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死神は残業をしない  作者: 樹弦


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半透明の赤い餌

 彼は薄暗い中で目を覚ました。ここはどこだ、と思って、何か重要なことを忘れているような気がした。けれども傍らの女が彼の毛並みを手ですいた。その心地良さに彼は途端にどうでもよくなった。それでも彼の口は尋ねてしまった。


(ここは…どこだ?)


(うん?私たちのすみか。寝床。ここまで入ってくるのは死神でも難しいから…しばらくは休めるよ?)


 女は彼の頭を撫でる。


(いい子…やっと私の言うことが聞けるようになってきたから、ご褒美をあげるわ…)


 女が彼の背中を撫でると彼は犬の姿から人に戻った。


(いい?早く走るときは人の姿になってはダメ。人の姿になるのはこうやって休んでいて、私が許可したときだけ。分かった?)


 彼は頷いた。女は耳のなくなった穴の近くに触れて新しい耳を作った。


(この耳は私の話を聞く耳…前の耳とは違う耳…)


 女は歌うように囁く。彼は頷いた。彼は自分が誰だったのかをすでに忘れつつあることにも気付いていなかった。ただ目の前の女の言葉はきちんと聞かなければと思った。なぜそう思ったのかは分からなかったが、彼はそれを正しいこととしてしか認識できなかった。微笑みを浮かべた女の唇が重なる。この女を二度と手離してはいけない、そんな気がした。


(……のように)


 一瞬誰かのことを思い出した気がしたが、女の唇が重なって口移しに何かを入れられて彼の思考は停止した。女の口の横からはうねうねと動く半透明で赤いミミズのような物体が飛び出ている。彼はそれを不気味だと思ったが自分の口の中で蠢くそれを必死に飲み下した。女もそれを飲み干すと彼に向かって親しげに微笑んだ。


(これは地下清掃を続ける人殺しが食べさせられる食事。この方がかすめ取るのは楽なの。見た目はアレだけど…そのうち慣れるわ。だって何を食べたって結局は同じだから…)


(そう…なのか…)


(うん、所詮はまやかし。必要なのはむしろ食べる行為なの…こうやって…)


 女は彼の手を取ると小指を舐めた。舐めてカリリと噛む。鈍い痛みと共に小指がなくなった。女は彼の小指を舌の上に乗せて転がしてから飲み込んだ。


(少し慣れた?新しい指を生やしてみせて?)


 彼は小指の消え失せた手を見つめたができなかった。


(仕方ないわね…私がやってあげる…)


 女が触れると再び彼の小指は元通りについていた。彼は不思議そうに手を握ったり開いたりしていたが、考えるのをあきらめたのか、両手を伸ばして女の髪に触れた。


(どうしたの?)


(なんでも…ない…)


(そう?) 


 女は彼を腕に抱くと布団をすっぽりと被った。一人ではここは寒い。こうしてくっついていればなんとかなる。連れてきてすぐは寒い寒いと文句を言っていたのに、地下の物を食べさせて言い聞かせるうちに、従うようになってきた。自分もあの人に従っていれば今よりも良かっただろうか。女はほんのわずかな間にそんなことを考えたが、誰かの言うことをただ従順に聞くよりは、自分の言うことを聞いてもらう方が気分が格段に良かった。それに、彼は後から手に入れたおもちゃに夢中で彼女のことなどすでに眼中にはなかった。


(あの女を捕まえておいて…自分の支配下に置いていれば…少しは結果は違っただろうか…)


 前に逃がしてしまった女のことを考える。女の中にある、遠い昔に取り込んだ男の思考が前に出てきて、その女を抱いたときの感触が蘇った。そのとき檻の中でガタガタと音が聞こえて、眠っていた相手が暴れ出したのが分かった。女は立ち上がり壮年の男性姿に変わる。少し前の主人に似てしまうのは仕方ない。毎日見ていた顔だから、どうしても面影を引きずってしまう。


「もう目覚めたのか」


 檻に閉じ込めた若い男は怯えた顔でこちらを見ていた。あまりにうるさいからすでに舌は喰ってしまった。手の指もない。膝から下の両足は斬り落として保存液の中に漬けてある。布団の中の男は彼をぼんやりと見ていたが、やがて自分があんな風にならなくて良かったという優越感にも似た笑みを浮かべた。


(ここから出せ!!お前は何者なんだ!!)


「うるさいな。吠える犬は嫌いなんだ。大人しくできるようになったら可愛がってやるよ」


 壮年の男は檻の隙間から長い先端の尖った棒を突っ込んで男の腹を刺した。若い男はうめき声を上げる。たいして面白くもなさそうにそれを見ていた彼はやがて興味を失って、再び布団の中に潜り込んだ。


「少し眠るから騒ぐな。あまり騒ぐようならもっとバラバラにして小さくする。次に騒いだら腕がなくなると思え」


 彼はそう言うと再び豊満な胸の女の姿に変わった。女はベッド横の天井から垂れ下がるカーテンを閉めるとその中に小さな明かりをつけた。明かりの中で女のシルエットが歪んで獣の姿になる。先ほど嫌な笑みを浮かべていた男もやがて獣の姿になり、唸り声を上げながら二匹が絡み合うのを、檻の中の男は見せられる羽目になった。指のない手で刺さった棒を抜こうとしたが到底無理だった。何度か試してあまりの痛みに彼は諦める。身体の向きすら変えられないので、目を開くとカーテン越しの明かりの中の獣の姿が見えてしまう。彼は目を閉じてこの悪夢が早く終わらないかと願った。それでも息づかいや嬌声は聞こえる。気付くと腹に刺さっていた棒がやけに柔らかくなり、それはいつの間にか太い蛇に変わっていた。蛇はズルズルと彼の腹を移動して抜けてゆく。彼は腹の傷をなんとかしようとした。すると抜け出た蛇がこちらに向かってやってきて、彼の顔を覗き込んだ。


「ヒッ……!!」


 彼は上げそうになった悲鳴を飲み込んで、女の顔をした蛇から顔を背けた。ニタリと笑った唇のない蛇の口から先の割れた舌がチロチロとのぞく。彼はただ格好をつけてみたいと思って死神養成講座を選んだ自分を悔いた。こんなことになるなら、もっと地味な仕事を選んでおけば良かったと思った。


(バカな子…)


 女の声が脳裏に響いて彼は蛇に絡まれる。彼を締め付けた女の顔をした蛇は塞がりきらない腹の穴に顔を突っ込むとそこを舐め始めた。


(止めてくれ…!!頼む…食わないでくれ…)


(食わないわよ。治すのが下手くそだから手伝ってあげてるのよ?こんなんだから、階級が下がるのよ…)


 彼はぐったりしたまま、抵抗もできずにされるがままになっていた。けれどもその言葉通りに蛇は彼の傷口を塞ぐと、先ほどとは違う女の姿になった。ただし上半身のみだ。


(魂をバラバラにされたくなかったら、私に従って。無駄な抵抗をすればするほど、あなたは自分の力を失うわよ?いい子にできたら足を返してあげる)


 女に顔を覗き込まれて彼は恐怖のあまりコクコクと頷くことしかできなかった。


(餌の時間よ。食べさせてあげる)


 女は赤い半透明のミミズを彼の口元に近付ける。絶対に食べたくないと思っていたのに彼は口をこじ開けられてそれを漏斗(ろうと)で流し込まれていた。彼は生前に興味本位で見たフォアグラの作り方を思い出す。フォアグラになるのは雄のガチョウのみで、こうやって強制給餌されて病的に肥大した肝臓を作り出される。狭い檻の中から首だけ出して餌を流し込まれ、最後には首を裂かれて殺される。彼はそれを知った時点でフォアグラを食べるのが嫌になった。それなら雌と分かった時点でミンチにされる人生を選びたくなると彼は思った。そうして自分は死んでいるのにガチョウさながらの扱いを受けてミミズを流し込まれている。ただ、なんとなく格好をつけたくてこの講座を選んだだけに過ぎないのに、階級落ちしてどこだか分からない場所に閉じ込められている。うごめくミミズの感触が喉を通り抜けて胃の中に到達してもなお、身体の中で動いている。本当にこんなものを殺人の罪を犯した者たちは食べているのだろうか。


(疑うの?だってこれは、地下清掃の食堂からくすねてきたモノだよ…ドブ臭いスープもあるけど、あまりに臭いからそれをくすねるのは止めたよ。みんな嫌な顔をしながら食事するんだ。食べない奴もいるけど、ずっと食べないでいるとどこかしらに異常をきたして、まともに働けなくなる。仲間の魂をバラバラにしたり…だから、嫌な顔しながらでも食う方を選ぶんだ…そうして、寒い部屋で震えながら眠る…それが嫌な奴は同室のやつと交渉して抱き合う…ここじゃ唯一の娯楽…あぁ、あとは月に一度だけ一杯の酒が飲める場合もある。それも真面目にコツコツ毎日働かないと無理だ…お前には…できないだろうな…)


 彼は吐き気をこらえながら脳裏に流し込まれる言葉を聞いていた。なぜそんなに詳しいのだろう。そう思ったら笑い声が聞こえた。


「それは、地下清掃でバラされた奴の魂の一部を食べたからよ?食べたらその魂に含まれている記憶を自分のものにできるの。私の身体は他人の記憶の寄せ集めよ?」


 女は笑う。他人の記憶の寄せ集めなら、誰だと聞いても答えられないのは当たり前だと彼は思った。腹の中ではまだミミズがうねうねと自らの存在を主張するかのように蠢いていた。

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