痛みの在処
ヤミカは少しうとうとして、お腹の奥底に鈍い痛みを感じて目覚めた。ヤミカはベッドにいた。シロガネはヤミカの隣にいて、ヤミカが目覚めると微笑んで頭を撫でた。
「どうした?痛むのか?」
ヤミカは小さく頷いた。シロガネは身体を寄せてヤミカを抱きしめる。背中と腰の間をそっと撫でた。
「その痛みは代わってやることは出来ない。でもそばにいるよ」
「お腹に…空洞があるみたい…落ち着かない…」
「うん…そうなんだな。ヤミカを繋いでいるから、少しその感覚は伝わるよ。次はどうしたいか、そのことを考えたらいい」
「…何でもいいんですか?」
「あぁ」
ヤミカは少し考えた。
「…私は…強い死神に…なりたいです…悪魔が来ても戦えるような…」
「そうか…だったら…まずはその痛みがなくなってからじゃないとな」
「分かりました…」
「本当に分かってるか?」
「多分…分かってると…思います…」
「ならいいよ。身体に教えるから覚悟してな」
シロガネはヤミカを抱きしめると額に口付けをした。覚悟してろと言ったのにその腕は優しい。
「俺から来世も離れられなくなるくらいに…溶かしてぐずぐずに甘やかすからな?」
「…最初から…シロガネさんは…私に甘いです…」
ヤミカは腕の中で小声で言った。とうとう避けては通れないくらいに進んでしまったことも分かっていた。男性に対する恐怖はまだヤミカの中に残っている。シロガネは違うと分かっていても魂に刻まれた恐怖の記憶はなかなか消えなかった。この恐怖を乗り越えるにはシロガネの全てを受け入れる必要があるというのも頭の中では分かってはいた。
「無理矢理どうこうする訳じゃないから安心しろ…そんなに緊張されると俺まで緊張する」
「シロガネさんでも…緊張するんですか?」
「そりゃぁ…緊張するさ。ヤミカみたいなケースは…俺だって初めてなんだ…こんなに俺までがんじがらめになるのもな…あ、悪い意味じゃないよ。俺はそんなに誰かの魂に固執したことないんだよ。みんなサラッと通り過ぎて行った…指導官として俺が担当した研修生はヤミカみたいにやたらと男を怖がったりしなかったしな…だからこんな風に個人的にそこまで指導することは滅多にあるもんじゃないんだよ…」
「え…?だって…シロガネさんは…こういうことには…慣れてる…って…」
ヤミカはシロガネの腕から顔を上げる。シロガネは苦笑した。噂が一人歩きした結果だ。それをあえて訂正しなかった過去の自分は格好をつけたかったのだと思う。
「ヤミカやマソホちゃんみたいな呪詛絡みの子がそう頻繁に来る訳じゃないのは知ってるよな?来ない間に暇をしているかと言ったらそういう訳じゃない。自殺、他殺、事故…まぁあらゆる死の状況を抱えた魂を回収して未練を晴らして輪廻の輪に入ってもらって…その繰り返しがほとんどだ。その中からたまに死神になりたい魂の指導もするけど…こうやってお互いを繋ぐのは俺が死んで先の指導官だったクチナワに繋がれた時以来なんだよ…初めてなんだ」
シロガネは手首の赤い紐を具現化させた。ヤミカの手首に繋がっている。シロガネは紐の長さをあえて短くみせてその手でヤミカの手を握った。
「俺はたまたま魂の回収の際に悪魔に遭遇して戦って、運良く取り込まれずに済んだから強い死神だってことになってるし、実際にそこそこ強いとは思うけど、ものすごい余裕があってヤミカの側にいるかと言ったら、そこまで自信過剰な訳じゃないんだよ。今日だってヤミカの手術中、平常心を保つのが大変だった…俺だって初めてのことだったし、ヤミカの感情が伝わってきたからな…影響されるんだよ。ヤミカが思ってる以上に…ガッカリしたか?」
ヤミカは首を横に振った。周りから一目置かれるシロガネの妙に人臭い一面を感じ取ってしまって驚いていたせいだった。シロガネは何でもあっさりと受け入れて明るく楽しく周りを和ませる深刻さを感じさせない風を装っているだけで、その実いつでもヤミカの気持ちを優先して進むべき先のステップへ踏み出すのをひたすら待ってくれている。少し強引な口付けすらも、それはヤミカがようやく受け入れられるようになったからで、身体に触れることもヤミカが躊躇する場所に触れることは決してなかった。
「キス…がしたい…です」
思わず言ってしまってからヤミカはシロガネが少し困ったような顔をするのが分かった。
「お腹…大丈夫か?今日はそういう触れ合いはするなって…病院でもらった注意事項に書いてあったんだけどさ…ヤミカがしたいって言うなら…キスくらいなら…うん…まぁ…いいか…」
シロガネは自分を納得させるかのように言って唇を重ねた。シロガネの口付けは心地良い。それは生前のヤミカが最後まで感じることのできなかった感覚でもあった。記念すべき最初のキスは酒と煙草臭くねっとりと湿っていて、不快さを我慢するので精一杯だった。男は皆力付くで抑え込めばヤミカをどうにでもできると思っている。それを見せつけられただけだった。実際に非力なヤミカには抵抗する術もなかった。
「うん…嫌だったな…そんな風に何もかもを奪われるのは…」
「…読まないで…」
「共有してるだけだよ…俺は奪わない…その代わりにヤミカの記憶を塗り替える…嫌な記憶を思い出す暇もないくらいに…」
いつの間にか結んだ手首と握りしめた掌の間に固い感触があった。
「死神の鎌…ブローチを外しただけだ…俺にとっての…儀式みたいなものだな…今夜は天使も巡回に来てるようだし…ま、外したって大丈夫だろ…」
「…天使?天使って…存在するんですか?」
「そりゃ、悪魔もいるんだ。天使くらいいるさ。それよりも、ほら…たくさんキスしよう…」
再びシロガネの顔が間近に迫って唇が重なった。ヤミカはその感覚にひたすらに集中し、息の仕方を覚える。少しずつ表層をなぞるような口付けから、それは次第に奥深くへとヤミカを誘った。痛みを抱えていたはずのヤミカの奥底に、先ほどまでとは別の感覚が迫り上がってきてヤミカは、わずかに怯えた。
(ヤミカ…それは怖い感覚じゃないよ…大丈夫だ。俺も感じてる…)
心の中に優しいシロガネの声が聞こえる。絡め合った指先にシロガネは少しだけ力を込めて、もう一方の手でヤミカの頭を撫でた。ヤミカは目を開ける。こちらを見つめるシロガネの瞳に感情の揺らぎを感じた。
「もしも…ヤミカが死神になって…それも飽きて来世に行く日が来たら…そのときは俺も一緒に行くよ…一度繋いだら日に日に手離したくなくなった…この感情がヤミカに対する愛なら…大概俺も束縛気質だな…笑っていいよ…」
ヤミカは首を横に振った。
「シロガネさんになら…縛られていても平気です…それに来世でも…出会えるなら…今のこの気持ちを忘れないでいたいから…」
「ヤミカのそういうとこが…堪らないな」
シロガネはそう言ってヤミカを抱きしめる。ヤミカは掌に残されたブローチを握ったまま、シロガネの温もりに包まれていた。冷えていたヤミカの身体はいつの間にか温もりを取り戻し、更にそこから火照り始めていた。
「…暑い…です」
「うん、それでいいんだ」
シロガネは嬉しそうに微笑み返しヤミカを抱きしめた。
***
翌朝になって私とクロさんは、ペコくんとコウくんを連れてシロガネさんの喫茶店に行った。私は朝起きると更にお腹が重たくなっていた。クロさんの手を借りてやっとのことで起き上がる。ゆっくりと歩いて喫茶店に着くと、すでに中にはコウギョクさんとメイゲツさんがいて微笑んでいた。
「おはようございます」
「あ…おはようございます。昨日は…美味しかったし助かりました」
「良かったです。シロガネさんにヨーグルトムースを預けました。必要かと思ったので」
「マソホちゃん、朝食が無理そうでもヨーグルトムースなら食べられるかな?」
私は頷いた。クロさんも家の冷蔵庫から取り出した二人分のアップルパイをシロガネさんに渡す。
「あぁ…食後にね?」
シロガネさんは笑って、ヤミカさんがいつものようにモーニングセットを三人の所に置いた。私はヨーグルトムースとリンゴだった。幸いにも食べ物の匂いでは不快にはならなかったけれど、食欲は明らかに減退していた。
「マソホ、大丈夫?」
「うん。なんとか。ヤミカさんこそ、大丈夫?」
ヤミカさんは頷いた。どことなくその足取りが軽く見えて、私はヤミカさんはシロガネさんのお陰で元気になったのだろうなと思った。
「マソホさん、今日の午前中は病院ですよ。コウギョクさんもですよね?」
クロさんが携帯電話を見ながら言った。コウギョクさんは少し驚きつつも頷く。
「共有しようと思えば…出来るんですよ。ミランさんのスケジュールと私のスケジュールをすり合わせて時間帯を調整してもらいました。仲間がいた方が安心できますから、病院側からも推奨されているんですよ。それに付き添いも死神一人で済みますしね。今回は私が同行します」
「ありがとうございます」
すでに情報は共有されていたらしく、ヤミカさんも不思議そうな顔をしたりはしなかった。
「おはようございます!」
「おはようございます!遅くなってすみません!」
二階からミナミさんがフブキさんと共に降りてくる。
「大丈夫だよ。他のみんなが早いんだ」
「ちなみに…アシシさんはまだ起きていないそうですよ…わざわざ、ヒサメさんが写真を送ってきました…変なところが…マメなんですよね…」
「えっ?そうなんですか?」
私はクロさんが差し出した携帯電話の画面を特に深く考えずに覗き込み、目のやり場に困ってしまった。写真には明らかに裸でベッドの中にいるのだろうと想像できるアシシさんが無防備な顔で眠っていて、その隣でキャミソール一枚でピースをして笑っているヒサメさんが映り込んでいた。
「あぁ、俺にも届いてたわ。アシシもこれで一つ乗り越えて大人になったって訳だな。この様子だとしばらく帰って来ないんじゃないのかな」
そう言ってシロガネさんは、スマホの画像をあろうことか食事中のコウくんの目の前に置いた。コウくんは動揺して真っ赤になった。
「ペコはもう少し先になるけど、コウは年数的にはそろそろどうするか決めなきゃなんないな。ヤミハラは…そういう話は苦手そうだもんなぁ…先延ばしにしてただろ。ヤミハラみたいに中華屋をまた経営して飢えた魂の救済をする気なら何も言わないけどさ。それよりも上を目指して悪魔も狩れるくらいに強くなりたいなら…コウだっていつまでも子どものままじゃいられないんだよ?そろそろ…その姿で居続けるのも限界だろう。精神年齢に合わせた姿に変わっていいんだ。ヤミハラの理想の子ども姿でいる必要はもうないんだ…腕も再生させろ。いつまでも可哀想なフリして甘えるな。俺はクロさんほど甘くはないからな。言いたいことは言うよ?」
「シロガネさん…朝から随分と攻撃的ですよ?昨日ブローチを外したせいですか?」
クロさんの言葉にシロガネさんは眉を上げた。
「クロさんも言ってやったらいいのに」
「昨日の今日ですからね。今日くらいは悩ませてあげようかと思っただけです。ヤミハラさんは優しい死神でしたから。でもヤミハラさんの優しさに二人が合わせ続ける必要はもうなくなってしまいましたからね。彼のやり方もまた死神のやり方の一つですが、我々の考え方とは異なりますから。死神が鎌を振るわなくてどうするのか。この点については私はヒサメさんの意見に同意します。コウくんのその鎌だって飾りではないんですよ?君は目の前でさしたる抵抗もできずに自己犠牲という一見すると尊いようにも見えるヤミハラさんの手によって救われた…けれども私からすると、それは最低な戦法です。残されたコウくんに罪悪感を植え付けて自身の存在を永遠に忘れられなくさせる…だから、あのとき本来ならば彼はみっともなく這ってでもコウくんと逃げる道を模索するべきだった…格好をつけたって悪魔の腹に収まってしまっては意味がないのです。スズさんをただ抱きしめて悪魔に飲まれたササメさんも鎌を振るうべきだった…統括が女の死神は要らないと言うのはそういう理由もあります。ただしその意図するところは、鎌を振るえない女の死神、そういう意味です。マソホさんとヤミカさんはそれには該当しません。痛みの訓練以外でも鎌を振るいましたから」
平穏に過ごすはずの朝の喫茶店が凍りついた瞬間だった。私は呆気に取られてクロさんを見つめた。クロさんはヤミハラさんやササメさんに対して怒っていたのだと気付いたからだった。シロガネさんが肩をすくめると言った。
「クロさん…マソホちゃんにもコウギョクにも…胎教に悪いよ…俺は何もそこまでぶちまけろとは言ってない…」




