赤い紐
その後、ようやく痛みの訓練が終わって疲労困憊した様子のアシシさんとげっそりしたメイゲツさんが現れた。昨日一気にお腹の大きくなったコウギョクさんは安定期に入って調子が良さそうなのに、メイゲツさんの方がまるで悪阻を経験中の妊婦のような顔付きになっていた。
「あーメイゲツ?もしかして無意識のうちにやっちゃった?」
「やっちゃったって…何をデスカ?」
片言の外国人のような反応になったメイゲツさんに肩を貸しながらシロガネさんは言う。
「辛そうなコウギョクに何かしなきゃって思い過ぎて、メイゲツがコウギョクの悪阻の一部を肩代わりしちゃったってとこだな。二日酔いみたいになってないか?」
「あぁ…通りで…訓練の途中から…胃の辺りが…ムカムカしてきて…ちょっ…マジやばい…」
メイゲツさんは慌ててシロガネさんから離れると道の端に向かってしゃがみ込んだ。シロガネさんが背中をさする。
「自分で、吐けそうか?」
メイゲツさんはやっとのことで頷いて苦しそうな声を出した。クロさんがどこからともなく水の入ったコップを取り出してシロガネさんに渡す。ようやく落ち着いた頃にメイゲツさんはコップを受け取ってうがいをすると水を少し飲んでいた。
「メイゲツ…ごめん、大丈夫じゃない…よね?」
コウギョクさんが困ったように言う。
「のんびり帰るのも辛そうだな。ちょっと近道するか」
「シロガネさん!」
クロさんが眉をひそめたが、シロガネさんは笑って言った。
「みんなで手を繋いで絶対に離さなきゃ大丈夫だよ」
「それはそうですが…正式なルートではありませんから、本来でしたら研修生は使ってはいけないんですよ?」
クロさんに念を押されて、私たちはシロガネさんを先頭に最後尾をクロさんにして一列に並んだ。シロガネさんはメイゲツさんと手を繋ぎ、シャッターの閉まった店と店の間の通路とも呼べない狭い隙間に入ってゆく。メイゲツさんの後ろのヤミカさんが少し不安そうな表情で振り返った。
「今よりお腹が大きくなったら通れないかも!」
私が思わず声を上げると私と手を繋いでいたクジョウさんが少し笑って振り返った。私と手を繋いだコウギョクさんも、同意する声が背中に聞こえる。
「大丈夫、大丈夫。見た目よりは広いんだよここ。手前に空き缶落ちてるから踏んで転んだりするなよー」
シロガネさんが言う。
「妊婦はお腹で見えないんですから、そんなこと言われても!」
私はそう言いながらもなんとか足元に注意しながら進んで空き缶を踏まずに進むことができた。私がホッとしたとき背後で小さなミナミさんの悲鳴が上がった。
「キャア!!ネズミ!!」
シロガネさんは目の前に現れたドアを開けたところで、すでに半分中に入っていた。私は後ろの方に引っ張られてバランスを崩す。クジョウさんが力強い手で私を引っ張って起こしてくれたので私もコウギョクさんもなんとか踏み止まれたのが分かった。けれども、その後ろのアシシさんが慌てて振り返る。
「手を離すな!!」
言ったときにはアシシさんと、その後ろにいたミナミさんの手が離れて、フブキさんとペコくん、最後尾のクロさんのハッとした顔を私は見た。
(クロさん!!)
次の瞬間には私は喫茶店の中でクジョウさんに抱きかかえられて必死にコウギョクさんの手を握って倒れていた。アシシさんが呆然とした様子でミナミさんの繋いでいた手を見ている。開いたドアの向こうには誰の姿も見えなかった。
***
「ごめん、マソホちゃん」
私はクロさんの紐が繋がった状態で行方不明になった四人の痕跡を辿るために、左手を固定されて喫茶店の前に急きょ出現した設営ブースの中にいた。ベッドに横になった状態だったので、別に困ったことは特になかったけれど、シロガネさんの落ち込みように私の方がショックを受けている状態ではなくなってしまった。
「起こってしまったことは仕方がないですよ…むしろ私の紐が少しは使えるようで良かったです…」
私は先ほどまで統括にこってり絞られていた様子のシロガネさんに向かって言った。それにしても統括本人が直々に来るとは思わなかったので、そんなに大ごとなのかと私は少し不安になる。
「マソホ、お腹の方はどうだ?」
統括に聞かれて私は頷いた。
「大丈夫ですよ。まだ四日くらいは…妊娠期間なので…」
「いや、落ち着いて聞いてほしい。クロガネが地下道よりもその先の空間の狭間に落ちたことで…時間の流れが変わった可能性があるんだ。こんなにでかくなかっただろ…繋がった紐も影響を受ける」
「えっ…?」
私は横になっていたのでよく分かっていなかった。恐る恐るブランケットをめくる。お腹を見下ろすと明らかに朝よりもはち切れんばかりの大きさになっていた。
「あれ?シラタマ…?動いて…ない?」
「大丈夫だよ。出産間近になったらそんなに動かないんだよ。でももうじき出て来る。そしてクロハツは別の妊婦が出産中でこっちに間に合うか分からないんだ。サギリ手伝え」
「えっ!?」
呼ばれて現れたサギリと呼ばれた黒尽くめの死神は私の顔を見るとなぜか困ったように言った。
「すみません、女の姿の方が良かったですか?用件が分からなかったもので…つい、いつものクセで。死神になったときの性別は女性なのでご安心を」
「あ、そうなんですか?それより、統括…もうじきって…あ…!!」
言ったそばから私は信じられないほどのずっしりした痛みがお腹に走ったのが分かった。息が止まりそうになる。
「マソホ、クロガネに取り上げてもらいたかったな。でもどうやら間に合いそうにないから我慢しろ。大丈夫、赤ん坊を取り上げたことならあるから、安心していい。シロガネ、手握っててやれ。古くからの知り合いの魂の方が気楽だろ…」
「マソホちゃん…」
「シロガネさん…私…昔って…ベニ…だったんですね…っ!!」
私は力一杯シロガネさんの手を握ってしまった。
「えっ?ベニなんですか?生まれ変わったらもっと美人になりたいって言っていた…本当に叶えたんですね…」
なぜかサギリと呼ばれた死神が驚いた様子で私の顔をじっと見る。
「サギリ、今は余計なこと言わなくていいよ…」
シロガネさんが私の顔をタオルで拭いてくれた。すでに汗が出てきていた。
「え?私…そんなこと…望んだの…?バカ…みたい!私は…そんなに…美人じゃなくたっていいからっ…クロさんと…家庭を築いて…子どもを産んで…仲良く…老後まで…幸せに生きたかっただけなのに!!」
私は叫んでしまった。長い痛みの間に統括の手が私の腰の辺りをさすって痛みを少し逃してくれるのが分かった。統括が静かに言う。なぜそんなに優しい目をするのかと思った。まるでクロさんのようだ。
「マソホは…ベニんときより、ずっと真っ当な願い事をするんだな…」
重い痛みの感覚は次第に短くなり、私は必死に耐えていた。少し痛みが遠ざかっては再びやって来るので眠ることもできない。いつ次の痛みが来るのかと身構える。
(クロさん…どこ…早く…戻ってきてよ…)
私は痛みの合間にそんなことを思った。痛みと同時にずんと下の方に衝撃が走る。
「子宮口五センチ、もう少しかかるな。でも着実に降りてきてる…」
統括に言われて私はどんな顔をしていいのか分からなくなった。痛い。刺されたときの痛みとは違う種類の痛みだ。重たい痛み。これが魂を生み出す痛みなのかと思う。ずんっずんっと外に向かって痛みと同時にシラタマが降りてくる。痛みの波の繰り返し。岸壁にぶつかる波濤のように繰り返し繰り返し押し寄せてくる。その痛みからは逃れられない。向き合って飲み込むしかない。
(クロさん…私…クロさんが戻って来ないけど…シラタマを産むよ?産んじゃうよ?)
その時私は急に生霊に奪われてしまったお腹にいた小さな命のことを思い出した。あの子も産んであげられたら良かったのに、そう思った。母親の自覚も何もないままにあの子は奪われてしまった。
「…っ!!」
「少し頭が見えてきた!もう少しだ!」
一瞬痛みが和らぐ。その間に私は呼吸を繰り返す。本当は息などしていないはずなのに生きていた頃の名残でそうしてしまう。必死で生きようとするように、吸ってしまう。これ以上ないという痛みの次に、熱い塊が外に出るのが分かった。
「力むな、まだ、身体が出ていない。そうだ肩が出る…よし!!」
苦しさから解放されてお腹の中から熱い塊が外に全て出るのが分かった。アァァとシラタマが大きな声を上げる。
「マソホ、お前がへその緒を切るんだ」
統括にハサミを渡される。手が震える。シロガネさんが少し手を添えてくれて、私はへその緒を切ろうとした。
「か、固い…!!」
もっと柔らかいかと思ったのに、それはプラスチックか太いゴムのような固さで力を入れないと切れなかった。ようやく切って私は脱力する。サギリさんがシラタマの身体を拭いている間に統括が何か私の方の処置をしてくれていたけれど、もう恥ずかしいとか色々なことを考える余裕もないほど疲れていた。そして同時に清々しいような不思議な気持ちがしていた。何か大きなことを一つやり遂げた充足感のようなものが私の心を満たしていた。
「マソホちゃん、おめでとう」
シロガネさんが頭を撫でてくれる。泣いているシラタマが渡される。
「ちょっと、シロガネは出てろ。初乳を与えてやった方がいい。大事なことだ。マソホ、できそうか?あー無理だよな。サギリ、女になれ。同性の方がいい。終わったら呼んでくれ」
統括はどこかいつもの胡散臭い口調よりもぶっきらぼうにサギリさんに言うと設営ブースを出て行ってしまう。サギリさんは小さなため息をつくと、私の目の前で女性の姿になった。
「私は、死神になったときは女性で…ベニとは友人でした。今は戦闘部隊所属なので、男の姿でいることが多くなりましたが…手伝いますね」
いつの間にかブラジャーを外されてサギリさんの細い指先に乳房をマッサージされていた。女性なのについ先ほどまでは男性だったからか、私はやはり恥ずかしくなる。泣いているシラタマの首を支えてサギリさんがシラタマの口に乳首を近づけると、目が開いてもいないのに口に含んで懸命に吸い始めた。こんな感覚は知らない、そう思った。小さいのにそこは確固たる意志がある力強さのようなものすら感じて、私は感動と驚きと共にシラタマを見つめていた。同時にこの子を育てることは出来ないのだということも私は理解していた。家族として暮らせる訳ではないのだ。出産をしたら輪廻の輪に入れて見送る、それが私の役割なのだった。嫌だ、別れたくない。そう思ったら涙が溢れて止まらなくなった。
「マソホさん…?今…統括を呼びます」
慌ててサギリさんが出てゆく。統括が入ってきて、シラタマに授乳しながら泣いている私を見てハッとしたような顔をした。




