糸を絡める
私は目を塞がれたまま近付いてくる足音を聞いていた。范さんの手は私の目を覆い反対の手はお腹に当てられていた。
「おや、珍しい取り合わせだ」
聞き覚えのある低い声は確かにハイアオさんのものだった。
「あなたこそ、ここに来るとは珍しい」
「クロガネの姿が見えたからね。向かいにいる子が違うからどうしたのかと思ったけど、今は君が預かっているんだね。ちょうど良かったよ。その子をちょっと貸してくれるかな」
「いいえ。あなたには貸しません」
范さんの腕に力がこもる。
「マソホ、おいで。シシュウは君を求めている…強い魂を…」
低い美声が甘く誘う。思わず答えそうになって口が開かないことに気付いた。ハイアオさんの声が毒のように私の脳に流れ込み思考を奪おうとしていた。
「あなたは、いつもそうだ。クロさんの近くにいる死神や研修生を盗む…シシュウやベニのときだって…私は忘れていないよ?クロさんが許したとしても私は許さない」
「…ありがとうございます…大丈夫ですよ。ちょうど話も終わったので私が再度マソホさんを繋ぎます」
近くでクロさんの声がして范さんの腕の中から私はクロさんの手に渡された。しっかりとクロさんは私を抱きしめる。私はクロさんの顔だけを見ていた。視界の横にハイアオさんが立っている気配は感じた。
「なるほど范さんの命令の縛りも…こういうときは役立ちますね」
クロさんの顔が近付いてきて私はまばたきもできずにクロさんの唇が重なるのを見ていた。再度繋ぐと言ったクロさんに私は身体ごと絡め取られた。赤い紐が両手に巻き付き腕も身体も全身が赤い紐だらけになる。その紐はクロさんにもかなり絡まっていた。特に緻密に編まれているのはお腹の部分だった。全て余すところなく覆われている。
「自分もろとも蜘蛛の糸を使うとはね…蟲を使役する呪禁師だけあって…なりふり構わずという訳か」
ハイアオさんが低く笑う。
「えぇ…シシュウは望んであなたの元へと去った。だから私は追わなかった。だが今あなたは、マソホさんの脳に無理矢理言葉を流し込んで従わせようとしましたね…それならば、私もそれなりの対応をせねばなりません…それにあなたが欲しいのはマソホさんではなくて、マソホさんのお腹の中にあるシラタマの入った子宮…シシュウが失ったものを補って元の姿に戻したいだけでしょう…だから最初はヤミカさんが欲しかった。けれどもヤミカさんは受精卵を摘出してしまった。そうなるとヤミカさんの一部で埋めたマソホさんの子宮に宿っているシラタマが次に浮上した…マソホさん、シシュウは…過去に私の姉だったことがあります…そして…シロガネさんの婚約者だった…私とシロガネさんの間にある繋がりは姉の…アカガネの存在…今はシシュウと呼ばれていますが…姉もまたヤミカさんやマソホさんと同じ状態で二人分の命を宿した直後に亡くなりました…」
私はクロさんの言葉をじっと聞いていた。
「アカガネは…我が姉ながら…考えの読めない人でした。直接手を下した訳ではありませんが…シロガネさんも私も彼女の裏限りによって命を奪われたに等しい…現世でもハイアオさんの子孫に私とシロガネさんを売り…死神になってもやはり…我々の在り方とは対立する…ハイアオさんはなぜシシュウの望みを叶えようとするのですか?ミアさんを実験台にしてまで」
「……やれやれ、クロガネは見えなくていいものまで見ているから困るよ。ミアを拾ったのはたまたまだったが、少しハランに嫌がらせをしてやろうと思っただけだったんだよ。ハランも子宮を取り出す前に逃げてしまったからね。ミアは過去に妊娠経験があったから使えるかと思ったが…貞操観念があまりに緩すぎてダメだった。だから誰でも受け入れる汚れた身体は犬に与えたのさ。ヤミカくらいに男嫌いがやはりちょうど良い。シロガネの気配にも触れているし、シシュウにはぴったりだった。でも君の言った通り受精卵を摘出してしまったから条件が合わなくなった…マソホも男性経験は少ないしシシュウの子宮には悪くないと思ったんだよ。君と私だってやっていることは大差ないだろう。むしろ君のリミッターを外してもっと呪禁師らしく冷酷になった君を見てみたいよ。早くランクを上げてこちら側に来てくれ。退屈で仕方ないんだ…」
クロさんはため息をついた。
「私が一つだけ恨んでいることがあるとするなら、死神になったベニの魂をあなたが勝手に輪廻転生の輪に入れてしまったことですよ…お陰で私はマソホさんと転生のタイミングが合わなくなってしまった…後悔から私は学びました。次に出会ったときには絶対に離さないと」
「えっ…!?」
私は思わずクロさんの顔を見上げたまま声を上げてしまった。クロさんは私の顔を見ると微笑んだ。
「あの…喫茶店で三人で寮をやっていたのって…シシュウさんのことじゃないんですか?」
クロさんは首を横に振った。
「シシュウは自由人ですから、気紛れに何事もなかったかのように遊びに来ることはありましたが、喫茶店にはいませんでしたよ。シロガネさんを騙して婚約したことが後ろめたかったのだと私は思いたいですが果たしてそんな気持ちがあったかどうか。一緒に寮をやっていたのはマソホさん…過去に第一階級にまでなった死神ベニ…あなたのことです」
私は今までてっきり不在の死神がどこかにいて、その人のことをクロさんが気にかけていると思い込んでいた。その不在の死神がまさか自分だとはまったく想像もしていなかった。
「私だったんですか…?」
クロさんは再び唇を重ねる。いつになく積極的だと思ったけれど、クロさんは私の瞳を覗き込んで抱きしめた手を決して離さなかった。後ろで范さんの笑う声が聞こえた。
「ハイアオ、二人を引き離すのは無理だよ。私だって少しは術を使えるからね。ペコの子宮はまだ幼くて使えないのは分かっているけど、クロさんと少しは関わった訳だし念のために私が守っておくよ。君は思い付きで時々とんでもない暴挙に出るから…ごめんね、ペコこれから私は君を少し利用させてもらう。君が大人になる年数が経ったら、その時は私が個人指導をする。今から予約をしておこう。私の魂が消えない限りは、君の初めてを奪うのは私だ。ハイアオには渡さない」
范さんはそう言うとペコくんの唇にキスをした。軽いキスではなかった。ペコくんは目を開いたまま硬直した。ペコくんは唇をわずかに開いたまま次第に赤くなる。范さんは微笑んでペコくんの頬を撫でながら長々と口付けをしてようやく唇を離した。
「マソホ、見えてますね?今見たことをクロさんに必ず報告して下さい。小学生相手に私は予約と言ってディープキスをした悪い死神です…」
「……君は私が点数を減らすのを阻止する気か?」
ハイアオさんのやや呆れたような言葉にクロさんが言った。
「あなたの点数はマソホさんのお腹を切り裂いたときにじゅうぶん下がっているでしょう…ま、でも私もツブシさんのお腹の蟲退治に許可のない蟲を使用しましたから…今回の一件は、あなたに挑発されたから蜘蛛の糸を使ってしまったということにしておきますよ。半々ずつの減点で手を打ちましょう…」
「そこ、何を見ている?統括に報告したい奴はするといい…捨てるほどに点数がない君たちにはまだ理解不能だろうね」
ハイアオさんが第三階級までの死神がヒソヒソとこちらの様子を窺っているのに気付いて鋭い顔付きで振り返る。見ていた死神は慌てて壁の陰に頭を引っ込めた。
「死神のランクの変動がある時期にはある意味これは恒例行事なんだよ。ごめんね、ペコ。大丈夫?」
范さんはぼんやりしたペコくんの顔を覗き込む。
「大丈夫に見えますか…?」
ペコくんは恨みがましい口調で言って范さんを見上げた。
「…見えないね」
「…責任…取って下さい…!僕、成人するまでにまだ八年もあるんですよ?点数を下げるなら…これからも僕を利用するって約束して下さい!」
「えっ?あ…あぁ…分かったよ。もしかして…キス…初めてだった?」
ペコくんは首を横に振る。
「でも…生きてたときの最初のは…気持ち悪いおっさんだったから…タバコ臭くて吐きそうになって…こんな風にはならなくて…」
ペコくんは言いかけて更に赤くなった。
「ふぅん。じゃ、確認にもう一回…してみる?」
断るかと思ったらペコくんは小さく頷いた。范さんは再び唇を重ねる。きっちりとしたスーツ姿の男性とティーシャツにデニムのスカートの少女がキスをしているのは妙に背徳的なのに、なぜか美しくも見えた。クロさんはやれやれと言った。
「范さんの方が…減点数は高いんですよ。未成年…しかも小学生に手を出すのは…相手が望んでもいけないことですからね。ペコさんも、本当に困った子ですね」
キスの途中で范さんは不意に唇を離して困ったような顔をした。
「まずいですね。誰かが報告してもう早速減点されたようです…ランクAから…第一階級に転落しました…これはまずいな。罪悪感が半端ない…いやはや…びっくりですね…小学生相手に…何をしているんだって話ですね…」
范さんは困惑したように、ペコくんの頭を撫でた。
「ペコ…約束は守るよ…。私は言葉で縛るし君の言葉にも縛られる…この先も私はこの途方もない罪悪感を抱えながら…君を利用して点数を削る…」
「やれやれ…ま、私も点数が減ったから良しとしようか…今日のところはこの辺で勘弁しておいてやるよ」
ハイアオさんはどこか疲れたように言うと踵を返す。ランクの低い死神たちはハイアオさんが通ると慌てて遠ざかった。不意に私はハイアオさんは孤独なのかもしれないと思った。ランクの低い死神は話しかけることもできずに遠巻きにしている。
「マソホさんすみません…この蜘蛛の糸はもうしばらく離れられないので…」
「えっ…?あ、ほんとだ…動けないですね…」
クロさんと私はその後もしばらく赤い紐に絡め取られたまま密着する羽目になった。




