命じる声
ビデオ上映の後に少し質問を受け付ける時間があり、個別に相談したい場合の窓口の場所と対応可能な時間帯が周知徹底された。
「最近はテキストに書いてあっても読み飛ばしてしまう研修生が多いので講座を開くようになったんですよ。何しろ前代未聞の波紋でしたから…」
「…そうなんですか?」
私はクロさんの手を借りて立ち上がる。ペコくんの姿を見てその変化に驚きの表情を浮かべる研修生が横を通った。
「ペコ…女の子だったの!?勘違いしててゴメン」
近くを通った青年の中の一人がペコくんに両手を合わせて謝罪する。隣の青年も明らかに驚いた表情をして足を止めた。
「別に気にしてないよ。それよりも、担当変わったからさ。中華屋なくなっちゃったから、そっちに来てももういないよ」
ペコくんはズルい顔をして私の腕に細い腕を絡めると頬を寄せた。
「クロ先生が担当になったからって、ちゃっかりマソホさんのことを紹介してもらおうとか、考えないでね?講義ちゃんと聞いてなかったの?それに、マソホさんのお腹にいるの…誰の子どもだと思ってるの?」
「ペコさん、こらこら、君は無駄にケンカを売ってはいけませんよ。マソホさんのお腹にいるのは、過去に私とマソホさんの魂を持つ伴侶との間に生まれるはずだった子どもの魂です…ですから、私とマソホさんの子どもと言っても差し支えありませんよ。ペコさんの言いたいことが分かりましたか?」
クロさんが後ろから私の肩に手を回す。どんな表情をしているのか私からは分からなかったけれど、目の前の青年は明らかに動揺して慌てて一礼をした。
「しっ…失礼します!!」
彼は逃げるように去ってゆく。隣の大人しそうな青年が一礼してその後を追った。後ろ姿を見送ってペコくんは小声で言った。
「シオミって…ちょっと危なっかしいんですよね。僕みたいに小さい子が恋愛対象なのかな。前から少し僕のストーカーみたいなとこがあって…でも、女の子って分かったからさすがにもう来ないかな?クロ先生、第一階級の特別区って…第四階級の死神が担当してる研修生だと来たりしますか?あ、一方的に喋ってた方じゃなくて、隣の物静かな研修生の方なんですけど…相談は第一階級以上の死神に…でしたよね?」
可愛らしい顔でクロさんを見上げたペコくんにクロさんは真面目な顔で思案した。
「ペコさん、そのストーカー行為について…具体的に教えてもらえますか?痛みの試練に向かう方は一時間後にまた迎えに来ますから。ミナミさんとミチくんはこの後も講義が入ってますね。マソホさんとペコさんは私と近くのカフェの方にいます。時間を合わせて皆で帰りましょう。では終わったらロビーに集合ということで」
クロさんはそう言いながらもノートを一枚切り取った紙に何かを書いていた。フッと息を吹きかけるとそれは蝶になってヒラヒラと飛んでゆく。感心した表情で蝶を見送ったペコくんは私に合わせてゆっくり歩きながら近くのカフェに入る。ここではよく研修生を待つ死神が時間を潰している。中に入ると奥の席にいた范さんがこちらを見て片手を上げた。そちらの席がなぜか空いていると思ったら、どうやら階級で利用できる席が違うようだった。反対側の席には複数の死神がテーブルを囲んで談笑していた。そこは第三階級までの死神の情報交換の場だった。彼らは入ってきたクロさんと私たちを見て、急に口をつぐんで頭を下げた。
「あの…私たち…入っても大丈夫なんですか?」
私とペコくんはパッと見て研修生らしき姿を探せずにクロさんを見上げる。クロさんは微笑んで頷いて明らかに複数死神のいる向こう側よりも座り心地の良さそうなソファーが並んだゆったりとした空間の方へと向かった。クロさんは范さんの隣の席に座る。
「やぁ、珍しいね。他の子を待ってるの?」
「えぇ…警戒は解かれましたが、何かあった際に自分がいなかったとなると後悔しそうですから…」
「クロさんらしいね…で?ここに来ると言うことは何かあまり聞かれたくない話?」
「ま、そうですね。何か注文しましょうか」
クロさんは言ってメニュー表を手に取って私とペコくんに渡してくれた。
「私はやっぱり珈琲はシロガネさんが淹れる方が好きだよ。ま、好みの問題かな。ランクAになっても食の好みには影響はしないらしい」
私がカフェインレスコーヒーを注文すると、ペコくんはソーダフロートを注文して少し照れたような顔をした。クロさんは微笑む。
「いいんですよ?好きなものを頼んで」
クロさんは自家焙煎珈琲を選んだようだった。やって来た店員に注文を告げた。
「珈琲の味の違いが分かるのか確認してみようと思いまして。味覚には影響しないということは、他には影響が出たと思っていいのですか?」
范さんは頷いた。
「ペコは…現世で見た目よりずっと中身が大人になってしまったから、この話をしても問題ないと思うから言うよ?指導の一環として誰を抱いても私は一切の罪悪感がなくなった。自分でもこれは結構重症だと思ったよ。私はヒサメのようにはどうやら割り切れないらしい…罪悪感は抱かないが、この感覚がまずいかもしれないということは頭のどこかでまだ理解しているんだ…この焦りがなくなるとどうなるのか…そこに至ると手遅れかもしれないと思ってね」
「…興味深い話をありがとうございます…」
「ペコの話を聞く間、私が君のマソホを繋いでおこう。共有しない方が今後も過ごしやすい話題もある。話したいことはペコが直接君に言うだろう。おいでマソホ」
私はクロさんの顔を見た。クロさんと私を繋ぐ赤い紐が見える。
「マソホさん、すみません。少しの間、范さんと一緒にいてくれますか?話が終わったら元に戻します」
私は少し不安になったけれど頷いた。クロさんは今ペコくんの担当でもある。私だけが独占していていい訳がないのも分かっていた。私は紐を手渡された范さんの向かいに座ろうとした。私の紐を預かった范さんは少しずるい表情をした。
「隣においで」
私は向かいに座ろうと思っていたにも関わらず范さんの隣に座ってしまう。私は訳が分からなくなった。クロさんが、一瞬眉をひそめたのが見えた。
「クロさんは、こういう力の使い方はしないの?ふぅん。命令されて従うのが心地よいタイプなのかと思ったけど、自分の意思で動いてるんだね。妊婦になってるのも…自分で決めたの?」
范さんは私のお腹に手を当てる。シラタマがまるで抗議するかのようにボンッとお腹の中を蹴った。范さんは笑い出す。
「おやおや、元気だね。怒ってるの?別に酷いことをしようとか思ってる訳じゃないよ」
飲み物を持ってきた店員はこちらのテーブルにカフェインレスコーヒーを置くと何事もなかったかのように去ってゆく。
「范さん、先ほどマソホさんは階級を下げるのに利用されたばかりですから、一日に二人は勘弁して下さい。私も笑ってはいられなくなります…」
私のお腹を撫でていた范さんは、クロさんの方を面白そうに見た。
「それは安心して大丈夫だよ。私はヨルを利用するから。ヨルだって私のこの姿を利用している。お互いさまな関係だからね…実際さっきも少しやってみたんだ。なかなかに興味深い結果だったよ。クロさんの言葉を借りるなら…」
(すみません、マソホさん…)
(大丈夫です)
私は心の中に聞こえたクロさんの声に返事をする。肩に范さんの手が回る。私は思わず硬直した。ペコくんとクロさんが何を話しているのかは聞こえなかった。
「クロさんと、どこまでしたの?さすがにキスくらいはしてもらったでしょ?」
范さんはお腹を撫でる。どういう訳かそれが不快ではない自分に私は驚いた。
「…嫌がってる相手にはこうやって本人も知らない間に懐柔してどんどん先に進むのがほとんどなんだよ。そんなに一人一人に丁寧に時間をかけてもいられないから。それが許されるのは特別区だけ。ある意味最悪な死に方をしたご褒美みたいなものだね…今なら私がキスしても嫌じゃないと思うよ?しないけどね。クロさんは怒らせると怖いから…おっと、動かないで。本当にまずいのが入ってきた。ハイアオだ…」
范さんは私の肩に回した腕に少し力を込めるとそのまま自分の身体の方に私の顔を向かせた。
「決してハイアオとは目を合わせず何を言われても口を開かない。目を合わせていいのはクロさんだけ。いいね?これは命令だ」
低い声で囁かれる。私はその言葉に頷いた。途端に本当に口が開かなくなる。范さんの大きな手が私の目を覆った。




