犬
ツブシはいつの間にか眠っていた。夢の中、ひたひたと近付いてくる足音が聞こえる。
(つーぶーしー、あーそーぼ!)
無邪気に笑いながらミアの顔をした青年が近付いてきた。
(いや、もう遊ばない)
ツブシが睨むと、ミアの顔をした犬は首を傾げた。
(誰に何を吹き込まれたのか知らないけど、ツブシと遊んであげられるのは僕だけだよ?)
犬は二足歩行で近付いてくる。元々歩いていたのは自分の方なのに今、地面に這いつくばっている自分よりもよほど犬の方が人間らしい。皮肉だとツブシは思った。犬に少しずつ奪われた。気付けなかった。快楽に流された弱い自分のせいだ。
(来ないで!遊ばないって言ってるでしょ!)
けれども犬はスタスタとやってきてツブシの後ろに回ると抱きしめる。硬いものが下半身に押しつけられる。ツブシはゾッとした。
(ね、本当は遊びたいよね?今の君は頭の悪い雌犬なんだから…ね?)
(助けて!!ハランさん!!)
シロガネかクロの名前を叫ぼうとしたのに、なぜかツブシの口をついて出たのはハランの名前だった。あの人はこんな時間に起きてはいない、そう思ったのに、その人は鎌を持って黒いシンプルなパジャマ姿で現れた。昼間のように眼鏡もしていないし髪をきっちり結んでもいない。一瞬ハランではない別人かと思ったが本人だった。ハランは犬に後ろから抱きしめられたツブシを見て怒りの表情になる。
(ツブシを離せ!!)
ハランが空間で鎌を振っただけで犬は慌ててツブシから離れるとどこかへ去っていった。
(大丈夫か?こんなになって…やっと呼んだか。強情だな…まったく…)
言いながらもパジャマ姿のハランはツブシを抱きしめた。ツブシはその身体にすがって心の中で謝罪した。
(言うことを聞かなくてごめんなさい…もう一度…やり直したい…ハイアオは…怖い死神だった…)
(分かったならいい。私も昔、のこのことハイアオについて行って逃げ出してきたんだ…)
(え…?ハランさんが?)
(ツブシは三人目だ。ハイアオのところから逃げ出してきた…正直なところ…無理かと思っていた…)
(自分でも…ダメかと思ってた…でも…ハイアオに口答えした研修生のことを思い出して…少し勇気をもらったっていうか…あの…それで…ハランさんって…女性じゃ…ないんですか?)
目の前の人物にはどう見ても昼間見た胸は存在せず平らだった。こうして抱きとめられると腕の力強さも男性のようだった。
(……そうだな。イエスともノーとも言える。基本的に私は担当する研修生と性別を同じに変える。ツブシは特に危険な香りがしたから…)
(危険な香り…?私が?)
(男を惑わす香りだよ。現世の残り香だ…それと…君の遺体の一部が…ようやく発見されたよ…)
(そう…ですか…一部…残りはあんまり…出てこないかも…犬の餌にでも…なってるんじゃないかな…)
ツブシは小さくため息をついた。ツブシを捕らえた相手は自称ファンのブリーダーだった。家には犬がたくさんいた。死体はバラバラに解体された。
(そんな顔をするな。私が困る)
ハランはそう言うとツブシの頭を撫でた。
(舌は…どうした?)
(私が欲望に弱いから…犬が来なくなってから…生やすって…クロさんが)
(そうか…戻してやろうか?今夜はもう犬は来ない。喋れないのも不便だろう…クロさんは厳しいからな…待ってろ、今そっちに行く。目を覚ませ、ツブシ)
「……!!」
唐突に目が覚める。ツブシは思わず枕元のボタンを押した。すぐにドアが開く。
「大丈夫か?今、クロさんはちょっと手が離せなくてね。コウギョクの介抱をしてて…」
部屋に入ってきたのはシロガネだった。ツブシは頷いた。
(ハランさんを…思わず…呼んでしまって…)
「そうか。なら大丈夫だな。あぁ…ハランが来たよ。今ハランはちびの相手をしてるから姿がだいぶ違うけど…」
階段を登ってくる足音がしてドアがノックされた。入ってきた若い男性は背中に小柄な少年を背負っていた。夢で見た姿とも違っていてツブシは誰だか分からなかった。一番最初に会った神経質そうな女性とも似ていない。人当たりの良さそうな、まるで若い父親のような顔をしていた。
「ハランだよ。悪魔の襲撃で死神を失った子を預かってるから…いいよ、しばらく俺が寝かしておく。今夜はツブシに付き合ってやりな。クロさんと違って俺らは甘いからな…これはクロさんから」
渡された鍵を見てハランは妙な顔をする。
「貞操帯の鍵」
「は…!?クロさんも…まったく…とんでもないことをするな」
「ついでに腹には一匹蟲を入れてるって。今もハイアオの飲ませた蟲を駆除してる最中だから、キス以上のことをしたら責任は取れない、と言ってたよ。下半身の接触は危ないらしい」
「なんてことを言うんだ…来て早々にそこまでする訳がないだろう…」
ハランは額に手を当てる。
「どうかな?ツブシは危ないよ?少なくとも第二階級の死神にまで波紋を広げたのは初だ。下半身の異形化…ま、ハランはその点何をしようがランクAだから問題ないけど」
ハランの背中から少年を抱きとめたシロガネはツブシの方を見て微笑むと去ってゆく。無駄に色気のある死神だと思って、自分の前ではかなり枯れた白髪混じりのおじさんだったことを思い出す。ドアが閉まるとハランは気まずそうに咳払いをした。目の前で姿が変わる。夢で見た少し髪の長めの男性の姿に変わる。
(ハランさん…いくつ姿を持ってるんですか?)
ツブシが心の中で尋ねるとハランは近付いてきてツブシのベットの横にある椅子に座った。
「私は相手の望みに少し近い姿に変えられる…ツブシは…危ない男に惹かれる傾向が強いから…それに舌を戻さないと使い方も忘れてしまうよ。だから戻す…」
ハランの顔が近付いてきてそっと唇が重なった。ツブシはすぐに唇を開いてしまう。口の中にハランの舌を感じると思った次の瞬間に、ツブシの口の中に失った舌が現れた。血の味がする。ハランは口付けを止めず、しばらくの間ツブシはハランに合わせて大人のキスを味わった。
「どうやって犬の舌を奪ってきたか聞きたいか?」
「え…?奪った…?」
「あぁ。あの子を背負ったまま、犬を捕まえて強引に口付けをして噛み切ってきた。これはツブシの舌だからな。まさか小さい子を背負った優しそうなお父さんみたいな死神がそんな暴挙に出るとは思っていなかったんだろうな。こんな時間に外にいたら危ないよと声をかけたらこちらを獲物にしようと近付いてきたから、奪い返してやった。もうこれで犬は喋れない」
フッとハランは人の悪そうな笑みを浮かべた。こんな表情をすると本当に悪い男のようだと思う。
「私は悪い死神だよ?ランクAともなると、どこかしら人の基準からは逸脱した行為も平気で行えるようになる。現に私はどちらの姿にも変わってどちらでも抱けるし抱かれることだってできる。ツブシが望むなら、その腹の蟲の駆除が終わったら好きなだけその満たされない欲望を満たしてやることだってできる…」
ハランの手のひらがツブシのお腹の上を撫でるのが分かった。ただ撫でただけなのに、耳元に囁かれた言葉のせいでツブシは背筋がゾクリとなった。
「あ…しゃべれ…る…」
「久々に人の言葉を話した感想は?」
「ありがとう…ございます…舌…取り戻してくれて…」
ツブシの言葉にハランは頭を撫でると言った。
「舌がないとキスしても物足りないからな。ハイアオのところで十分試練は与えられたから、私はそろそろ甘やかしてもいいと思っているし、私の名前を呼んだ時点で、もうこうしようと決めていたんだ。君もやっと現世で弔ってもらえる…君の死を…大勢のファンが悲しんでいる…素顔の君がどんなだったかも知らずに。でもそれがアイドルだ。アイドルの元々の意味は偶像…ファンは君の素顔など知らなくていい…弱いようで強かなその素顔を暴くのは私のみだ…本性をさらけ出してこの腕の中においで。その代わり…二度と逃げることは許さない…」
見上げるハランは男の顔をしている。ツブシは本当に怖いのはハイアオではなくハランの方だと思った。今度こそ本当に逃げられない。ツブシの大好きな悪い男。ツブシは両腕を広げてハランに抱きついた。ハランも抱き返すと再び唇を重ねる。久々に戻ってきた舌で懸命に相手を求めながらツブシは、自分を甘やかすハランの腕の中で涙を流した。




