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灰燼の王冠  作者: 危機麒麟
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第三章「灰と光」

---


 夜。松明。広場に並ぶ灰色の衣の男女。


 先祖の視界だった。金の鎧が炎の光を弾き、手に握った剣が血に濡れている。刃を振り下ろす腕に力がみなぎり、その力の奥に——歓喜がある。


 笑っている。先祖が笑っている。正義の名のもとに、灰色の紋章を持つ者たちを裁く光であるという確信が、血の温度になって全身を巡る。


 ルキウスはそれを見ている。


 先祖の記憶だ。三百年前、灰鎖派かいさはが帝国から消された夜の光景。広場に引き据えられた老人も子どもも、灰に沈む王冠と鎖の紋章を胸に縫い付けていた。泣き叫ぶ者。静かに目を閉じる者。そのすべてを、先祖は光で焼いた。


 構造は見える。なぜ先祖がそう感じたか——光が影を焼くことを当然と信じる思考の筋道が、明確に見える。


 見えるから、苦しい。


---


 目を開けた。


 暗い天井。聖域の居室の石壁に、温石おんじゃくの微かな温もりが漂っていた。寝具の下に仕込んだ石がもう冷め始めている——腰の裏側だけがまだぬるく、それ以外は冬の冷気に晒されていた。夜明け前の静寂が、耳の奥に圧しかかるように重い。


 額を片手で押さえた。汗が滲んでいる。指先で己の体温を確かめる——先祖の体温ではない。ルキウス自身の温度だ。


 継承のけいしょうのぎで受け取った記憶の一つ。歴代の当主が積み重ねてきた判断と感情が、寝台の上に横たわるだけで不意に噴き出す。他の記憶ならば客観視できる。戦場の恐怖も、政治的犠牲の苦みも、幼い頃から叩き込まれた判断の枠組みで処理できる。


 粛清の夜だけが、違う。あれは判断ではない。喜びだ。


 息を整えた。窓の外はまだ黒い。


 ——あれは先祖の感情だ。己の感情ではない。


 区別する。いつものように。


 だが、区別した先に残る鈍い苦味を、何と呼べばよいのか。先祖が正しいと信じた行為の残響が、胸の底で冷えた鉄のように凝っている。


 石壁の向こうで、遠く馬蹄の音が響いた。


 煌宮こうきゅうからの使者だった。


---


 聖域から煌宮までは馬で半刻。夜明け前の帝都の大路を、護衛の騎兵二騎とともに駆けた。冬の空気が顔を削り、鼻腔の奥で鉄の味がした。馬の息が白く弾け、蹄が石畳を打つ音だけが暗い大路に響いていた。


 煌宮の門をくぐり、石段を昇った。靴底が大理石を叩く音が、人気のない回廊に反響する。汗が引き、代わりに宮殿の底冷えが衣の下に這い上がってきた。重い帷の垂れ下がる寝殿の前で足を止めた。


 扉が開いた。


 香が焚かれている。だがその下に、病人の甘い腐臭が薄く漂っていた。燭台の炎がわずかに揺れ、厚い帷に覆われた窓からは光が一筋も差していない。


 死と香と暗がりの部屋だった。帝国を三度の大征伐で統一した男の寝室が、これだった。


 寝台の白い絹が浮き上がるように見えた。その中に——骨と皮になった身体が横たわっている。頬は削げ、指は枯れ枝のように細い。肉体はすでに半ば燃え尽きていた。


 だが眼だけが、違った。


 黄金の虹彩が闇の中で灯っている。太陽魔法の残り火ではない。意志の色だ。肉体が朽ちてなお、世界を支配する意思だけが燃え続けている。


「ルキウス」


 枯れた声だった。だが寝室の隅々にまで届く響きがある。


「はい、陛下」


 ルキウスは寝台の傍らに膝をついた。石の床の冷たさが膝を射す。


 視線を合わせる。祖父の黄金の眼を正面から見るとき、背筋に走るのは恐怖ではない。認識だった。この眼の前では虚飾も留保も意味を成さない。


「灰鎖の子が来ておる」


「存じております。昨日の顔合わせで」


「あの子に近づけ」


 間を置かない命令だった。焔武帝えんぶていは問いの形を取らない。


「灰鎖の動きを余に報せ。何を探しているか。誰と接触するか。封じられた棟に興味を持つか」


「畏まりました」


 ルキウスは答えた。一拍の沈黙もなく。


 焔武帝の黄金の眼が、孫の顔を射抜くように見ていた。


「あの子には姉がおった。余が消した」


 枯れた声が、それだけを告げた。香の煙が顔の高さを這い、甘い腐臭と混ざって喉の奥に貼りつく。


 燭台の炎が揺れもしなかった。


「危険な知識に近づきすぎた。それだけのことだ」


 ルキウスは黙っていた。


 祖父の判断の合理性は、見える。灰鎖派の古い知識は帝国の不安定要因になりうる。排除する判断は——統治の論理としては、成立する。


 成立する。


 だが倫理的に同意できるかは、別の問いだ。


「近づけ。見張れ。そして——あの子が何を見つけるか、余に報せよ」


「承知いたしました」


 ルキウスは立ち上がった。膝をついていた石の冷たさが、衣を通して骨の芯に残っていた。


 寝殿を出る時、背中に祖父の視線を感じた。黄金の眼。あの眼は、先祖の記憶の粛清の夜の歓喜と同じ温度をしていた。


 ——違う。


 祖父は喜んでいない。計算している。だがその計算の冷たさもまた、先祖の歓喜と同じ根から伸びている。光で影を支配する。太陽派の血に刻まれた構造。


 煌宮を出た。冬の朝の空気が肺の底まで入り込んだ。甘い腐臭が、冷気に洗われるように薄れていく。


 空が白み始めていた。馬の背に揺られながら、粛清の夜の映像がまだ瞼の裏にちらついていた。


 朝の鐘が煌宮の方角から聞こえた。低く、重い銅の音。


---


 盟約の試煉の正式な開始は、その日の昼前だった。


 回廊に冬の陽が差している。石柱の間を斜めに射す光が長卓の上に紋章旗の影を落とし、七人分の席を明暗に切り分けていた。陽の当たる卓上に手を置くと石がわずかに温い。石柱の陰に入ると空気が一段冷え、吐く息が白く溶ける。


 各家の随員が長卓の周囲に控え、候補者たちの間で交わされる言葉を帳面に書き留めている。衣擦れと筆の走る音が、石の回廊に低く漂っていた。


 ルキウスは上席から場を見渡した。


 シグルが最初に口を開いた。


「アウレリア。北方の辺境は魔獣の活性化で削られている。帝都は十年見て見ぬ振りをしてきた。俺はお前に同盟を持ちかけに来たんだ。北方に兵を出す。代わりにガルド家は選帝でお前を支持する」


 大柄な体躯が長卓の向こうにある。額の刀傷が冬の光を受けて白く浮き、粗い布の上衣は帝都の洗練とは無縁だった。しかし言葉に飾りがない。だからこそ紛れがない。北方の風がそのまま声になったような率直さ。


「考えておく」


 三拍の間を置いて答えた。即答は立場を固定する。訓練通りの留保。


 シグルの目が一瞬細くなった——落胆ではない。予想通りだという顔だった。


 次にシリンが動いた。


 席を立って長卓の端まで歩き、ルキウスの隣に音もなく寄った。藤色の袖口から銀糸の紋章が覗く。白磁のような横顔に、完璧に制御された微笑が張りついている。


「ルキウス殿、少しよろしいかしら」


 声の温度が、周囲には聞こえない程度に落とされた。


「月影派は情報を扱いますの。どの家が誰と接触し、何を約束したか——ご興味がおありでしたら」


「対価は何だ」


「信頼ですわ。わたくしの持つ情報が正確であるとお認めいただくこと。それだけでございます」


 嘘ではない。だが全てでもない。月影派は中立を看板にしている。だがその中立を維持するために、常に情報の優位を必要とする。シリンが差し出しているのは好意ではなく、情報網の中にルキウスを組み込む布石だ。銀糸で編まれた蜘蛛の巣——精緻で、美しく、抜け出しがたい。


「考えておく」


 同じ言葉を返した。シリンの微笑は一切崩れなかった。


 長卓の末席では、灰色の外套の男が黙って座っていた。


 アシュル・ウルク。灰鎖派の末子。誰も話しかけず、本人も話しかけない。随員のいない席で、壁面の柱に刻まれた紋様を視線でなぞっている。


 視界の端に、灰色が沈んでいた。それ以上の関心は、この時のルキウスにはなかった。


 蒼氷派そうひょうはのユエンは長卓で何かを書き付けていた。碧い瞳が帳面と候補者の間を往復している。銀髪の横顔には感情が浮かんでいない。朱謡派しゅようはのライラは紅い唇に笑みを張りつけ、旗下の随員と何事かを囁き合っていた。深根派しんこんはのオーシンは席にいなかった——中庭の古木の下で、一人で空を見上げているのが窓から見えた。


 それぞれの思惑は読み解ける。シグルは北方の危機を梃子に軍事同盟を急ぐ。シリンは情報の中枢に座ろうとする。ユエンは全員の動きを記録し、最も有利な時点で態度を決める。ライラは感情の波を読んでいる。オーシンは判断を先延ばしにしている。


 そしてアシュル——。


 末席の灰色。それ以上の分類を、この時のルキウスは持たなかった。


---


 二日目の夜、居室の寝台に横たわると、また来た。温石の温もりが寝具の底から背中に沁みるのを感じた瞬間——


 継承の映像。


 だが今度は——粛清の夜ではなかった。


 もっと古い記憶だった。


 円卓。七つの紋章旗。石壁の広間に光が差している——七火しちかの間だ。今と同じ場所。だが空気が違う。紋章旗の色がどれも鮮やかで、石壁に張り付いた苔もない。


 円卓に七人の男女が座っている。太陽の金。月影の銀。嵐雲の錆。大樹の緑。氷の青。紅炎の朱。そして——灰色と鎖の紋章。


 灰鎖の男が何かを言った。声は聞こえない。音のない映像の中で口だけが動いている。だが周囲の六人が——笑っている。嘲りではない。共に過ごす者たちの、砕けた笑い。


 太陽の男が灰鎖の男の肩を叩いた。灰鎖の男が照れたように手を振る。月影の女が何か冗談を言い、荒嵐の男が腹を抱えて笑う。


 胸の奥に、鋭いものが走った。


 痛みに似ている。だが痛みと呼ぶには温かすぎた。


 この光景を、先祖は記憶していた。粛清より遥かに古い、おそらく何百年も前の——七火がまだ七火だった時代の日常。円卓を囲み、紋章旗の下で酒を酌み交わし、派閥も思惑も忘れて笑い合う。


 映像が途切れた。


 天井の梁が暗がりの中に浮かんでいる。額を片手で押さえた。頭痛が残っている。先祖の記憶の後には、決まってこの鈍い痛みが来る。


 ——なぜこの記憶が、今。


 盟約の試煉が始まったからか。七火が再び一堂に会したからか。


 答えは出なかった。だが胸の奥の、名づけることのできない感覚——それだけが、確かにそこにあった。あの円卓の砕けた笑いを見た時に走った鋭さが、沈殿して消えない。


 なぜ痛む。


 知っている光景ではない。先祖の記憶の中の、ルキウス自身は一度も経験したことのない場面だ。対等に笑い合う七人。肩を叩き合い、冗談に腹を抱える。あれは——この身の日常ではない。太陽派の嫡子の周囲に、あの温度はない。


 仕方のないことだ。


 仕方のないことだと、長い間思っていた。


---


 三日目も、四日目も、盟約の交渉は続いた。


 各家の随員がそれぞれの思惑を携えて回廊を行き来し、長卓の上で言葉が交わされ、石柱の陰で密談が囁かれた。蒼氷派のユエンが太陽派の旗下に接触した。朱謡派のライラが深根派のオーシンと中庭で長い会話を交わした。荒嵐派こうらんはのシグルが二度目の面談を申し入れてきた。


 ルキウスはその一つ一つに対応した。聞き、量り、判断を留保し、次の面談に移る。訓練された反復だった。呼吸のようにこなせる。


 夜ごとに、先祖の記憶が来た。


 三日目の夜は、粛清の夜の続きだった。広場ではなく——路地。逃げる灰色の影を追う松明の列。先祖の手が剣を握り、角を曲がった先で灰色の衣の女を追い詰める。女の目が振り返る。恐怖ではなく——諦めが浮かんでいた。


 先祖は剣を振り下ろした。


 腕に伝わる手応え。そしてまた——歓喜。


 寝返りを打った。寝具が汗で冷たく張りついた。窓の外に目をやった。星が一つ、雲の切れ間に浮いている。遠い。清潔な光だった。


 だがその直後に、もう一つの記憶が続いた。


 四日目の未明。浅い眠りの中で見た映像は、今度は円卓ではなかった。広い庭。花壇に薬草が植えられ、石畳の小径が曲がりくねっている。七火の聖域の一画だろうか——石壁の様式が似ていた。


 太陽の紋章の男が、深根の紋章の女と並んで歩いている。散歩だった。灰鎖の男が庭の隅で何かを書き付けており、蒼氷の若者が覗き込んで——灰鎖の男が苦笑して紙面を隠す。


 日常。


 砕けた、ありふれた日常。


 胸の奥で、何かが軋んだ。痛みではない。これは——渇望だ。あの円卓の記憶で走った鋭さと同じ根から伸びていて、だが質が違う。あの七人が持っていたものを、ルキウスは一度も手にしたことがない。その輪郭が、記憶を重ねるたびに明確になっていく。


---


 四日目の午後、中庭を横切ろうとした時だった。冬の乾いた風が石畳の上を渡り、枯葉と古い石の匂いを運んでくる。


 声が聞こえた。


「三百年前に追い出された一族の末が、聖域の土を踏むな」


 冬枯れの古木の下、三人の若者が一人の男を囲んでいた。旗下諸家の随員たち——荒嵐派と太陽派の旗下の若い官吏だった。


 囲まれているのはアシュルだった。感情を消した顔で石畳の先に視線を移している——立ち去る道を測っているように見えた。


「聞いているのか、裏切り——」


「そこまでだ」


 ルキウスの声は、自分でも意図しないほど鋭く出た。


 三人が振り向いた。金糸の白衣が冬の陽を受けて光る。太陽派の嫡子——彼らの主家の後継者が、中庭の石柱の傍に立っていた。


 旗下の若者たちの顔から血の気が引いた。


「ル——ルキウス様」


「盟約の試煉の場で、候補者に私闘を仕掛ける者がいると聞けば、大祭司だいさいしはどう思うだろうな」


 問いの形を取った命令だった。


 三人は深く頭を下げ、足早に中庭を去った。


 アシュルは動いていなかった。同じ場所に立ち、同じ姿勢で、ルキウスを見ていた。灰色の瞳に——感謝はなかった。警戒があった。下級の者が突然の上位者の介入に見せる、あの慎重な目。


「……ありがとうございます」


 敬語だった。距離を保つための敬語。


「礼は不要だ」


 三拍の間。訓練が推奨する沈黙——相手の反応を見る。そこから情報を得る。


 だが情報とは別の何かが、胸の底でざらついていた。


 先ほどの三人の姿が——先祖の記憶の中の、金の鎧と重なった。あの記憶の中で先祖が笑っていたように、旗下の若者たちも笑っていた。嘲笑。蔑み。灰色の紋章を踏む者たちの、三百年前と変わらない表情。


 不快。


 その一語だけが、訓練された思考を通り抜けて浮かんだ。


 アシュルは軽く頭を下げ、石畳の上を静かに去った。立ち去る背中には、屈辱の色も激昂の色もなかった。慣れている。この種の扱いに、あの男は慣れ切っている。


 それが余計に——。


 ルキウスは中庭に立ったまま、冬枯れの古木を見上げた。枝が灰色の空に骨のように広がっている。


 先祖の円卓の記憶が、不意に重なった。太陽の男が灰鎖の男の肩を叩いていた場面。あの時代には——あの種の嘲笑は、なかった。


---


 五日目の朝、書庫に向かう途中だった。


 聖域の書庫は本館の西翼にある。高い書架が並ぶ石造りの部屋で、天窓から差す光が塵を金色に浮かび上がらせていた。古い紙と乾いた革装丁の匂いが、静寂とともに積もっている。魔法体系の古典から七火の記録史まで、千年分の知識がここに収められている。


 書庫の入口で、管理官に言葉を交わしている人影が見えた。


 アシュルだった。


「灰鎖派には閲覧権限がございません。これは聖域の慣例でございます」


 管理官——アウレリア家の旗下の老人——が、丁寧だが揺るぎのない声で告げていた。


 アシュルは黙っていた。下級書記の無表情。「承知しました」と言って踵を返しかける。


 ルキウスは足を止めた。


 ——待て。


 灰鎖派は爵位を剥奪された家であり、書庫の利用権限は評議会の判断に委ねられている。ここで太陽派の嫡子が介入すれば、政治的な意味が生じる。不必要な波紋。


 正しい判断は、見て見ぬ振りだった。


 だが——。


 昨日の中庭が、まだ胸の底にある。旗下の若者たちの嘲笑と、先祖の記憶の中の歓喜が、同じ形をしていた。そして書庫の管理官の丁寧な拒絶もまた——形が違うだけで、同じ構造ではないか。排除する。遠ざける。三百年間、同じことを繰り返している。


 だが、足が動いた。


 ルキウスは書庫の入口に歩み寄った。


「管理官」


 老人が振り向いた。太陽派の旗下にとって、ルキウスの声には命令と同等の重みがある。


「この者に閲覧を許可する。私の名で」


 管理官の眉が上がった。だが旗下の忠誠が疑念に先行する。


「畏まりました、ルキウス様」


 管理官が道を開けた。


 アシュルがルキウスを見ていた。灰色の瞳に——今度は警戒だけではなかった。何かを測る目。予想外の動きを見せた相手に向ける、注意深い目。


「……なぜ」


 短い問いだった。敬語が外れていた。


「帝国の書庫は帝国の民に開かれるべきだろう」


 自分の声を聞いた。政治的に正当で、個人的な感情を含まない返答。


 ——嘘ではない。だが全てでもない。


 なぜこの判断をしたのか。「有用かもしれない」——合理的な説明はつく。灰鎖派の末子の知識を測る機会を得る。


 そう説明している。自分に。


 だがその下に、昨日の中庭の不快が沈んでいる。旗下の嘲笑と先祖の歓喜が同じ形をしていたという認識が、静かに何かを押し動かしていた。


---


 書庫の奥で、アシュルは本を読んでいた。


 ルキウスは書架の間から、その姿を見た。頁を繰る微かな音だけが、書庫の沈黙を区切っている。


 変化は瞬時だった。


 あの目立たない風貌、感情を消した下級書記の顔が——消えた。代わりに現れたのは、全く別の男の顔だった。灰色の瞳が文字を追い、頁を繰る指が微かに震えている。炉の灰の奥で、まだ赤い火種を見つけた者の目。端正な字を書く書記の指が、紙面の一行一行を確かめるように辿っていく。


 古い文書だった。原炎げんえんの時代の記録に連なる、七火の成立期の書簡の写し。他の候補者なら素通りするような、学術的な——しかし退屈な文書。


 アシュルは退屈していなかった。


 頁を繰る速度が上がった。時折手を止め、何かを反芻するように目を細める。唇が微かに動いた——声には出していないが、文を頭の中で読み直している。


 その仕草は、知識に飢えた研究者のものだった。


 ルキウスは書架に背を預けたまま、自分の思考を査定した。


 人間を機能で分類する。戦力、情報源、同盟相手、障害。灰鎖派の末子は——弱い。血統魔法はほぼ枯渇し、随員もなく、政治的後ろ盾は皆無。投資効率で測れば末席に沈む。


 だが今、書庫で古い文書を読むアシュルの目を見て——思考の中で、何かが微かにずれた。


 この男は、弱いのではない。


 力の種類が違うだけだ。


 血統魔法の威力で測れば末席に沈む。だが知識への渇望と、古代の文字を読み解く能力と、三年間帝都で身を隠し通した忍耐——それらは、想定していない種類の力だった。


 分類に収まらない。


 その認識を、判断の留保に置いた。いつものように。だが——収まらないものを認識すること自体が、すでに逸脱だった。


 アシュルが顔を上げた。書庫の薄暗がりで、灰色の瞳がルキウスと目が合った。


 下級書記の無表情が戻っていた。一瞬前まで研究者の目をしていた男が、再び誰の印象にも残らない男に戻る。仮面を被り直す速度は見事だった。


 だがルキウスは見ていた。あの目を。


「……何か」


 アシュルが静かに訊いた。警戒と距離を含んだ声。


「いや。邪魔をした」


 書架から背を離し、書庫を出た。


---


 廊下に出ると、石壁に差す光が眩しかった。高い窓から冬の陽が斜めに射し、壁に掛けられた記録画の上を白く灼いている。六大宗家の子女が皇帝の前に跪く場面。灰鎖派の姿は、どの画にもない。


 この廊下の画から灰鎖が消されたように、書庫の慣例から灰鎖が消されたように、帝国の記録から灰鎖は消されてきた。光で照らす——その光の外に、三百年かけて押しやった。


 当然のことだと、ルキウスは教わった。


 当然か。


 先ほどの書庫の男は——知識に飢えた研究者だった。あの目は、仮面の下から炉の火が覗いたような目だった。


 額を片手で押さえた。鈍い頭痛が、まだ微かに残っている。


---


 その夜、居室の灯りの下で随員から日報を受けた。灰鎖派の書庫利用がルキウス様の許可であるかと確認する文官に、「判断の材料を増やすためだ」と答えた。合理的な説明。いつも通りの。


 文官が去った後、灯りの前に一人で座った。


 ——あれは正しい返答だった。


 だが、あの書庫で見たものの全てを、あの一言は掬い上げていない。力の種類が違うだけだ——なぜあの言葉が浮かんだのか。人間を機能で分類し、その機能の優劣を測る。それが教わった判断の仕方だった。だがあの男を見た時、分類の軸そのものが違うのではないか、という疑念が生じた。


 先祖の記憶が、また微かに揺れた。


 円卓の光景ではない。もっと小さな記憶。庭。石畳の庭に陽が差している。誰かが——女が、薬草を摘んでいる。灰色の衣。背中しか見えない。黒い髪が風に揺れている。


 先祖の視界が、その女を見つめていた。視線に——敵意はない。関心。あるいは、それに近い何か。


 女が振り向く。


 顔が——見えない。光が白く弾けて、映像が途切れた。


 だが名前だけが残った。先祖の記憶の中に、音のない声で刻まれた名前。


 ——イシュタ。


 灰鎖の女。アシュルの姉と同じ名。


 燭台の光が手元を暖色に染めていた。


 血の記憶は時系列が整っていない。粛清の夜も、円卓の穏やかな光景も、庭の女も——どれがいつの時代のものか、映像だけでは判別がつかない。ただ、庭の女の記憶には、粛清の夜のような暗さがなかった。もっと古い——あるいは、粛清とは無関係の時代の映像。


 イシュタ。


 アシュルが探している姉の名を、先祖の記憶が知っている。


 あの男に——伝えるべきか。


 幼い頃から叩き込まれた答えはある。情報は戦略的に開示せよ。伝えればアシュルの関心を引き、引いた関心は政治的に使える。


 鋳型の通りの判断。


 だが——。


 灯りの炎が揺れた。窓の隙間から冬の夜気が入り込み、影が壁の上で揺らいでいる。


 初日の廊下でイシュタの名を告げたのは、戦略ではなかった。照らす光としての信条が、隠し事を許さなかっただけだ。今もまた——同じ場所に立っている。


 あの書庫の男の目が、まだ頭の中に残っていた。知識に飢えた目。姉を探す目。仮面の下にあった、あの目。


 ——前提が違うのかもしれない。


 帝王学は、最適解を選べと教える。だが最適解は前提に依存する。前提が正しければ、最適解も正しい。前提が誤っていれば——最適解そのものが狂う。


 今日の書庫で見た男は、想定していた灰鎖派の末子ではなかった。力の種類が違う男だった。


 前提を疑え、とも教わった。新しい情報が入ったら。


 新しい情報——先祖の記憶の中の穏やかな円卓。庭でイシュタの名を呼ぶ先祖の視線。そして書庫で古い文書に飢えた目を向ける灰鎖派の末子。


 それらが同じ方向を指している。


 灯りの炎を見つめた。影が壁に揺れている。冬の夜気が窓の隙間から忍び込み、炎の先が震えていた。


 まだ何も決まっていない。まだ何もわからない。


 だが——知りたい、と思った。


 あの男が何を読み、何を探し、何を見ているのか。


 それは祖父の命令とは別の場所から来た関心だった。教わった判断の中にはなかった問いだった。


 目を閉じた。


 先祖の記憶が、また来た。だが今度は粛清の夜ではなかった。


 円卓。七つの炎。笑い声。紋章旗はなく、上座も末席もない。七人が酒を酌み交わし、灰色の衣の男が何か言って、北方の大男が腹を抱えて笑っている。


 ——対等だった。


 映像が消えた。目を開けた。天井の梁。燭台の炎。冬の夜。


 胸が痛んだ。


 なぜ痛むのか——今度は、わかった。


 ルキウスは何のために皇帝になるのか。


 能力がある。資格がある。合理的に考えれば自分が最適だという確信がある。だがそれは「なぜ」の答えではない。「誰が」の答えにすぎない。


 先祖の記憶の中の七人は、笑っていた。あの七人は——なぜあの円卓にいたのか。義務か。合理性か。違う。あの笑い声は、義務から出るものではなかった。


 ルキウスにはあれがない。


 何のために。


 その問いが、胸の底で燃えた。初めて——自分の中から出た火だった。先祖の記憶でも、教わった判断でもない。自分自身の問い。


 答えは出ない。だが問いが生まれた以上——動かなければ、答えは永遠に来ない。


 立ち上がった。


 外套を手に取り、居室の扉を開けた。回廊の先、東翼の奥に、微かな灯りが一つ漏れていた。


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