階級の狭間
ハランさんも仕事が入っていたようで、ミチくんの頭を撫でると出掛けて行った。ミチくんとペコくんが、アシシさんとメイゲツさんと並んで少し遠慮がちに何かを話している。私は下界に行くヤミカさんとフブキさんを見た。シロガネさんは全身黒の死神らしい薄手のロングコートにいつの間にか着替えていた。クロさんがシロガネさんの手に何かを渡す。
「念のために。万が一の際は使って下さい」
「あーありがと。んじゃ、行くか」
「待って待って!あたしも途中まで一緒に行くからさ」
ヒサメさんはアシシさんの頬にキスをすると手を振って去っていく。ツブシさんがぽかんとするとミランさんが笑った。
「あら、そんなに驚かなくてもいいじゃない。指導の一環よ。あなたの顔をした犬が波紋を追って狙っていたから、ランクAの死神が擬似的な恋人として個人指導をしたのよ。いずれはあなたもハランに抱かれるつもりでしょ?」
「えっ?そんなこと…お兄さんに面と向かって言われるとめっちゃ気まずい…です」
「お姉さんと呼んで欲しいわ。私はあなたの兄じゃないわよ。好き放題研修生を食い散らかしてたあなたにも、気まずいなんて感情はあったのね。食い散らかしは、むしろされた方が気まずいわよ?」
ミランさんはツブシさんの頭を撫でる。少し怖いと私が思っているところにクロさんとミナミさんが現れた。
「ゆっくり一緒に行きましょう、マソホさん!」
ミナミさんに呼ばれる。
「行ってきます!」
私が言うとミランさんとコウギョクさんが行ってらっしゃいと言いながら手を振る。けれどもツブシさんのどこか助けを求めるような目を見て私は思わず言ってしまった。
「あの…ミランさん、ツブシさんへの風当たりが何だか強いように思うのですが…」
「あらマソホちゃん、あなたも懲りずに第一階級の死神にも意見するのね。私はハイアオじゃないからお腹を切り裂いたりはしないけれど、気をつけて」
立ち上がったミランさんの顔が近付いてきて、避ける間もなく唇にミランさんの唇が重なっていた。唇をこじ開けられてミランさんの歯が私の舌を噛む。まずい。口の中に血の味が広がる。
「ミランさん、やり過ぎです…」
クロさんの腕が動けない私の身体を引き寄せる。一瞬舌を噛み切られるかと本気で慌てた。ミランさんは、フフッと笑う。私は笑えなかった。口の端から血が流れる。指で拭うとツブシさんは完全に青ざめて硬直していた。クロさんは少し怒ったような顔をすると私のあごを捉えて口付けをする。クロさんにまで強引に舌を入れられて私は頭の中が真っ白になってしまった。何が何だか分からない間に血は止まっていた。ミランさんは微笑んだ。
「随分と可愛らしい舌ね。ちょっと力加減を間違えたら食べてしまいそうだわ。私はね、マソホちゃんみたいな子、嫌いじゃないのよ。クロガネちゃんの伴侶じゃなかったら、その血塗れな魂を抱きしめてぐずぐずに甘やかしたいくらいには好きよ。一生私から離れられなくなるくらいに頭のてっぺんから爪先まで快楽を教え込んであげたいわ。クロガネちゃんも早く抱いてしまえばいいのに、どうして擬似的出産の方から始めちゃうのよ、ほんとあなたって変わってるわよね。遠回りしていたら私が奪っちゃうわよ?悪魔は妊婦も好きだもの。奪われないようにね」
「マソホさんは私の伴侶ですから止めて下さい…ミランさん、ところでその手に持っているのは何ですか?」
「あら、バレちゃった?」
ミランさんはずるい顔をして手紙を開く。中にはランクAに昇格と書かれていた。
「あーん、残念だわ。せっかくの昇格のチャンスだったのに、私ったらうっかり…クロガネちゃんの研修生にいたずらをしちゃったじゃないの。あまりにも可愛いマソホちゃんが私を怒らせるから悪いのよ?でもこれって罰則対象よねぇ…私ったらやっちゃったわ…」
ミランさんはわざとらしく残念残念と言った。クロさんは呆れ返ったような顔をする。
「…そんなに統括に報告して欲しいんですか?」
「だって、仮にもあなたの大事なマソホちゃんに手を出しちゃったんだもの…きっちりと報告してちょうだい…」
「…分かりました…では、私が同じものを貰った場合も…よろしくお願いしますよ…」
「任せてちょうだい。ごめんなさいね、マソホちゃん、行ってらっしゃい!」
私とミナミさんとクロさんは喫茶店から外に出る。窓の中にはそれでも不安そうなツブシさんの顔が見えた。ゆっくり歩き始めた私はクロさんの顔を見上げる。
「あの…さっきのは…何だったんですか?と聞いても…いいですか?」
私の言葉に隣をゆっくりと歩いていたクロさんは私を見下ろすと頭を撫でた。
「ミナミさんも驚いたでしょう…先ほどのは茶番です。それにしてはかなり強引なことをしてしまいましたが…後でマソホさんにはそのお詫びをしますから許して下さい…我々はランクAにならないように…時折こうしてわざと罰則の対象となり…死神の点数を下げているのですよ…」
「あ…クロさんが謹慎処分になったのって…」
私が言うとクロさんは頷いた。
「姿形を変えて行けば気付かなかったでしょうね。ですが…私はあえてそのままの姿で下界を訪れました。私はそれで点数が下がったので第一階級に留まっています。ミランさんも第一階級に留まるつもりなんですよ。擬似的出産を体験しようとしている他の死神が担当している研修生にあのような行為を行うと…実はかなり点数が減点されます…ですから、ミランさんは…マソホさんを利用しました…シロガネさんも手段は違えどやっている…彼は時折現世の人間に会いに行っています…生前の知り合いの呪禁師に…」
クロさんの言葉になぜか私は背筋が寒くなるような感覚に陥る。現世にも呪禁師は存在する。
「我々はランクAになると今よりも人らしい感情とは無縁になります。ヒサメさんのように望んでそうなる死神ももちろんいますが、ハランさんは少し揺れている…もっと激情を取り戻したいと時折思っているようです…そして私も捨てたくはない…捨てることで悪魔を倒せる力を得ることは出来ても…死せる魂の心に寄り添うことが難しくなる…そのどちらもギリギリこなせるのが…第一階級とランクAの狭間なんですよ…」
「私…単純に…階級を上げればいいんだって思ってました…」
ミナミさんがぽつりと言う。私も頷いた。
「ランクAになると…自分の記憶ですら…どこか第三者の目を通して見ているような…そんな他人事になるそうですよ。ですから感情ではなく、刹那的な感覚に走る死神が多い…悪魔を屠る感覚、誰かと快楽を共にする感覚…だから率先して戦えるし、相手の葛藤をあっさりと乗り越えて本能的な衝動に身を任せることができる…」
そんな話をしているうちに私たちは養成講座の会場に到着した。講座を受講するのに名前にチェックを入れようとしていると、ヨルさんと范さんがやってきた。
「おはようございます」
クロさんは爽やかに挨拶をする。范さんも微笑んで挨拶を返した。ヨルさんはどこか気まずそうな顔で私とミナミさんを見る。確かに昼間にこの元担任に似ているという范さんに連れて行かれて、明らかにどこか吹っ切れた様子で現れたヨルさんを見ると、何もなかったとは言えるはずもなかった。
「…私はそちらのカフェで待っていますから、終わる時間にまた迎えに来ます。午後からも誰かと約束してはいけませんよ。いいですね?」
ヨルさんの頭をポンポンと撫でると范さんは建物から出てゆく。入り口にいる死神はクロさんの顔を見るとハッとした表情になり、それからおどおどと目を逸らせた。
「おはようございます、セキリュウさん」
私は名前だけ以前に聞いていた死神がこの男性だったのだと、ようやく分かった。セキリュウさんは四十代くらいの薄幸そうな顔付きをした男性だった。全体的に細く覇気もない。
「お、おはようございます、クロガネさん…。今日はビデオ上映ですので…ご安心を」
「そうですか。分かりました。後でレポートを提出する形式でしょうか」
「いえ…アンケートと感想に変わりました…最近は文章が思いつかないという若者も多いものですから…」
「そうですか。四百字詰めの原稿用紙が懐かしいですね…我々とは世代が違います」
クロさんは差し障りのない会話をして会場へと入る。先に到着していたメイゲツさんが片手を上げてこちらに手を振った。近くの席にいた研修生たちが振り返り、私とクロさんを見るのが分かった。ざわざわと声が広がり、まるで波紋のようだと私は思った。擬似的出産って、ほんとにやる人いるんだ、とどこかで声が聞こえた。メイゲツさんの前の席が空いていたのでミナミさん、クロさん、私の順に座る。私は通路側にした。ここなら何かあってもすぐに退席できる。ヨルさんはアシシさんの隣に座った。
「マソホさん、気分が悪くなったらすぐに教えて下さいね。大丈夫です。いざとなれば元産婦人科医の私が取り上げますから、安心して下さい」
小声でクロさんに言われて、私は指導官の死神が産婦人科医である確率はかなり低いのではないかと思った。確かにこの安心感はとても心強かった。たとえ急にお腹が痛くなったりしてもクロさんが近くにいるならきっと大丈夫だと思えた。やがて、ビデオ上映が始まる。内容はツブシさんの件があったからか、研修生同士の交際及び指導官の階級における指導内容の具体例だった。




