真昼の月見
クチナワはあまり気の向かぬまま、ハイアオの元に向かっていた。犬が逃げたのは聞いていたが連れ戻せとは言われていない。ドアを叩いたが返答がないのでいつものように勝手に薄暗い部屋に入る。ドアに一番近い檻の中の影がクゥンと鳴いた。クチナワは檻の中に手を入れて喉の下を撫でた。本人は犬だと思っているが檻の中にいるのは半裸の女だった。足の部分がすでに消えかかっている。そろそろ時間の問題かと思ったクチナワは、少しでも引き延ばすのにわざと声を出した。
「ハイアオがいないなぁ…」
クチナワの言葉を聞いた女はクチナワの顔を見た。
「ハイアオがどこにいるが分かるか?」
「クゥンクゥン」
「そうか、分かったよ」
頭を撫でると嬉しそうに目を細める。一匹くらいなら飼ってもいいかもしれないという思いが過ったが、慌てて首を振る。世話が面倒だし、これはまだハイアオの所有物だ。ハイアオに仕込まれた女はしつこくて厄介なのをクチナワは身をもって知っていた。
「後で気が向いたら遊んでやるよ」
クチナワはそう言って切ない声で鳴く女を残して階段をスルスルと進む。屋上に出るとハイアオはシシュウを抱いて屋上に置いたソファーベッドの上で眠っていた。
(今なら始末できんのかな…)
毎回そんなことを考えては、まだ無理だとクチナワはその想像を諦める。ハイアオの鎌は厄介だ。自分も悪魔の鎌を手に入れたらハイアオのようになれるのだろうか。そこまで考えてクチナワはやはりその考えも非現実的だと諦めた。今は悪魔の得物を手に入れても鎌にはできない。死神の資格を失うだけだ。
「…何をしに来たんだ?」
ハイアオが目を開ける。実に腹立たしいがこの男は整った顔立ちをしている。背も高いから黙って立っていればモテる。だから隣に異形のクチナワを置いて余計な者たちを近付かせないようにしているのだ。よほど鈍い女でないと近寄らない。ミアには身の程知らずな自信と傲慢さがあってハイアオが遊ぶのに適した性質を持っていた。それなのに特別区に逃げ込んだ。
「いいや。別に…犬が研修生を引いて行ったものだから…現在二人ほど行方不明で犬もまだ見つかっていないよ…」
「知っているよ…どこに行ったかなんて野暮なことを聞きにきた訳じゃないだろう…?」
ハイアオはようやく着物を羽織ると裸のシシュウに薄い着物をかけた。透けるような布でかえって目のやり場に困る。シシュウはクスクスと笑った。六本の腕はバラバラに動いてハイアオの身体を愛撫する。二本は髪を、二本は肩の辺りを、残りの二本は身体を。どれが元のシシュウ本人の腕かは忘れてしまった。残りの四本の腕は別の死神の腕だ。魂が消える前に保存液に浸けておいた手をハイアオが移植した。身体の部分にどの程度の記憶が残るのか、それでシシュウの精神は保てるのかの実験を行った。自ら異形になることを望んだシシュウをクチナワは到底理解できない。クチナワは望んでこうなった訳ではないからだ。蛇の情念が離れなかった。クチナワの呪禁師の部分に固執したのは蛇の方だった。異形になってもあまりいいことはない、とクチナワは思った。ハイアオのような特殊な嗜好の持ち主がいるからシシュウは愛を分け与えて貰える。だが自分はどうだ、と考えたときに、そんな物を欲しがっていた訳でもないのにクチナワは自身に欠けているものの正体を見出しそうになって一気に気分が悪くなった。
(愛だと?どうかしてるな…あいつを膝に乗せたせいか?)
クチナワは少し苛つきながらシシュウの着物から透ける乳房を見ていた。ハイアオは昼間から酒を飲んでいた。先ほど着物を着る前にクチナワはハイアオの背中に残されたシシュウの爪痕を見てしまっていた。六本も腕があるせいだとクチナワは思った。やはり多過ぎてもいいことはない。ハイアオの背中は傷だらけになっていた。
「見てごらん、月が見えるよ…」
確かに明るい空にはうっすらと月の形が残っている。真昼にだって月はそこにあるのだ。ただ見えにくいだけで。
「…月見酒…か?」
「ふん、まぁ、何のことはない、どこまでも背徳的なことをしてみたかっただけさ。屋上で真っ昼間から酒を飲んで女を抱く…なぜ、悪魔は来ない?ササメが呼び寄せられたのなら、私の魂の方こそ堕落しきっていて悪魔にぴったりじゃないか…」
「…は?悪魔を呼ぼうとしてたのか?酔狂な奴だな。止めておけよ。何人もの研修生の身体に獣の毛が生えたと、あちらは大騒ぎだ…犬の毛がどうした。こちらは下半身が蛇だし腕が六本になった奴もいる。たかだか毛くらいで何を騒ぐんだと言いたいね…」
「ま…異形は受け入れ難いからね…こんなに美しいのに…」
ハイアオは盃に酒を満たすとクチナワに渡した。受け取ったクチナワは一気に盃をあおる。真っ昼間の屋上で何をしているのかと思ったら、ただ酒を飲んでシシュウを抱いていただけだと分かったクチナワは、途端に興醒めして帰ることにした。
「もう帰るのか?つれないな…下の女…連れて行かないのか?お前に懐いてるじゃないか。人の形の従順な愛玩動物…腹の立つことは喋らないし、その身体を見ても異形だと騒ぎ立てることもない…言葉を失ってしまったからね…あれにも少しは役割を与えてやらないと、そのうち消え去る…」
ハイアオの言葉にクチナワは眉をひそめた。ハイアオは鍵を一本クチナワに放り投げた。
「あの女の檻の鍵だ…一度は情を交わした仲だろう…朽ち果てるままにはしないよな?クチナワ…」
クチナワはハイアオの言葉に久々に背筋が寒くなる。これは命令だ。鍵まで渡したのだ。捨て置くとむしろ面倒なことになる、そんな予感がしてクチナワは頷いた。
「良かった…二匹目の犬を放してしまうところだったものでね…名は覚えているか?首にぶら下がっているから呼んでやるといい。連れて帰るときは必ず鎖に繋ぐんだよ。飼い犬の散歩とはそういうものだろう…?」
「分かってるさ…じゃあな」
クチナワは可能な限り何の感情も込めずに下へ向かう。クチナワが檻の鍵を開けると女は鳴いて飛びついてきた。
「こらっ!離せ!」
首輪のタグにはヌイと書かれている。
「ヌイ…?イヌを逆さにしただけだろう…」
クチナワはため息をつきながら壁にかかった鎖を一本手に取るとヌイの首輪に留めた。
「ヌイ、うちに帰るぞ」
けれどもヌイはドアのそばで蹲ると小さく鳴いて歩みを止めた。どうやら外の光が怖いらしい。クチナワは手近な布をつかみ取るとヌイの頭に被せて裸の上半身を覆った。面倒になったクチナワはヌイを抱き上げると外に出た。
「クゥン…」
犬の声で鳴いていた女はクチナワが歩き出すといつの間にか人の声で小さくすすり泣いていた。
「…大丈夫か?目閉じてろよ。まぶしいだろ」
柄にもなく相手を気遣う言葉を発してしまったクチナワは涙を流す女と目が合ってしまった。女は気まずそうに顔を背ける。
「おい、こっちを見ろ。ちゃんと。もう忘れたのか?お前は誰だ?名前を言うんだ。自分の口で」
「…ユウ…ガオ…」
彼女はたどたどしく言葉を発した。
「言えたな。少しずつ思い出せばいい。ハイアオが手放したから…今日からユウガオは…僕のものになった…」
クチナワの言葉に女は再び涙を流した。消えかかった足の一部が元に戻るのを感じたからだった。日に日に身体が薄くなってゆくのは悪夢でしかなかった。檻に閉じ込められたユウガオは働きに出ることも出来なかった。役目も与えられずに朽ちてゆくユウガオをシシュウは嘲笑った。
「ユウガオ…帰ったら人に戻れ。いいな?」
言われたユウガオは小さく頷く。この死神は下半身が異形でも心の中には人の部分がハイアオよりも多く残っていることをユウガオは知っていた。ユウガオは目を閉じてクチナワの胸に顔を押し当てる。
「…あんまり期待するなよ?期待し過ぎるとガッカリするからな!!」
なぜか怒ったようにクチナワが言う。ユウガオは少し笑ってしまった。本当はこの人は不器用なだけなのだ。誰かにこんな風に大切なもののように抱きかかえられる日は二度と来ないと思っていたから、それだけですでにユウガオは救われていた。
「アリ…ガト…」
ユウガオはやっとのことで今の気持ちを相手に伝えた。




