仮初めの幸福
私は上げた手でクロさんがコウくんを殴るかと思った。けれどもクロさんが手を上げただけで大きなコウくんは身を竦ませて頭を庇う素振りをした。クロさんはそのまま両手を開いてコウくんを抱きしめた。コウくんは最初は暴れようとした。けれどもクロさんは諦めず、コウくんを抱きしめたまま耳元で囁いた。
「昨日…ペコくんとコウくんの記録を引き継いで閲覧したから…見えなかったものが見えたんです。私は君の本当の姿が見たかった。君が急に死神養成講座に来なくなった時期に…私は何度かヤミハラさんの中華屋に行きました。でも営業していなかった。最初はヒサメさんが第一階級になったせいなのかと思っていました。でも違ったんですね。そのときすでに他の死神に見られると非常にまずいことが起こっていた…違いますか?当時はまだペコくんもスズさんもいなくて、あの店にいたのは君だけだった…」
コウくんは振り払おうとしばらく無駄な抵抗を続けていたが、やがて敵わないと分かったのかクロさんの腕の中で沈黙した。
「君の最終的な死因は餓死ですが、それ以前にあらゆる虐待もあった。ササメさんは君のトラウマを利用することを思いついたのでしょう。確かにいずれはそのプロセスを経て恐怖を克服することになります。ですがあくまでそれは魂が生きていて成人を迎える年数になってから始まるんです。君の受講記録を見ていたら不自然に受講していない講座があることに気付きました。例えば自身の恐怖に打ち勝つ方法。第六階級になって年齢が達していれば始まる個人指導に関する情報を含む講座に限って君は欠席し続けている…」
コウくんの肩がビクリと震える。コウくんは沈黙した。話す気がないのかと思った頃に、コウくんはようやく重い口を開いた。
「…ササメさんに…俺は早い時期から特別な個人指導を受けてるから…受講する必要はないって言われたんだ…最初は…信じてた…」
クロさんは自分と大差ない身長のコウくんの頭を撫でた。コウくんは諦めたのか受け入れたのか、もうされるがままになっていた。
「君が受けるべきだった最初の指導は…暴力に耐えることでも無理矢理夫にされてそれを楽しいと思い込むことでもなかったんです…ただ…こうして頭を撫でてくれる大人の腕に甘えられるようになること…本来の正しい指導は…これが始まりです…」
「ササメの…嘘つき…全然違うじゃん…」
コウくんは小声でつぶやいた。姿が揺らめいてコウくんは先ほどの華奢な少年に戻ってしまった。
「俺…悪魔が…あの店をぶっ潰したとき…心のどこかで…当然の報いだ…天罰だって…思っちゃったんだ…スズは…可哀想だったけど…やっと解放されるって…心のどこかで期待した…鎌を振るう気になれば…なれたかもしれないのに…しなかった…自分も悪魔に食われて消えてしまえたらそれで良かったんだ…なのに…ヤミハラのやつ…何なんだよ。いつもササメに怯えてたくせに…鎌なんか振るえないくせに…俺なんか助けて…バカみたいだ…」
「…ヤミハラなりの…贖罪だったんだろうな。あいつがあんな体型になったのだって…どうにかして男としてはササメに嫌われようとしてたんだろうなって、今となっちゃ分かるよ…」
シロガネさんがため息をつく。
「コウ…お前さ、ちゃんと養成講座、全部受けろ。そして這い上がって来いよ。第一階級になっちまえば、それこそ誰と何をしようが文句言われなくなるんだよ。案外ぶちギレてるし、その怒りも死神には必要なんだ。俺やクロさんみたいに美人といちゃいちゃしても後ろ指差されないくらいに強くなれよ。それこそ、ヒサメみたいな個人指導に特化した仕事も案外こなせるかもしれないな。断然楽しそうに死神ライフ満喫してるだろ?ヒサメはさ。そうなりたくないか?」
「シロガネさん…もう少し指導官らしい言い方で説明して下さいよ…何がいちゃいちゃですか。口で言うほど浮ついてないくせに。あとコウくん…見た目だけで私やマソホやミナミに手を出そうとしたら、波紋よりも怖い悪夢を覗き込む羽目になると思うよ?気をつけて」
ヤミカさんの言葉に私はおや?と思う。いつもと様子が違う。シロガネさんは苦笑した。
「あーとりあえず、なんであの場所に綻びが生じたかは分かっちゃったな…クロさんは妊婦健診の付き添いだったよね、じゃあ俺がコウのことは統括んとこに連れてくよ。フブキとミナミちゃんの受講の付き添いがてら。ついでにアシシが来るかどうか賭けない?俺は来ない方に賭ける」
「…私も来ないと思いますが、じゃあ来る方に賭けるしかないじゃないですか。で?何を賭けるんですか?」
クロさんにしては珍しく賭けに乗ったと、私は思った。こんなときに何を言ってるんですか、くらい言うと思っていた。
「うん?これ」
シロガネさんは見慣れない年季の入ったボトルの酒を出してカウンターの上に置く。
「負けた方がこれを飲む」
「毎回…悪趣味ですね…不味くて悪酔いする強烈なやつじゃないですか…」
「他に賭けに参加する奴いる?」
「はい!では、来ない方に」
メイゲツさんがどこか興味津々といった様子で挙手をする。
「じゃあ、来る方に!」
慌ててフブキさんが言った。
「ヒサメさん相手なら起きられないんじゃない?来ない方に賭ける」
コウくんまでが言う。
「コウ…ま、いっか。じゃ、覚えておけよ?いいか?コウ、死神ライフを楽しみたいなら、今から階級を爆上げしないと、けっこうギリギリだからな?魂が消滅しなかったのは皮肉にもコウが夫の役割をこなしてたからだ。それがなくなった今、やるべきことはひたすら養成講座に出て痛みの訓練に出る。いなくなった相手を恨んでる暇はないんだ。夜は下らない賭けの結果で悪酔いする方か、悪酔いする奴らを見ながら旨い酒を飲むかのどっちかだ」
「私たちは今、飲めないからなぁ…」
「そうですねぇ。ま、仕方ないですね」
コウギョクさんが微笑む。私はずっと気になっていたことを口にした。
「あの…お二人の名前って…リンゴから取ってませんか?」
「マソホさん、リンゴ好きなんですか?」
私は頷いた。実は好きだ。誰かにアピールしたことはないけれど。
「ペコくんはリンゴ好き?」
私は、近くで少ししょんぼりしているペコくんに声をかけた。
「好きですよ…コウも僕もアップルパイが好物だなんてひと言も言ってないのに…選んだのってクロさんなんですか?なんか…コウにはめちゃくちゃ騙された気分…僕が落ち込んでも仕方ないんですけどね。ヤミハラさんもササメさんも…僕はどうやら光が当たる方しか見ないようにしてたみたいです」
ペコくんの頭を突然コウくんが撫でた。そうして後ろから抱きしめる。ペコくんも細い腕でコウくんの頭に触れた。
「ごめん…ほんと…。キレイな思い出のまま終わらせようって思ってたけど…無理だった…」
「いいよ…今はまだ動揺してるけど…でも一つだけ。ヤミハラさんは…コウのことを大事に思ってたよ。だからこそ、いつかは自分が消えるつもりだったんだと思う。じゃないとこれ以上一緒にいて、大人の姿のコウと接し続けていたら自分もササメさんと同じことをしちゃいそうだったからなんじゃないかな。僕はずっと愛に飢えて育ったから、ヤミハラさんがコウのことを好きだってことには最初から何となく気付いてたんだ。この人いつまでプラトニックを貫くんだろうなぁって思ってたよ」
「…ペコ…お前…」
コウくんの方が動揺した顔になる。
「ペコは中身だけ成長するのが早すぎなんだよ。小学生のうちからやたらとそっちの勘も働くし達観しちゃってさ…」
シロガネさんが苦笑するとペコくんは言った。
「だって…生きてたときの僕の世界は身体の大きさギリギリの狭い檻で、最後の約半年の間はずっとオムツ生活だったんだ。今は自由に外に出られて、好きなだけ勉強もできるし美味しい朝食だってこうして食べられる。最初は僕、ヤミハラさんは小児性愛者なんじゃないかって少し疑ってたんだ。コウのことが好きみたいに見えたから。でも違ったんだね。ちょっと安心したよ。ヤミハラさんにすら愛されない僕ってこの死神の世界にも不要なのかなってしょうもないこと思ってたからさ」
「病んでるなぁ…ま、みんな訳あり度合いが平均値をぶち抜いて突出してる感じだから仕方ないけどね。ペコに必要なのは家族の愛情か?家族じゃない俺らと今度は家族ごっこが始まるんだよ。ついていけないなら、そうだなぁ…ハランのとこかな。ま、今はクロさんのとこでお試し期間みたいなもんだ。嫌なら変更すりゃいいだけだよ。気負うな。先に言っとく。俺もクロさんも子どもには手を出さない。嗜好の問題だな。だから、そういうのは期待するな」
シロガネさんは笑うとペコくんの頭をわしわしと撫でて髪をぐちゃぐちゃにした。




