違和感
翌朝になっても、ヤミカさんとアキさんは犬の耳と尻尾が生えたままだった。クロさんと私が一階に降りるとヤミカさんの声が聞こえた。
「…今日も痛みの訓練に行けないって…もうっ!ストレス溜まる!」
ヤミカさんは朝からイライラしていた。アキさんもため息をつく。シグレ先生は喫茶店の朝食に間に合う時間帯に男性の姿のミランさんと共に仲良く戻ってきた。
「おかえりなさい、シグレ先生」
私が言うとシグレ先生は何かを言いかけて、やがて諦めたようにため息をついた。
「…腹をぶち抜かれたのに元気だよね…」
「え?だって、この身体は私たちの想像の副産物ですよ?あると思えばあるし、ないと思えばない…」
「それはそうだけどさ、通常の感覚の持ち主はそんなにピンピンしてないものなんだよ…」
「はぁ…そうなんですか。ピンピンしてますよ」
「…ったく、その気の抜けた表情といい…意表を突かれるこちらが戸惑うよ」
シグレ先生のため息に、ミランさんが笑う。
「自分のちっぽけな基準で人を判断するものじゃないよ」
ミランさんは大きな手で私の頭を撫でた。私はミランさんを見上げて女装しているときよりも背が高いことに気付く。
「ミランさん…とても背が高いんですね…」
「怖い?」
「いいえ、怖くないですよ?」
ミランさんは私に向かって何かを言おうとした。けれども死神のスマホや携帯が一斉に振動して、皆が画面を開いた。ミランさんの眉がピクリと動く。
「これは…」
「…この前とは反対側の耳だね…左の耳だ…耳たぶにホクロがある…トウキの耳だよ…ピアスみたいだなと思っていたから…」
シグレ先生の言葉にミランさんは嫌そうな顔をした。
「そんな細かいところまで見てたのか?男の耳を?」
「…ち、違いますよ!あまりにもちんたら雑魚ばかり嫌そうな顔をして集めているから、暇すぎて見ていただけです。たまたまですよ!」
「好みの顔だったからだろ?見てくれだけは爽やかなイケメンだもんな…」
「…右の耳…次は左の耳…右から左…」
クロさんがつぶやいて眉間にしわを寄せた。
「右から左に聞き流す…話を聞かない人間の典型だな…」
シロガネさんも言ってため息をついた。
「犬は何をしたいんだ?言葉遊びか?」
モーニングプレートを用意しながらシロガネさんがつぶやいた。クロさんは難しい顔をしたまま口を開く。
「…こんな風に…少しずつ欠けると…脆弱な魂はどうなると思いますか?」
「欠けたことに…慣れるな…」
ミランさんが口を開いた。
「欠けて欠けて…次第に記憶がおぼろげになる…自分が誰だか分からなくなり…恐らく…そのうち人の姿でも犬の姿でも…どうでもよくなる…」
「このほんの少しの噛み切り方…犬はそれを狙っているとしか思えないんですよね…」
クロさんは苦い顔つきをした。
「…警備隊は何をしているんだ?」
ミランさんは低い声でつぶやいた。
「逃げ込んだ場所が問題なのかもしれません…地下の奥深くまで引き込まれると…我々も正気を保つのが難しくなりますから…」
「…犬はどうして平気なんだ?」
シロガネさんの言葉にクロさんは言った。
「…犬は……すでに自分が元は何者だったのかも忘れている…それに恐らく様々な人の魂の一部を取り込んで複数人の記憶が混在している。常に頭の中で性別も年齢も違う誰かが話をしているような状態とでもいえば少しは犬の状態が伝わるかもしれません…正気とはほど遠い記憶を抱えているのが犬…だから、平気というよりは正気と狂気の狭間にある存在なので、犬にとっては気にならない…そういうことでしょうね」
「…ハイアオは…何をしたかったんだ…元々は犬だってハイアオの女だったんだろう?それがシシュウが現れて下になった…」
シロガネさんのつぶやきに隣でサラダを盛り付けていたヤミカさんが眉をひそめた。
「え…犬からシシュウに乗り替えたってこと?最低!」
「乗り替えたというか…彼の所有する複数の魂の一つになったというべきでしょうね。優先順位が下がった…。彼の鎌は前にも言ったと思いますが悪魔の得物だった。だからその性質上、複数人の魂を取り込んでおかないと安定しない…心の弱い研修生は彼の鎌に取り込まれて自我を失い、心地良い夢の中に暮らすようになる…それを不幸と捉えるか幸福と捉えるのかは、本人次第ですから一概にそれが悪だとは言い切れません…犬は中途半端にそこから逃げ出そうとしてはまた戻ることを繰り返していて…長い年月が経ってしまった…だから余計に扱いが困難とも言えます…」
クロさんは静かにそう言った。
「自我を失って夢の中に暮らすなんて、私だったら嫌だけど…ねぇ、マソホ…」
モーニングプレートをテーブルに運んで次の分を取りに来た私にヤミカさんが言う。
「うん。私やヤミカさん…ここにいる人たちは、そういう選択はしないと思うけど…辛いことを全部放り出して逃げたくなるって気持ちも分からなくはないかな。でも、理解はできるけど共感はしたくない。私は私でいたいから…」
しばらくすると他のメンバーも降りてきて、揃ったところでみんなで朝食を食べ始めた。そのときミナミさんが小さな悲鳴を上げた。
「ミナミ?」
フブキさんがハッとしたようにミナミさんの顔を見る。ミナミさんは左腕を押さえて困惑していた。
「ミナミさん、どうしましたか?」
クロさんが素早く立ち上がってミナミさんのところに行く。ミナミさんは、腕を押さえたまま首を横に振った。
「…見せて下さい。大丈夫ですから」
ミナミさんは、困り切った様子で左腕の袖をめくる。腕の一部に茶色い獣の毛が生えていた。五百円玉くらいの大きさだ。クロさんは首をひねった。
「…何か…どんな些細なことでもいいので、思い出せませんか?例えば昨日の説明会…」
「…うーん…特には…」
ミナミさんは首をひねってしばらく考えていた。
「あ…そういえば…説明会が終わって移動しているときに…ぶつかってきた人がいて…そのとき…腕が一瞬チクッとしたような…」
「どんな人だったか覚えてますか?」
「背が高かったことくらいしか…込み合っていたし…」
「念のために統括に報告するよ?」
シロガネさんがそう言って素早く写真を撮って統括に連絡をした。すぐに返信があって、他にも同様の症状の出た研修生が複数名いることが判明する。
「…波紋とは異なるようにも感じますね…痛みなどはありませんか?」
クロさんが尋ねる。
「大丈夫です…ただ皮膚に違和感がある…というか…」
「元の皮膚を強く想像してみて下さい」
「は、はい…やってみます…」
ミナミさんは腕を見て集中する。しばらくすると茶色い毛が消えて元の皮膚が現れた。
「あ、戻った…!」
ミナミさんはホッとした顔をした。けれどもその瞬間に再び腕にはまた茶色の毛が戻っていた。
「…ああっ!気を抜くと…すぐこうなってしまいます…これ…なんなんですか?」
「こんな症状は今まで見たことがないな」
ミランさんは腕組みをした。シグレ先生がやってきて、ミナミさんの腕を興味深そうに覗き込む。その横にナナクサさんもやってきて、ふと思い出したように言った。
「…獣の毛じゃないんですけど…昔…研修生の中に自分の血を使って変なことを始めた奴がいて…相手に塗った血を別の物に変えられないかって…ミズマたちとそいつが遊びで気味の悪いことをやってたのを見ました…そのときは…ヒルになって相手の血を吸って膨らむっていう…」
「……その研修生の名前を聞いてもいいですか?」
「ドラゴンです…あの、ふざけて言ってる訳じゃなくて、ドラゴンって名前の奴が本当にいて…」
「あぁ、ドラゴンですか。知っていますよ。意外ですね…彼が無意識のうちに呪禁師まがいのことを行っていたとは…」
クロさんは指先に爪を立てると浮き出した血を小さな竜の形に変えた。
「うわぁ!すごっ!」
ナナクサさんが歓声を上げる。
「要するにこういうことですが…素人が血を操ろうとしても、相手があまりに遠く離れた場所に移動してしまうと、自分の血を回収出来なくなるんですよ。その結果、自分でも気付かない程度の些細な記憶を失う…」
クロさんは中空を泳いでいた竜を片手で握って自身の中に簡単に戻してしまった。
「必ず一滴残らず回収するという執念を持って血は使わないと、軽々しく素人がそれを扱うのは危険な代物ということです…念のためにそのドラゴンも調べた方がいいでしょうね…」
「ドラゴン…って、ププッ…!ダメだ…!ネーミングセンス、悪過ぎだろう!ペアーといい勝負だ!」
ツボに入ったのか、シグレ先生は笑い出す。周りの死神も頷いた。シロガネさんは、笑い続けるシグレ先生をちらりと見てから口を開いた。
「…あまりにも具体的な他のイメージが強烈な名前って…俺らの時代じゃ選ばなかったけどなぁ…過去にデビルって名乗った死神は本当に悪魔の腹ん中に入っちゃったし…ま、要するに悪目立ちする名前は後の世にも語り継がれて、ただ恥ずかしいだけだよな」




