夕闇
「ただいまぁ」
間延びした声と共にクチナワさんが喫茶店に戻ってきたのは空が夕焼けに染まる時間帯だった。この時間の外出は厳禁になっている。それでも油断して出歩く者がいるから犬に引かれるのだと誰かが言っていた。私は出かけずに、ユウガオさんと少し会話をしていた。シロガネさんが言うにはユウガオさんは他者との関わりが少なかったせいもあって言葉を忘れているのだと言っていた。それでも時々クチナワさんが話しかけていたんだろう、と言ってシロガネさんはおかしそうに笑った。
「変なとこ師匠も…律儀っていうか…やっぱり一度そういう関係になると、バッサリ切り捨てられなかったんだろうね。きっかけは恐らくハイアオの嫌がらせか何かだろうけどさ…師匠の中にも情が残ってたってことだろうね」
ユウガオさんは犬だった頃の名残りなのか、途中少しうとうとと眠っていたのに、突然ピクリと起き上がったので私は驚いた。そうしたら、クチナワさんが入ってきたので私はもっと驚いた。気配に敏感だ。
「…おかえりなさい」
私が言うと、クチナワさんは鷹揚に頷いてユウガオさんの隣に座ると頭を少し乱暴に撫でた。照れ隠しなのかもしれない。そこまで考えて、反射的に私は小振りな鎌を出していた。クチナワさんの日本刀が鎌に当たって、クチナワさんは少し驚いた顔をした。
「ふーん、反応早いね」
「…喫茶店で止めて下さいよ!備品を壊すと面倒なんですから!散々、シグレ先生にも攻撃されてますから、何となく分かってきました」
「へぇ。ただぼんやり座ってるだけかと思ったのに…クロガネの女やるだけの肝は座ってるってことだな…」
「…ユウガオさんが怖がってるじゃないですか、止めましょう」
私が言うとクチナワさんはあっという間に刀をしまった。私も鎌を消す。ユウガオさんはカタカタと小刻みに震えていた。
「悪い…お前、ハイアオに鎌で何かされてたのか?刃物は怖かったか。ごめんな」
クチナワさんの口から謝罪の言葉が出たことに私は驚く。クチナワさんは小馬鹿にしたような顔をして私の方を見た。
「なんだよ、マソホ、何か言いたいことでもあるのか?」
「いいえ。クチナワさんが謝れる人だって分かって驚いただけです」
私の言葉にクチナワさんは目を丸くした。それからハッと短く笑った。
「悪いと思ったら謝るくらいのことはするさ。ただ他人が悪いと感じることでも僕はそうは感じないことの割合が少し多い。感覚がおかしいのは自覚してるよ。仕方ない。悪いと思えないんだから、謝りようがない。口で言うだけなら簡単だけど、謝罪ってのはそういうもんじゃないだろ」
「心のこもらない謝罪ってことですか?それなら…謝ってもらわなくても確かに同じですね…」
思ったよりもクチナワさんの中には口にする言葉に対する意識の明確な線引きが、なされているのだと私は理解した。
シロガネさんがやってきて、外を指差す。夕焼けの色が消えて徐々に夕闇がひたひたと近付いてきていた。
「そろそろ時間ですよ、師匠」
窓の外を見たクチナワさんはユウガオさんをひょいと抱き上げた。
「二足歩行にまだ慣れてなくてさ。でも四つん這いになると急に早くなるから危ないんだよ…暴れるなよ?」
「…首輪…しておいた方がいいですよ。師匠の趣味じゃなくても。少し閉じ込められていたときと似た環境にしておいた方が彼女は落ち着くかもしれません…」
シロガネさんがユウガオさんをちらりと見て言った。
「あーったく、自分の趣味じゃないもんばっかりだなぁ。ビラビラした服といい…首輪といい…」
ブツブツ言いながらクチナワさんは二階に向かう。ヒネズミに会ったんですか、というシロガネさんの声が遠ざかる。しばらくするとクロさんが二階から降りてきて私に向かって微笑んだ。
「マソホさん、クチナワさんと仲良くなりましたね」
「えっ?仲良く…?どこがですか?さっきも日本刀で斬られそうになりましたけど?」
私が言うとクロさんは頷いた。
「それでも、斬られなかった。クチナワさんに反射神経を試されて刀を止められた研修生は、彼と会話する権利を得るということです。通常でしたら死神でも彼が怖くておいそれとは話しかけたりはできないものなんですよ?初めて彼を見て失禁したり気絶した人もいるくらいですから…」
「…私…感覚がおかしいんでしょうか?」
「いいえ。もしかすると…シラタマの影響かもしれませんね。シラタマの魂にはクチナワさんの蛇の身体の中にあった卵を元にして私が蛇の子の形を与えたので…マソホさんとクチナワさんの蛇の部分はシラタマの母親としての意識を共有しているんです。そのせいかもしれません。クチナワさんもマソホさんを意識するんです。他の死神にはたいして興味も示さないのに…」
「えっ?シラタマって…だから蛇の姿になれるんですか!?そもそもあの蛇の下半身って…雌だったんですか??」
私は困惑した。クチナワさんは男性だから勝手に蛇の部分も雄なのだと思い込んでいた。
「本人の前で言うと嫌がりますが、そうですよ。ですから、シラタマもクチナワさんを怖がったりはしません…面白いですね」
それは果たして面白いのだろうか、と私は思った。けれどもクロさんは呪禁師寄りの考え方をするので学術的な興味として面白いと言ったに違いないと私は考えた。そのときドアが開いて范さんが入ってきた。
「こんばんは。今日は少し寒いね」
風が強いのかバタンと大きな音を立てて扉が閉まる。
「こんばんは」
「あぁ、クロさん…ん?何か妙な気配がするな…」
范さんは入ってくるなり天井を見上げて首を傾げた。
「それは、多分クチナワさんと、クチナワさんの連れてきたユウガオさんだと思います…ユウガオさんは研修生のブローチが手元にないので…」
范さんの顔色がサッと変わった。
「ユウガオ!?あのユウガオが?消えていなかったのか?それは…喜んでいいものか…判断がつかないな…瑞雪のとき…私はユウガオとわりと仲が良かったんだよ…でも、あの子は散々止めたのに…ハイアオの元に行ってしまった…ほぼケンカ別れだよ。しかもブローチはハイアオの鎌の中なのか?これからどうする気なんだ?しかもクチナワが連れてきた?正気を疑う話だな。いや…それはクチナワに対して失礼なのか…」
困ったように顔を覆って椅子に座り込んだ范さんは、そっとペコくんが困った様子でこちらに来れずにいることに気付いて、ふわりと微笑むと手招いた。
「おいでペコ」
ペコくんは駆け寄って范さんに抱きついた。
「大丈夫?何か困ったこと?」
「いいや…困ってはいないよ。ただ、古い知り合いにどんな顔をして会えばいいのかと思ってね。ケンカして別れてそれっきりだったから…」
「そうなんだ。范さんも、ケンカするんだね?」
フフッとペコくんは笑う。范さんはペコくんの頭を撫でた。
「そりゃあね。するさ。私だって研修生だった時代はあったんだから」
范さんはペコくんを膝の上に乗せた。
「范さん、手…冷たいね」
「ペコが温めてくれるかい?」
范さんはペコくんの手を握りながらそう言って微笑む。ペコくんは少し照れくさそうに笑った。階段を降りてきたシロガネさんが外を見て眉をひそめる。
「今日は随分と荒れてんな…こういう天気は良くない…」
「少し結界を強化しましょうか」
クロさんが言ってどこからともなくお札を取り出して半分ほどをシロガネさんに渡した。受け取ったシロガネさんはドアの周辺にお札を張り付ける。クロさんは窓に貼った。貼ったお札はすぐに見えなくなる。
「消えた…」
ペコくんが言うとクロさんは苦笑した。
「窓にベタベタお札が見えていたら、落ち着かない人もいますからね。見えないようにしただけです。今夜はユウガオさんもいますから、少し警戒しておいた方が良さそうです」
クロさんの言葉に范さんも頷いた。
「私は…ハイアオに戦いを挑む勇気がなくて…ユウガオを救えなかったんだよ。見て見ぬふりをしてしまった。私の忠告を聞かなかった方が悪いと思い込むことで、自らの罪悪感に蓋をしたんだ…卑怯だったと思うよ」
そうつぶやいた范さんの顔をペコくんは振り返った。ペコくんは范さんの顔を見つめて頬を撫でた。
「忠告を聞かなかった方が悪いよ。それは思い込みなんかじゃないと僕は思う。でもそのユウガオさんって人もそのときはきっとハイアオさんのことが好きで周りなんか見えなかったんじゃない?僕だって今は周りのこと見えてない自信しかないし!!」
ペコくんはそう言って范さんに抱きついた。この姿だととても若い頃にできた子どものように見えなくもない。范さんは少し困ったような顔をしてペコくんを抱きしめ返す。
「ペコ、そこ自信満々に宣言するところじゃないよ」
シロガネさんがそう言って笑ったが、ペコくんは范さんにしがみついたまま言った。
「だって、こんな風に誰かを好きになるのが初めてだから、そんな状態になってたら周りの話なんか耳に入らなくなっても仕方ないって思う…范さんは…初めてじゃないかもしれないけど、僕は初めてだから…だから、相手が誰でも、そういうことは起こると思う…檻に入れられるのは…僕は二度と嫌だって思うけど范さんにそうしろって言われたら嫌でも入っちゃうよ?だって、好きだから」
范さんはペコくんの言葉に盲点を突かれたような顔をした。
「ペコ…私はそんなことは望まないよ…でも…そうか…ペコに言われて初めて気付いたこともある…」
「好きになってほしいから…多少自分のしたくないことでも無理してしちゃうってこともあると思う…だから、ユウガオさんも范さんも…どちらが悪いとかじゃなくて…そのときは、ケンカ別れしか…道はなかったんじゃないかな…って。うまく言えないけど…」
范さんは目を閉じてペコくんを抱きしめた。
「導くはずの相手に教えられることもありますね。だから指導官の仕事はやり甲斐があるんですよ」
私の隣でクロさんが感慨深そうにそう言った。




