懇願
その場の凍りついた空気を破壊したのはコウくんの盛大なくしゃみだった。
「…ックション!!…あ…すみません!」
コウくんは言ってシロガネさんの差し出したティッシュを取ると盛大に鼻をかんだ。
「ミランさん、ヒサメさんにはヒサメさんのやり方があるんです。ミランさんの悲しみはミランさんだけのものだし、何でもかんでも同じである必要はないって俺は思ってます…」
ヒサメさんは意外なものを見つけたかのような顔付きでコウくんを見つめる。そしてヒサメさんはフッとコウくんから目を逸らした。
「ありがと…コウ…そして…ごめんな」
ヒサメさんは苦しそうにそう言った。ヒサメさんのごめんの言葉に全てが込められている気がした。ヒサメさんは本当は何もかもを知ってしまっているのかもしれないとすら私は思った。
少し張り詰めていた空気の緊張が溶けたそのとき、外から動物の鳴き声のようなものが聞こえた。とオゥオゥと人にも犬にも似た不気味な声が響く。
「あたしが外に出る。ミランさんはドアの前を守って」
「分かったわ」
さっきまで一触即発の雰囲気だった二人はすぐに死神の表情に戻る。ミランさんはスッと美しい所作で細身の鎌を取り出した。ヒサメさんの鎌よりも女性的で美しい作りだったが、ミランさんは眉を上げて誰かに向かって声を張り上げた。
「今、オカマが鎌を持ってるって駄洒落かよって思ったの誰よ!!」
「ミランさんさぁ…それ、被害妄想だよ」
そう言い残してヒサメさんはドアを開けて外に出ると素早く後ろ手に閉めた。
***
外に出たヒサメは喫茶店から漏れる優しいオレンジの光の中にその生き物を見つけた。無様に地面に這いつくばり、鳴き声を上げているのは裸の少女だった。少女は巨大な鎌を持ったヒサメを見ると怯えた表情を浮かべて暗闇に走り去ろうとした。
「待て!ミアか?…ツブシ!?戻っておいで!」
ヒサメは闇に向かって叫ぶ。捕まえ損ねたかと思ったが、しばらく待つと四つん這いのまま再び少女が姿を現した。首には鎖が垂れ下がり無理矢理引きちぎってきたのか首輪の辺りから血が流れていた。口の周りも血だらけだった。
「人に…戻りたいか?戻りたいならこっちにおいで。助けてやる。あたしは、あいつとは違うよ?」
ヒサメが片手を差し出すとツブシは恐る恐る近寄ってきた。半分犬のようになった顔をこすりつけて、ツブシはヒサメの腕の中に抱きかかえられる。
「私の犬を返してもらおうか?」
暗闇からハイアオが姿を現した。後ろから素早くドアが開いてミランが飛び出てくる。ハイアオは一瞬そちらに気を取られた。その隙に間からシロガネの手が伸びてツブシの身体を店内に引き込んだ。
「ここはもう第一階級特別区のシロガネの領域だ。俺が触れたから今からツブシは俺のものだ」
「…やれやれ、甘いことだな…もっと躾けて腹の底まで犬畜生に変えてやろうと思ったが…まぁいい。また次を探すとするか。君の店には面白い魂が揃っているようだ…せいぜい足を引かれないように気をつけろと皆に言っておくことだ。ヒサメも…一匹狼だと思っていたのに、こんなところに出入りするとは…意外だよ」
「おーなんか楽しそうなことやってんなぁ、ハイアオ、ちょっと先に帰っててよ。僕は久々に飲みたい気分なんだ」
闇の中からクチナワが現れた。ミランは途端に嫌そうな顔をする。
「ちょっとなんであんたまでここに来るのよ!!このヘビ野郎!!」
「おー?ミランじゃん。相変わらずブサイクだなぁ。調子どう?」
「……クチナワ…お前、ふざけているのか?帰るぞ」
「だから、僕は飲みたいんだって。入るよーわぁたくさんいるなぁ、繁盛してるねシロガネ」
クチナワは本当に店に入るとドアを閉めてしまった。
「あいつはどっちの味方なんだ?」
ヒサメが呆れたように言う。
「…ったく、自由な奴だよ…手に負えない」
同じく呆れたように言ってハイアオは背を向ける。
「なに、帰っちゃうの?一戦やんない訳?」
ヒサメが鎌を振ると、ハイアオはチラリと振り返って言った。
「君とは違うところで鎌を手放して一戦願いたいね。鎌を持ったオカマと交わる趣味は元よりないから、今日のところは帰るよ」
「ちょっとなんですって!!聞き捨てならないわね!!」
ハイアオの消えた闇に向かってミランは怒声を上げた。
***
ツブシは闇の中を彷徨うような気持ちで日々を過ごしていた。逆らわなければハイアオは酷いことはしない。ミミズのような半透明の赤い生き物を食べさせられるのにも慣れた。従順にしていれば時々撫でてもらえる。でも。あのとき担当だった死神に山ほどケーキを買わせてほとんど残したことを悔やんだ。もっと味わって大事に食べれば良かった。それなのに今となっては生臭いミミズを食べるのがツブシの日常だ。どこで何を間違えたのだろう。不意にそのとき誰かの声が過った。
(どうして…平気でミアさんの魂を…食べるんですか?)
そうだ私はミアだった、なのに名前も奪われた、そう思った。ハイアオに口答えをしたから、その人は鎌を刺された。でも冷静に血を流さずにミアの知らない綺麗な赤い花を咲かせていた。ミアはそんなやり方すら分からない。講座を適当に聞き流していたからだ。うまいことやっている風を装っていればなんとかなる、そう思っていた。ちやほやされるのがミアの仕事で可愛いだけで死神だってどうにでもなると思っていた。
(ダメだ…適当にごまかしてるだけじゃ…ずっと…犬のままなんだ…)
ツブシはその日から懸命に鎖を引っぱり始めた。ハイアオの目を盗んで毎日毎日繰り返す。そしてついにその日は訪れた。鎖の一部が開いて外れた。
ツブシは外へと駆け出した。闇雲に走っているようで、ツブシにはそこに何となくツブシが知っている気配がたくさん集まっているように感じていた。冷たく仄暗い場所からツブシはその明かりを目指してひたすらに走った。
(ごめんなさい、ごめんなさい!誰か助けて!!お願い!!)
叫んだはずだったのに、オゥオゥと声が出ただけだった。視界に明かりが揺れる。目の前に死神が立っていて巨大な鎌が見えた。ツブシは慌てて逃げようとする。女性の声が聞こえた。
「待て!ミアか?…ツブシ!?戻っておいで!」
ツブシは足を止める。
「人に…戻りたいか?戻りたいならこっちにおいで。助けてやる。あたしは、あいつとは違うよ?」
助けてやる。ツブシはその言葉を待っていた。心のそこから待ちわびていた。
(助けて!!お願い、ハイアオのところには帰りたくない!!)
背後でドアの開く音がして、力強い腕にツブシは引き込まれ抱きしめられる。
「ここはもう第一階級特別区のシロガネの領域だ。俺が触れたからツブシは俺のものだ」
誰かが上着をかけて身体を覆ってくれた。抱きとめた相手は優しい目をして笑う。
「…結局、ここに帰ってきたか。これに懲りたらもうちょっと真面目にやれよ?それにしたって素っ裸で走ってくるとは…お前、着飾るのが好きだったのにそれも忘れたのか?」
そう言いながらシロガネは首輪を外した。彼とよく一緒にいる死神がミアを抱き上げると二階へ連れてゆく。ツブシはベッドに寝かせられる。身体が急に軽くなってお風呂上がりのようなさっぱりとした感覚に包まれた。彼はツブシの首に手を当てる。あちこちに軟膏のような物を塗られた。
「ツブシさん、犬に何度体を許しましたか?話せないなら頷いて下さい」
ドキリとした。目の前の相手はシロガネのように笑ってはいなかった。なぜそれを知っているのかと思う。ミアと呼ばれるようになった犬はすでに人の姿をしていた。ツブシは欲望に負けてハイアオの見ている前で何度かそれを行った。
「大事なことです。正直に頷いて。一回、二回…三回?」
三回でようやくツブシは頷いた。彼は厳しい顔をして言った。
「…これから恐らく夢の中にも犬が来ます…夢の中だからといって許してはいけません。戦って下さい。いいですね?私は死神の他に産婦人科医も兼任していた時期があります。そのときあなたのようになった患者を診たことがあります。本来時間外労働はしない主義ですが、そうも言ってはいられないので今から仕事をします」
彼はそう言うとゴム手袋をはめた。何をされるのかと思う。彼は注射器を見せた。中で何かが動いていた。
「彼に対抗できるのは同じ系統の呪禁師の私だけです。これは私の使役する蟲です。あなたが飲まされたミミズ…それもまた蟲ですが…これを駆除します」
消毒されたお腹の辺りに針を刺される。想像以上に痛くてツブシは小さなうめき声を上げた。ゆっくりと体内に薬液が全て入るまでにツブシは涙を流していた。インフルエンザの注射の方がマシだと思った。彼はそれが終わるとツブシの下半身を金属製のベルトのような形の物で覆ってしまった。冷たい感覚にビクリとする。
「視覚効果と心理効果もあります。これは貞操帯です。あなたは犬が来てもこれを外せない。鍵は私が預かります」
彼は鎖のついた鍵を首から下げる。そうしてそっとツブシに布団をかけた。
「犬が来なくなったら舌を元通りにします。舌を戻してしまってはキスしてしまうかもしれない。あなたは意思が弱いからすぐに快楽に流される。口枷はつけません。あなたにキスされただけで、アシシさんは舌を噛み切りそうになり、胸を触ったヨルさんは手が異形化した。それ以上の関係になったキリさんは手足を全て失って今も入院し、カサイさんは片手は元に戻ったが他はまだ異形化したままで口枷も外せない…複数名と関係を持った後にあなたがハイアオに囚われて受けた仕打ちの一部を四人が引き受けたから、あなたは形を失わずにまだかろうじて人の理性を残していられたとも言えます。あなただけが悪いと言っている訳ではありません。あなたの誘いに乗った男性も悪い。けれども、もう少しあなたが、真面目に受講していたら波紋が何かを理解し軽率な行いをする前に考えることはできたはずです」
ツブシは優しそうな顔をしたこの男性が全く優しくなどないことに気付いた。言うことが厳しい。けれども真面目に受講していなかったのは本当だから、叱られても仕方ないと思った。
「複数名と同時進行で関係を持つことは、その道のプロの死神でも禁止されています。あなたはハイアオに抱かれようと思ったのですか?ハイアオにはシシュウがいる…恐らく見せつけられたのでしょうね。ハイアオはそういう死神です。弱い魂を見つけては間引く…それもまた彼の一面です。彼に自ら身体を差し出して喰われることを望む魂も時折います。私には到底理解できませんが、あなたがそうならずに逃げてきたということは、自分自身を取り戻したいという意思が残っていた…とりあえず試練は終わりました。自分のこれまでの行いをしばらく反省して下さい、分かりましたね。その履歴は魂に残る…消すことはできないのですよ?」
(はい、分かりました…ごめんなさい)
以前はそんな言葉は上辺だけだった。今回は違った。心底懲りた。ミミズは二度と嫌だ。
「なるほど。ミミズを食べさせられたのがそれほど屈辱でしたか?私の担当する研修生のマソホさんはお腹に一時期蛇の形をしていた魂が入ってますよ。蛇は胎児になって順調に育ちもうじき出産を迎えます。あなたも出産の体験をしてみてはいかがですか?ちなみにこれは男性でも経験できます。私は産科医ですから体験しました。どのくらいの痛みなのか具体的に説明できた方がいいですからね」
ツブシは目の前の男性をとても奇妙な物を見るような目で見てしまった。彼は微笑む。
「誰かを呼びたいときは、このボタンを押して下さい。いいですか?夢の中でも助けが必要でしたら呼んでも構いません。私はクロです。シロガネさんが良ければ彼の名でもいいです。その代わり、自分で最初は耐えて下さい。それでも無理なら呼ぶ。最初から頼ってはいけません。でも無理なのに誰も呼ばずに犬を受け入れるのが一番悪い夢になります。夢の中でもあなたは記憶を奪われる。自分が誰だったか、どうして亡くなったのか。自我を保てなくなれば魂はバラバラに崩れて消えてしまいます」
(分かりました…ありがとう…ございます)
ツブシは心の中で告げる。クロと名乗った真面目そうな死神は静かに部屋から出て行った。




