2 山の庵
「まほろさま!」
「久しぶり、和泉」
牛車に乗ってやってきた少女を、まほろは出迎えた。山間の小さな小屋にも、春の風が吹きぬける。肩の上で切りそろえられたまほろの髪が、ふさりと揺れた。
和泉は牛車をおり、ふうと息をこぼす。
「ここまで来るの、大変だったでしょう?」
御所からは牛車を使っても二日ほどかかる。ずっと御所で暮らしてきた和泉にとっては、外に出ること自体が慣れないことのはずだった。和泉は物珍しそうに山を見回し、「寂しくはございませんか」と訊いてきた。
「え?」
「こんな、ひとのいない山に閉じこもるなんて。若くして隠居生活ではないですか。髪も尼削ぎですし。せっかく美しかったのに」
純粋に心配しているらしかった。だからまほろは笑う。
「たまに師匠や叔母上が来てくれるから、退屈はしないよ。あとは赤羽も飛んできてくれるし、それから狼たちもときどき来ているから。髪は案外扱いやすくて便利だし」
短くなった髪を指先で触れる。この髪を恥とは思わない。後悔もしていない。
「そうですか。ならばよいのですけど……。あ、そうでした。宮さまが、よろしくと仰っておりましたよ」
「……和泉に言づてしなくても、文くらいくれればいいのに」
まほろは笑みを苦笑に変えた。遠慮しているのかなんなのか、この小屋に移ってから、女宮とは一度も会っていないし文も交わしていない。帝ですら、まほろには度々文をくれるのに。
どうぞ、とまほろは和泉を促し、小屋へと歩いた。小さな室内ながら不便はない。必要なものは帝が気を利かせて御所から贈ってくれるから、むしろ物が有り余るくらいだ。
和泉は楽しそうに瞳を輝かせていたが、ふと竹籠に目を映した。
「狼さまは、まだ目覚めませんか」
「……うん」
竹籠にはやわらかい干し草を敷き、その上に琥春を寝かせていた。その背は、ゆるやかな呼吸に合わせて上下している。
「どれだけ笛の音を聞かせても、起きなくて。でもちゃんと、あたたかいんだよ」
まほろがなでてやると、琥春はわずかに身じろぎする。だが起きる気配はない。戦で倒れてからずっと眠りつづけて、ついには冬を越え、春を迎えてしまった。
戦ののち、東庵国にも西海国にも死者はすくなかったと聞いた。帝たちはまほろの手柄だと言い、なんでもほしいものを与えようと言った。だからまほろは静かな小屋がほしいと願った。琥春を連れて、静かに暮らせる場所に移りたいと。
この小屋が建てられ、しばらくは山吹や叔母がともに過ごしていた。それでも、やがて山吹は気の向くままの旅人の身にもどり、叔母は夫や子どものもとへ帰っていった。
それから赤羽は、もといた森に返された。時おり、この山まで飛んできて、笛の音をせがんでくる。
「狼たちも来るのですよね?」
和泉が心配そうに訊いたから、まほろは微笑む。
「弥琥たちは、琥春の様子を見に来るの。大丈夫。うまくやってるよ」
契約した以上、彼らの自由も守らなければならない。
自由に生きて、とまほろが願っているいま、狼たちは平穏に生きる道を進みはじめることができたようだった。まだ彼らがまほろへの警戒を解くことはないが、それでも一歩ずつ前進している。べつに、こちらを信用してくれなくてもいいのだ。彼らがまほろを利用するだけだと思っているなら、それでも構わない。狼たちが納得のいく道を選ぶことができるなら、なんでもよかった。
それでも、まほろが死んだあと、どうなるかはわからない。人間の契約者がいなくても、彼らが自由に生きていけるように、式神という立場から彼らを解放したい。まほろはそのために、この小屋で呪術について学び直す日々を送っていた。
もし式神から解き放つことができなくとも、いまのように式神としてでも穏やかに暮らせるような環境をつくらなくてはならない。彼らのためになにができるのか、まほろの残りの人生をかけて考えていくつもりだ。
「いろいろ忙しいけど、やりがいはあるよ」
「そうですか……、ならばよいのです」
そこでようやく、和泉も心から笑ってくれた。
「でも、片腕で不便はないのですか?」
「慣れればなんとかなるかな。ご飯もつくれるし」
「入用であればいつでも呼んでください。御所からすぐに駆けつけます」
「ありがとう。でも宮さまに怒られそうだね」
「宮さまはそんなことで怒るほど、心の狭いお方ではございません。……あまり入り浸らぬようにとは釘を刺されましたが」
相変わらず、彼女たちは仲がいいらしい。
久しぶりに会ったふたりの間で、話は尽きなかった。ともに食事をつくり、寝床を敷いて横になってからも、眠ることもせず笑いあった。
そんな生活を三日ほど過ごしてから、和泉は名残惜しそうに御所に帰って行った。彼女も御所での仕事がたまっているのだろう。賢い少女なのだから出世することは間違いない。
和泉の乗った牛車が見えなくなるまで、まほろは手をふって見送った。
「琥春、和泉が帰ったよ」
小屋にもどり、まほろはそっと琥春をなでる。ゆっくりと動く琥春の背に手を当てて、生きていることを確かめる。
和泉がいなくなったとたん、小屋は静まり返った。いずれはこの静寂にも慣れるのだろうけど、いまはすこし寂しさが募る。しばらくの辛抱だと自分に言い聞かせ、でもそれがつらいな、と苦笑した。それもこれも、琥春が起きてくれれば考えなくていい悩みになるのだが。
「琥春」
もう争いはない。帝や女宮が、これからも国同士争わずに済むように尽力してくれている。獣たちを武器として使わなくてもいいように、と。
――狼は、妙に人間くさい。あれでは武器と呼びづらくて敵わんな。
御所で別れ際、女宮はそう言ってため息をついていた。
これからは、人間も獣も静かに暮らせるはずだ。
風が吹き、白い花びらが小屋に吹きこんだ。この山は、特別に桜が美しい場所だった。今度こそ、琥春とともに桜を眺める日を祈って、まほろは目を閉じた。




