10 まほろと狼
凍てつくような寒さだった。赤羽が翼を羽ばたかせるたび、身を切るような風に襲われる。和泉が巻いてくれた帯がなければ、手を離して落ちていただろう。まほろは赤羽の身に身体を寄りそわせ、ぬくもりをわけてもらって耐えた。
琥春が遠い。どこかに消えていこうとしている。胸の内から不安がこみ上げてくる。
どれほど経ったころか。
赤羽がぐんと地上に近づいた。まほろも細く目を開ける。
広い野原だった。風に乗って、血の匂いが立ちのぼってくる。白い光がちかちかと地上を駆けまわるのが見えた。それが狼だとわかったとき、まほろは叫んだ。
「琥春!」
琥春を取り囲んで、狼たちが光の矢のように四方八方から飛びかかっているのだ。彼らに肉を削がれ、琥春の銀の毛並みは汚れている。それでも琥春は、一頭だけで彼らに対していた。
まわりにはすでに倒れた狼たちの姿もあったが、琥春が押されているのは明白だった。もういまにも倒れてしまいそうだ。
「琥春……!」
琥春がよろよろと上空を見上げた。赤羽は雷が走るような速さで、琥春のそばにおり立つ。突然現れた存在に、狼たちのまとう空気が揺れた。
懐刀でまほろは帯を切り裂く。琥春の前に立ち、狼たちに向かって叫んだ。
「やめて!」
その声に、彼らはぴんと耳を立てた。襲いかかろうと身を低くするものの、脚が動かない様子で、どの狼も制止したままだ。
いつか、琥春が言っていた。彼らは狼守りの一族を殺すことを躊躇すると。おびえているのだ。まほろの身に流れる、狼守りの血に。きっと、彼らは狼守りに抗えない。その血に契約が刷りこまれているから。
背後で、琥春が倒れる音がした。目をやると、彼は小さな狼にもどって浅い息をしている。
狼は恐ろしい。けれど退けない。傷ついた琥春はもちろん、赤羽も戦えるだけの力はないだろう。
だれも動かないままの時間が流れ、まほろは意を決して口を開いた。
「わたしは、あなたたちと争いたくない」
一頭の狼が進みでてきた。その瞳ですぐに察した。弥琥だ。彼はすっと息を吸うと、ひとの姿になった。
「弥琥、退いて。あなたたちと戦うつもりも縛るつもりも、わたしにはない」
「信じられると思うか?」
弥琥の声は冷たかった。思わず身を固めてしまうほどに。だがすぐ、まほろは弥琥を見つめる。はじめて、真正面から弥琥をしっかりと見たかもしれない。ずっと、目をそらして生きてきてしまったから。それでももう逃げたくない。
「信じて、弥琥」
彼の瞳に映るのは、いまにも爆ぜそうな憎しみや嫌悪の情だ。むかしのまほろであれば、確実におびえている。だがいまは恐怖を感じなかった。むしろ、自分の心が静まっていくのを感じた。
彼らは恐ろしいだけの獣ではない。彼らだって、傷ついてきた者たちなのだ。謝らなければならないと、そう決めていた。まほろは息を吸った。
「あなたたちの命も意思も、すべてを無下にした一族の罪をお詫び申し上げる」
「……なんのつもりだ」
弥琥がわずかにたじろいだ。突然の言葉に対してか、それともまほろがまっすぐに見つめてくることに対してかは、まほろにはわからなかった。
「あなたたちの力は弱まっている。西の呪者の契約では意味がなかったのでしょう。だったら……、わたしなら、力になれる」
「おまえが、狼の力に?」
「そう。弥琥、それから、あなたたちも」
まほろは狼たちを見回した。みな困惑してまほろを見ている。一頭一頭の瞳を順々に見つめた。すべての狼に、哀しみがあることを知った。狼守りの一族と狼たちの関係は、いつからか歪みきっていた。正すことが、生き残った自分のするべきことなのだろう。やるべきことを果たすときがきたのだ。
「みんな、わたしと契約してほしい」
沈黙が広がったが、すぐさまそれは、ざわめきに変わった。
「馬鹿げたことを。だれが、おまえなどと……!」
「信じて。契約をしても不当に縛りつけはしない。わたしがあなたたちに望むことはひとつ。自由に生きてほしい、それだけだよ」
突然、横合いから、どんと押されてまほろは倒れた。一頭の狼が、たまりかねたように飛び出してきたのだ。狼の爪の下敷きになり、まほろはうめく。
赤羽が怒り、狼に向かっていこうとする。
「待って!」
赤羽がびくっと止まった。まほろは息苦しさに眉をひそめながら狼を見上げる。じっと見つめると、狼が怖じけて身を引いた。彼もまた、まほろに手出しができないのだ。
まほろが咳きこむと、口からは血がこぼれた。口元を拭って立ちあがる。
「狼には、自由に生きてほしい。それしか望まない。狼守りの血が必要なんでしょう? だったら、わたしを利用して」
「自由に……、か」
弥琥が笑った。嘲った表情だった。まほろに歩み寄り、乱暴な手つきで髪をつかむ。
「おまえが呪者である限り、信用できぬ」
「……そう、たしかに、わたしは呪者として生きてきた」
狼守りの一族の在り方を厭いつつ、呪者であることに頼るしかなかった。呪者は呪者として生まれ、呪者として死ぬ。それが運命だったから。それに山吹に癒しの術を教えてもらった。そうして救ってきた命がある。誇りもあった。
――でも。
まほろは懐刀を握る手に力を込める。歯を食いしばって、刀をふった。弥琥につかまれた、自分の髪へ。一房の髪が落ちてきて、肩の上で揺れた。
切り落とされた髪が、あっけなく地面に落ちる。
「わたしは、呪者をやめる。あなたたちとともに生きるだけの、ただの人間になる」




