9 飛ぶ
大切なものが、遠く離れていく気がした。
まほろは、そっと目を開く。見慣れた天井が見えた。
ずいぶん長い間、眠っていた気がする。夢から醒めていないようなまどろみがつづき、やがて、じわじわと身体の感覚が鋭くなっていく。感じたのは、左腕の熱だった。焼けつくような熱がある。そっと右腕で撫でた。一気に意識が覚醒した。
触れようとしたものがない。肘の上あたりが布で縛られ、その下が、ない。
瞬間、なにが起きていたのか思い出した。
「琥春……!」
飛び起きようとして、右手だけではどうにもできずに倒れた。そこへ駆けてくる足音がして、障子が開く。
「まほろ! ああ、よかった!」
叔母がひどくやつれた顔に涙を浮かべていた。大丈夫なのかと問う叔母の衣を掴む。
「琥春は! 琥春はどこ!」
叔母は気圧されたように身を引いたあと、落ち着いてとまほろを制した。
「無事よ。まほろとの契約が、西の呪者の呪縛を解いたから、安心して」
「どこにいるの」
まほろは右手で胸をおさえる。琥春が近くにいないことだけは、どうしてだかわかった。
「お願い、教えて!」
言いよどむ叔母にすがりつくと、彼女は目を伏せて小さな声で言った。
「戦に」
暗闇に突き落とされるような心地だった。見上げた叔母の顔は、哀しみに満ちている。
「まほろと赤羽が動けなかったから、代わりに、ひとりで。でも、あなたとの契約のおかげで力が増したから平気だと」
言い終わらないうちに、まほろは今度こそ立って駆けだした。その腕をつかまれる。
「駄目よ。そんな身体で!」
「でも、いま行かなきゃ、琥春が死ぬ!」
お互い声のかぎり叫んでいた。だが叔母のほうがまほろの気迫にたじろいだ。まほろは叔母の手をふり払おうと左手を出そうとして、その手がないことに気づいた。
片腕を失ったわたしに、なにができる?
目の前が暗くなる。くちびるを噛んで、叔母の肩口に額を押しつけた。
「お願い。もうだれも、死なせたくないの……!」
涙があふれて、叔母の衣に落ちた。ぽつぽつと濡らされる衣に彼女の力がゆるむ。そっと右手をひき、まほろは叔母を見た。叔母も泣きそうな顔になっていた。
彼女の手を一度握ってから、ごめん、と背を向ける。
薄い衣一枚をまとっただけの姿で寝かされていた。外に出ると冬の寒さが身にしみる。
いままであった腕がない。それだけで走ることも難しかった。熱もあるのだろう。脚がおぼつかない。それでも走って、築地塀の門にいる兵に必死に訴え、森に向かおうとした。そこに和泉が駆けてきた。
「まほろさま。赤羽ならこちらです。会うのでしょう?」
「え……?」
「いいから、お早く」
ぐいと腕を引かれて、歩きだす。連れて行かれたのは、はじめて赤羽に出会った蔵だった。赤羽は格子の奥で眠っていた。まほろは駆けよって、その首もとに顔をうずめる。
赤羽が目を開いた。甘えるように鳴いて、まほろに頬を寄せてくる。
「お願い、赤羽。助けて。琥春のもとに行きたいの」
祈って、息を吸いこんだ。山吹に教えられた旋律を紡ぐ。山吹がかつて、まほろの命を救ってくれた唄だ。
いまの自分になにができるのかわからない。それでも行かなければ。
涙まじりの声で必死に唄った。そうするうち、自分の熱も痛みも和らいでいく。
赤羽が身を起こした。こつんとまほろを頭で押して、外へ押しだそうとする。目が合うと、赤羽はすべてを承知している瞳をしていた。やはり赤羽は、ひとの心の機微に敏い。
「まほろさま、お待ちください」
鋭い声で止めた和泉を見ると、彼女はぎゅっと口もとを引き締めた。いつのまに持ってきたのか、その腕に衣がある。
「寝巻きのまま行くおつもりですか。はしたない」
そう言って、まほろに素早く衣を着せていく。白い上着に、緋の袴。呪者のあかしである長い髪をていねいに梳って、まほろと赤羽を外へ追いやった。
「乗ってください」
「え」
「行くのでしょう、狼さまのもとへ。さあ、早く」
まほろが困惑しながら背に乗ると、赤羽は身をよじったが、大きな抵抗はしなかった。
「赤羽に身体を寄せてください」
言われたとおりにすると、彼女は衣の帯でまほろと赤羽を巻いて結びつける。赤羽は居心地が悪そうだが、翼を動かすのに支障はないようだ。
「本当は行かせたくないし、ひとりでなんて、もっと駄目です。でも、ひとりしか乗れないし……。だから、行くのなら、必ず帰ってきてください」
和泉はつぶやき、一歩退いた。心を決めた顔で見つめてくる和泉に心が揺れる。
「叔母さまも、わたしも、ここで待っております」
まほろの心を汲んでくれたのだ。本当に、彼らには助けられてばかりだ。
「――うん。ありがとう」
まほろは息を吸う。
行かねばならない。もうだれも、失いたくない。
必ず帰ってこよう。琥春とともに。
「飛んで!」
赤羽は大きな翼を広げ、空に跳びあがった。




