目が合うと怯えたように視線を逸らす。


 卓の左端に銀髪の人物。蒼氷派そうひょうはシュアン家のユエン。碧い瞳。細面。男にも女にも見える容貌を、本人は意図的にどちらにも傾けていないようだった。無表情。感情の読めない顔の中で、碧い瞳だけがひたりとアシュルを捉えている。


 最後に——紅い衣の少女。褐色の肌に黒い瞳。唇に引かれた朱が鮮やかで、かすかに甘い香の匂いが漂う。朱謡派しゅようはサヒル家のライラ。十五、六歳に見える。笑っていた。だが、その笑みの意味がアシュルには読めなかった。歓迎か、嘲弄か、あるいはそのどちらでもない何か。


 六つの大貴族と、一つの灰。


 六対の視線が肌を刺す。背筋に重さが乗る。だがアシュルは歩幅を変えなかった。三年間、帝都の群衆に紛れて息をしてきた足が、見られていないかのように末席へ向かう。


 アシュルは末席の椅子に歩み寄り、腰を下ろした。座面の布地が擦れた音を立て、乾いた埃の匂いが微かに舞い上がった。


 扉の脇に控えていた老人が、前に進み出た。白い法衣に金糸の七芒星。大祭司だいさいし。七火の聖域の長。


「七火の子女よ」


 老人の声は枯れていたが、半円形の議場によく響いた。


「焔武帝陛下の勅により、三百年を経て七つの火が再び此処に会した。七つの試煉が始まる。第一の試煉『盟約』——交渉と同盟構築の才を、聖域にて問う」


 大祭司の視線がアシュルに向いた。


「ただし——」


 間があった。アシュルの指が椅子の肘掛けに強張った。


「灰鎖派ウルク家は、かつての反逆により爵位と領地を没収されている。陛下の勅命により聖域への参列は認められたが、立候補の資格については評議会の裁可を仰ぐ」


 候補者ではない。だが追放もされない。


 灰色の——どちらにも属さない位置に、アシュルは置かれた。


 ルキウスの金茶色の瞳がアシュルを見ていた。何かを測る視線だったが、侮蔑の色はなかった。シリンの微笑は変わらない。シグルが鼻を鳴らした——軽い音だったが、蔑みというよりは退屈そうな嘆息に聞こえた。


「ご理解いただけたかな、ウルク殿」


 大祭司の問いに、アシュルは立ち上がらなかった。


「……承知しました」


 声は平坦だった。下級書記が上役に返すときの、感情を消した声。


 大祭司が去り、候補者たちが三々五々席を立ち始めた。随員が入ってきて、それぞれの候補者に付き従う。足音と衣擦れが遠ざかり、議場の空気が冷えていく。


 アシュルには誰も付かなかった。


 立ち上がろうとして、指先が樫の卓の縁に触れた。


 冷たかった。木材そのものの冷たさではない。もっと深い——石壁を通して染み込む、聖域の底の冷気。


 指が卓の脚の付け根に触れたとき、感触が変わった。


 浅い溝。風化してほぼ消えかけた、爪ほどの大きさの窪み。


 アシュルは身を屈めた。


 七つの玉が環を成し、燃えながら結ばれている——図案。


 原炎の刻印。


 イシュタの写本の最初の頁に描かれていたものと、同じ紋章だった。


 心臓が一度強く打った。指先がその刻印をなぞる。木目に紛れるほど浅い溝だが、指の腹には確かな凹凸がある。千年前からこの卓に刻まれていた何かが、木の繊維の底に残っている。


 ——姉さん。この場所に、何がある。


 アシュルは身を起こした。議場にはもう誰も残っていなかった。


---


 本館の廊下を歩いているとき、声をかけられた。


「ウルク家の」


 低く、石の廊下に一音も無駄なく届く声だった。


 アシュルが振り向くと、ルキウス・アウレリアが数歩後ろに立っていた。金糸の白衣が廊下の薄暗がりの中で微かに光を帯びている。跪く六人の子女を描いた記録画を背にして、太陽派の嫡子はアシュルを見ていた。


「何か」


 アシュルは下級書記の声で応じた。感情を消した、平坦な返答。


 ルキウスは三拍ほど沈黙した。金茶色の瞳がアシュルの顔を見つめていた——値踏みではなかった。もっと別の何かを探しているような目。


「イシュタという名に、覚えはあるか」


 廊下の空気が凍った。


 アシュルの呼吸が止まった。一瞬——だが、確かに止まった。石の床を踏む足が止まり、指先が冷えた。


 イシュタ。


 三年間、誰の口からもその名を聞いていなかった。帳面から消え、人の記憶から消え、存在ごと薄れていった姉の名を——太陽派の嫡子が、なぜ知っている。


「……姉の名だ」


 平坦な声が保てなかった。掠れた。


 ルキウスの歩みが止まった。振り返った金茶色の瞳に、一瞬だけ炎のような光が走り——すぐに消えた。だがその消え際に、計算でも威厳でもない表情が浮かんだ。眉が寄り、唇が微かに開く。


 先祖の記憶は数百年前のものだ。三年前に消えた姉と、同じ名であるはずがない——そう考えているように、アシュルには見えた。


「……先祖の記憶の中に、その名がある」


 ルキウスの声は静かだった。事実を述べる声。だが、その事実を口にすることの重さを、本人が測っているような慎重さがあった。


「灰鎖の女。イシュタ。——古い記憶だが、確かに残っている」


 アシュルは言葉を探した。喉が渇いていた。先祖の記憶——継承の儀で受け継がれる、太陽派の歴代当主の記憶。その中にイシュタがいる。それはいつの記憶だ。三百年前の粛清の夜か。それとも——。


「それだけ伝えておきたかった」


 ルキウスはそれ以上何も言わなかった。踵を返し、廊下の奥に歩き去る。金糸が光を拾い、長い影が石の床を滑っていった。


 アシュルはしばらくその場に立ち尽くした。壁に掛けられた記録画の、六つの跪く姿が視界の端で揺れていた。


---


 居室に案内されたのは、東翼の最も奥まった一画だった。隣室との間に空き部屋が二つ。廊下の空気が他の区画より冷たく、人の気配がない。寝台と文机と衣装棚があるだけの、簡素な部屋。窓を開けると、中庭の向こうに——あの建物が見えた。


 蔦に覆われた、窓を塞がれた棟。


 日が暮れていた。煌宮こうきゅうの方角から日暮れの鐘が聞こえ、低く重い銅の音が帝都の隅々に染み渡っていく。


 アシュルは窓辺に立ったまま、あの棟を見つめた。


 窓は全て石で塞がれ、蔦が這い、明らかに手入れされていない。だが本館と同じ白い石材が使われている。建てられた時代が同じ——おそらく創建時からある。昼間に見たときとは印象が違った。月光の下で、その棟だけが聖域から切り離されて沈んでいる。


 それが封じられている。


 行かなければ。


 外套を手に取り、部屋を出た。


 夜の聖域は静まり返っていた。石畳に落ちる自分の足音を殺しながら中庭を横切り、冬枯れの古木の下を抜ける。月明かりに浮かぶ自分の影が長く伸びていた。蔦に覆われた棟の前に立つと、近づいて初めてわかった——想像よりも大きい。本館の半分近い奥行きがある。


 入口に鉄の格子が嵌められていた。錠前がかかっている。格子の枠に古代文字が薄く刻まれていた。風化してほとんど読めないが——「鎖」の字が見える。


 アシュルは格子に手を触れた。鉄は冬の夜気を吸って凍えるほど冷たかった。


 ——この錠を開けられるか。


 継承の儀を受けなかったアシュルに残された、鎖魂魔法さこんまほうの残滓。ほとんど枯れた力だが——錠前に触れる程度のことはできる。


 指先を当て、集中した。指の腹が痺れるように冷え、灰色の光が微かに漏れた。力が金属の内部に滑り込み、機構の一つ一つに触れていく感触がある。錠前の芯に届いた瞬間、指先に小さな振動が返ってきた。


 かちり、と音がした。


 錠が開いた。


 格子を押し開け、中に入った。


 冷たかった。空気が動いていない。人の気配が長く絶えた空間の、停滞した冷気。古い石と封蝋と、その底にかすかな——灰の匂い。帝都の大路で嗅ぐものとは違う、もっと古い灰の気配。


 石壁の廊下が奥に伸び、両側に封印された扉が並んでいる。封印の紋様は古いものの上に新しいものが重ねられ、幾重にも鍵がかけられていた。


 松明はない。懐から火打ち石を取り出す。冷えた金属の手触り。打ち合わせると火花が暗闇を裂き、油布に火が移った瞬間、揺れる炎が石壁と封印の列を照らし出した。


 廊下の突き当たりに、他とは明らかに異なる大きな扉があった。


 黒い木に銀の象嵌ぞうがん。表面に——原炎の紋章。七つの玉が環を成し、燃えながら結ばれている図案。七火の間の卓の脚に刻まれていたものと同じだが、はるかに大きく、はるかに鮮明だった。


 鍵穴がない。代わりに扉の中央に、掌を押し当てるための窪みがあった。


 アシュルは窪みの周囲に刻まれた古代文字を読んだ。円形に配された文字。


 ——七ツノ火ヲ持ツ者、此ノ門ヲ開ク。一ツノ火ニテハ足ラズ、七ツ揃イテ鍵トナル。


 七つの力が要る。一人では開かない。


 窪みの周囲に七つの紋様が配置されていた。アシュルにはそのすべてが読めた——太陽、月影、荒嵐、深根、蒼氷、朱謡、そして灰鎖。どれも灯っていない。


 扉に手を近づけた。


 触れてはいない。だが、掌の数寸先で——微かな振動を感じた。空気が震えているのではない。もっと深い、この場所の底にある何かが、アシュルの存在に反応している。


 ——姉さんはここに来たのか。


 掌を窪みに当てた。


 視界が弾けた。


 暗転。


 石壁の廊下を歩いている。だがアシュルの足ではない。歩幅が違う。視線の高さが違う。手に松明を持っている——細い指。自分の指ではない。


 イシュタの視界。


 三年分の渇きが胸の奥で裂けた。姉の呼吸が——自分の肺を押し広げている。


 姉がこの場所を歩いた時の記憶が、扉に残っていた。鎖魂魔法の残滓を回路にして、イシュタの写本に記されていた技法を通した——魂の痕跡を読み取る術。


 イシュタは走っていた。息が荒い。裸足の踵が石床を叩き、その衝撃がアシュルの脚にまで響く。廊下の封印を一つずつ確認しながら、最奥に向かって走っている。手が——姉の手が扉に触れる。灰鎖の位置に淡い灰色の光が灯る。一つだけ。


 ——足りない。


 イシュタの思念がアシュルの中に流れ込んだ。胸が焼ける。喉が渇く。拳が——姉の拳が握り込まれる。


 ——一つでは足りない。七つ揃わなければ。


 視界が歪んだ。松明の火が膨らみ、廊下全体を白く焼く光に変わり——。


 消えた。


 アシュルは扉の前に膝をついていた。


 掌が窪みから離れていた。全身に冷汗が浮いている。心臓が喉元で暴れている。呼吸を整えようとして、壁に背を預けた。石の冷たさが肩甲骨を通して伝わってきた。


 ——イシュタの視界を読んだ。


 代償。


 何を失った。


 アシュルは目を閉じ、姉の記憶を辿った。イシュタの顔。古い巻物を膝に広げ、ひどく真剣な顔をしている姿。不意に振り向いて笑う。笑い方がいつも少し不器用で——。


 声。


 イシュタの声が——。


 思い出せない。


 顔は浮かぶ。笑う口元は見える。古い巻物の上で動く細い指も覚えている。だが声が——「読み方は、そのうちわかる」と言ったはずの、あの声の音色が——。


 消えていた。


 胸の底を冷たい手で掴まれた。息が詰まる。目を開けても暗い石壁の廊下しか見えない。松明の代わりに手にした油布の灯りが揺れている。


 ——代償だ。


 イシュタの視界を読んだ代償。姉の声の記憶が、燃えた。


 拳を握った。指先が白くなるまで握りしめ、ゆっくりと開いた。


 声は消えた。だが——姉の足跡は見えた。イシュタはこの扉の前に立った。灰鎖の位置に光を灯した。一つでは足りないと知った。七つ揃わなければならないと。


 姉はここで何をしようとしていたのか。そしてなぜ——消えたのか。


 立ち上がった。膝が震えていたが、壁に手をつきながら体を起こした。


 封庫ふうこの廊下を戻り、格子を抜けて外に出た。夜の冷気が汗ばんだ肌を刺した。中庭の冬枯れの木々が、月明かりの下で骨のように白く浮かんでいた。


---


「ずいぶんと遅い散策ですわね」


 声がした。


 アシュルは足を止めた。封庫の入口から数歩の場所に、藤色の衣の影が佇んでいた。かすかに香の残り香が夜風に混じる。


 シリン・マフザル。


 月光の下で、黒髪に銀糸の帯が淡く光っている。口元に設計された笑みを浮かべている——だが、暗がりの中では、その裏にあるものが昼間よりも透けて見えた。社交術の範疇を超えた、何かに引き寄せられるような目。


「……マフザル家の」


 アシュルは声を整えた。下級書記の丁寧語。感情を消す。


「シリンで結構ですわ。——こんな夜更けに、この棟にどんなご用が?」


 試している。アシュルにはわかった。この女の目は暗がりに慣れている。封庫に入るアシュルの姿を——おそらく、部屋の窓から見ていた。


「散歩です。眠れなかったもので」


「あら。この棟は聖域の案内図には載っていませんのよ。ご存じだったかしら」


 口元の笑みは変わらない。だが、その瞳の奥に——井戸の底の水面のような、暗い光がちらついていた。


「知らなかった。古い棟があるとは思ったが、それだけだ」


 嘘だった。だがアシュルの声には、嘘を裏付けるだけの平坦さがあった。三年間の潜伏が磨いた技術。


 シリンの笑みが——ほんの一瞬だけ深くなった。嘘だと見抜いている目だった。


「この棟は封庫と呼ばれています。原炎に関する危険な知識と遺物を封じるために建てられたとか。正式な記録にはありませんけれど——月影派の古い文書に、断片的な言及がございますの」


 情報を出している。


 わざと。


「……それを、なぜ俺に」


 口が先に動いていた。敬語が外れ、潜伏時代の仮面に亀裂が入っている。封庫の代償が、声の制御まで削ったのか。シリンの表情は動かない。


「あなたの姉君のことは、耳にしておりますわ。月影派の目は帝都にもございますの。三年前に消えた灰鎖派の女性——原炎の時代を研究していた方」


 心臓が跳ねた。だが今度は指先も動かなかった。ルキウスの時とは違う——二度目は、身体が構えていた。


「月影派の諜報は優秀だな」


「お褒めに与りますわ」


 シリンの口元に、初めて微かな変化が生じた。設計された笑みではない——もっと素朴な、研究者が未知の標本を前にしたときのような表情が、一瞬だけ浮かんで消えた。


「真実が知りたいのですわ」


 アシュルは答えなかった。夜風が汗の引いた肌を刺す。シリンの声のトーンが変わっていた。丁寧語はそのままだが、社交の韻律ではない。


「この封庫には、月影派が三百年間見ないことにしてきた何かがあるのではないかと——わたくしは、そう思っています」


 アシュルはシリンの顔を見つめた。暗がりの中で、暗く深い瞳が月光を吸い込んでいた。底の見えない井戸のような目。


 信じるか。


 信じない。まだ。


 だが——。


「……俺一人では、あの扉は開かない」


 それだけ言った。


 シリンの笑みが消え、暗い瞳だけが残った。仮面の下の、何かが覗いた瞬間。


「存じております。七つの火が要りますのね」


 知っている。月影派の古い文書から知っていたのか。あるいは——。


「わたくしの力が必要でしたら、協力いたしますわ。条件は一つ。何が出ても——わたくしにも教えてくださいまし」


 夜風が中庭を渡り、冬枯れの枝を鳴らした。


 アシュルは長い沈黙の後、小さく頷いた。


---


 居室に戻り、窓を閉めた。外の冷気が遮断され、自分の呼吸だけが部屋を満たす。外套にはまだ封庫の冷気が染みついていた。


 寝台の縁に腰を下ろし、指先を見つめた。まだ冷えている。


 イシュタの声を思い出そうとした。——やはり、戻らなかった。顔は浮かぶ。笑い方も、指の動きも。だが声だけが空白のままだった。


 拳を膝の上に置いた。爪が掌に食い込む。呼吸を整えた。


 窓の外に、封庫の暗い輪郭が見える。石で塞がれた窓。蔦に覆われた壁。月明かりの下で、その棟だけが息をひそめている。中に入った身体が覚えている冷気を、窓越しに思い出す。


 イシュタはあの場所に辿り着いた。扉の前に立った。一つの火を灯した。そして——消えた。


 声は失った。


 だが、足跡を見つけた。


 アシュルは窓から目を逸らさなかった。背負い袋の底に、写本の硬い感触がある。指先はまだ冷たい。封庫の鉄格子の冷たさが、肌に残っている。


 六つの火が要る。七つ揃わなければ、あの扉は開かない。


 今日、七火の間で見た六つの顔を、一つずつ思い返した。


 ルキウスは「イシュタ」の名を知っていた。先祖の記憶の中に、と言った。あの慎重な声の運び方——口にすべきか迷いながら、なお伝えることを選んだ男。太陽派の嫡子が灰鎖の末子にわざわざ情報を渡す理由は、善意だけでは説明がつかない。だが少なくとも、敵意ではなかった。


 シリンは封庫を知っていた。月影派の古い文書から辿り着いた、と言っていたが、それだけではないだろう。あの女の瞳の奥に浮かんだのは社交の笑みではなく、封じられた何かに手を伸ばしたいという渇きだった。条件つきの協力——使えるか。使われるか。


 残り四つの火。シグルの値踏みする目に侮蔑はなかったが、灰鎖派に肩入れする理由もない。オーシンは怯えた目をしていた。ユエンの無表情は何も読ませず、ライラの笑みは何も語らなかった。


 味方はいない。だが、敵だけとも限らない。


 一つずつだ。


 イシュタの声は消えた。


 それでも——姉がそこにいた証拠は、まだ消えていない。


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