未練
シグレは手酌でちびちびと日本酒を飲んでいた。不意にドアが開いて隣に静かに男性が座った。
「クロガネ、いつもの」
低い声が響く。少し酔ってぼんやりしていたシグレはその声にハッとした。
「はい」
今日はバーテンダー代理のクロガネがビールを注いだ。
「どうぞ、ミランさん」
シグレは驚いて壮年の男性姿のミランを見上げる。ミランはシグレに酒をついだ。
「何を物思いに耽っているんだ?」
「…私は…二度とあの子には会えないんだなと…思っていただけですよ…」
シグレはいつになく素直に本音を吐き出してしまった。
「それが決まりだからね。いかなる理由があろうとも殺された者と殺した者が同じ次元に立つことはない」
「…私は…大切なファンに…罪を背負わせてしまった…償いたくても償えない…会うことも話すこともできない…」
「そうだな。だがあれは本人も納得した上で出した結論なんだ。お前の方こそ、その未練がましい感情をそろそろ手放したらどうなんだ?」
「簡単にできたら苦労しないですよ…」
シグレは酒を口に運ぶ。
「…あの子のことは…ヒネズミが責任を持って面倒を見ると言っていたから安心しろ。指輪の交換も済んだ。ヒネズミだって、指輪が消え失せたらどうしようかと内心ではおっかなびっくりだったらしいが、私がシグレと交換を済ませたと告げてやったら、勢いに任せて嵌めたと言っていた…」
「…そういう…からくり…だったんですか?」
シグレは左手の薬指に触れた。
「からくりも何も…ただ私は向こうの背中を少し押しただけだ。それに、お前はオカマとは付き合いたくないと叫んだじゃないか。私はオカマじゃない。強いて言うなら女装家だ。だが、お前にはさほど変わって見えないようだから、姿を元に戻した。人相が悪いから、先ほど道で会った研修生が脱兎の如く逃げていったよ」
ミランは笑いながらビールを飲んだ。クロガネはカクテルに関しては不器用だが、ビールを注ぐのはうまかった。泡がクリーミーなのだ。ドアの外に、本日はカクテルの提供はできません、と達筆な筆文字の張り紙がされていた。
「この酔っ払いは私がもらっていくから安心してほしい。ところでマソホはどうした?」
「ヤミカさんが波紋で下へ行けなかったので、今日は仕方なく代理で同行を許可しましたよ…」
クロガネがそう言ったとき、皆のスマホと携帯が一気に鳴動する。皆マナーモードだったが、手に取って内容を確認したクロガネは眉をひそめた。
「マソホさんが…ヒネズミに…攻撃されました…」
「えっ?何があったの?うわっ、腹からぶち抜かれたってマジで!?えっぐ!」
シグレは大げさな表情をする。ミランはため息をついた途端にいつもの姿になってしまった。
「あの子…点数を下げるならキスにしなさいって言っといたのに…何大暴れしてんのよ。SNSも大騒ぎよ。バーにいた子たちが次々と書き込んでるわ…」
「ミランさん、キスとは…いったいどういうことですか?」
「あ…ヤダ、クロガネちゃんったら、怖い顔しないでよん。だって、まさか代理でマソホちゃんが行くとは思わなかったのよ。ヒネズミはもうじき階級が上がって今の部屋から出る予定だったのよ。でも本人が面談の際に、どうしても今の部屋から出たくない場合はどうしたらいいかって聞かれたから…」
「それでキス…ですか。なるほど、分かりました…マソホさんなら他人とキスするなら、こちらを選ぶかもしれませんね」
「ええ!?それはまた極端だなぁ…キスの方が楽でしょ」
シグレが言うと、クロガネは冷めた目で彼の方を見た。
「どちらが楽かは一概には言えませんよ。少なくともミランさんとの一件でマソホさんは学んだんです。だから反射的に避けたのかもしれません…あくまで推測ですが」
「あー私のせいなの?嫌だわぁ…責任感じちゃうじゃない」
「えっ?ミランさん…まさか…?」
シグレがミランの顔を見て凍りつく。
「そうよ、売り言葉に買い言葉みたいに、無理矢理いちゃもんをつけて、マソホちゃんの唇奪ったわよ。たまには女の子もいいわね。って、もうっ!クロガネちゃん、怖い顔しないでよ!点数を下げたかったのよ!シグレだってそんな顔してるけど、私が点数を下げたのは、あなたのことも心配だったからなのよ」
「え…?私が心配…??私はいい大人ですよ?ミランさんに心配をかけたつもりはなかったんですが…」
「あなた、自分のことを分かっているようで分かっていないのよ。だから平気でトウキを鎌に引っかけて地下から帰ってきたりしちゃう。嫌いな相手にも敬意は払うべきよ?」
「……ミランさんは…あいつの相手をしたことがないから分からないんですよ…」
シグレは少し苛立ったように告げた。
「…シグレ先生の肩を持つわけではありませんが…彼は更生させるには少々手のかかる相手であったことは確かです。命懸けで地下清掃をしている彼らにその姿を見せたら非難されること間違いなしですね…私の知るだけでも四人波紋に巻き込んでいる…他にも関わった女性がいるようですから…恐らく彼女たちも…」
クロガネが言い終わらないうちに、再び新たな情報が入る。
「…あらあら、また波紋?これもトウキ絡みなのかしら?書かれていないけれど…相手に噛み付いたっていうなら…その可能性は高いわね…嫌だ。耳を食べちゃったんですって」
「耳?確か…彼の家には片耳だけが残っていたと…」
「この子…波紋を受けたことを隠していたのかしら?彼にバレたくなかったから?彼が指輪を渡そうと部屋を訪ねたら襲われたって書いてあるわね…こうなると…この二人の仲もここで、おしまいになっちゃうのかしら?確かにトウキって子は…顔だけなら…ま、甘い優しげな感じで今の世代の子にはモテるのかもしれないけど…このままでいくと波紋の数で過去の最高記録を塗り替えるかもしれないわねぇ、クロガネちゃん」
話を振られたクロガネは眉をピクリと上げる。
「私のは波紋ではありませんから。当時の指導官が認めたくなくて波紋として記録しただけです。私は呪詛しました。こちらでも呪詛が効くのか試す丁度よい機会だった…真相に気付いたのは統括だけでした…即、指導官も交替になって…そのときですね。クチナワさんがあんなに笑ったのを私は後にも先にも知りませんが…呪詛だと知ったクチナワさんは、何が面白かったのか爆笑して…私に焼肉を奢ってくれました…」
「え…あの蛇男に焼肉を奢られた…?いやいや、爆笑されるより、そっちが怖いよ」
シグレはブルッと震えて両腕をさする。
「クチナワさんは…一見すると…話の通じなさそうな人ですが…そうではありませんよ。信念を同じにする者とはきちんと会話をします。ですが、好き嫌いが激しいので大抵の人は彼と合わない…ほら、噂をすれば…」
ドアが開いて現れたのは噂の張本人なのだった。
「なーに、驚いちゃってんの?僕だってたまに、酒を飲みたいときはあるよ。けど、シロガネの結界は強いんだ…クロガネはこうしてわざと時々綻びを作る…」
「こんばんは。クチナワさん」
クロガネは穏やかに挨拶をしたが、ミランとシグレは固まったまま動かなかった。むしろランクAかつ異形の死神相手に平然としているクロガネの方が異常なのだ。
「マソホ、地下で刺されたらしいな。ま、確信犯だろ。簡単に刺されるようなタマかよ」
クロガネはロックのウィスキーを前に置いた。クチナワはニヤリと笑うと、少年のような見た目のままそれを一口飲んで満足気な表情をした。
「ま、夜は長い、ちょっと付き合えよ」
クチナワはそう言って警戒する二人の死神の顔を見て、嫌な笑い方をした。




