蝶を描く
シグレ先生は訓練には全く興味もなさそうな顔をしていたのに、私が近くを通ったときに、突然鎌を出して攻撃してきた。何の気配もなくそれは唐突だった。ギリギリで躱して、私は鎌を出して応戦する。テーブルに当たってテーブルが真っ二つになる。狭い空間では鎌は振りにくい、私はそう思った。
「わぁ、躱された!ウソでしょ!絶対斬れると思ったのになぁ…」
シグレ先生はすぐに鎌を消し去る。近くで新聞を開いていたクロさんが微笑んで言った。
「私の研修生を舐めないで下さい」
クロさんは傷付いたテーブルを元に戻すと指輪に触れた。分かったことは、この指輪はこうして触れると誰がその相手なのかを特定できる。クロさんは再び新聞を読み始めた。
「私の研修生…ねぇ…」
シグレ先生は不服そうに自分の左手の薬指を見た。
「女装したあの人を見たい訳じゃないんだよ…絶対嫌がらせだろ…」
シグレ先生はブツブツと呟いてから、再びアキさんの聞き取り調査に戻る。私とシグレ先生の戦いをまばたきもせずに見ていたアキさんは、私の顔を見ると言った。
「マソホさんは、どうやって攻撃が来るのを察知したんですか?」
「どうやってと言われても…直感ですかね…クロさんが言うには私は油断していそうな顔をだいたい普段はしているみたいですから、逆にそれを利用したというか…油断していると見せかけて常に相手の動きは見るようにしています。例えば今を例に取るなら、聞き取り調査をしていて、アキさんの話を入力していたはずなのに、少し手が止まってましたから…来るかもと」
「なるほど!やっぱり観察することは大事なんですね!」
アキさんは感心したように言って笑う。シグレ先生はますます不満そうな顔になり、私はクロさんに手招かれた。
「ご褒美をあげましょう」
クロさんは私の口に高級そうなチョコレートを入れる。中にヌガーが入っていてヘーゼルナッツの味がした。
「あーマソホだけズルい!」
アオハが横から顔を出す。私の反応があと少しでも遅かったらアオハが防いでいたはずだった。アオハも最近、相手の動きを観察して学んでいる。私たちは二人三脚で少しずつ成長していた。
「生前からの腐れ縁かい。それは死んでから知り合いになるよりも長引きやすいからなぁ…厄介だね、思ったよりも」
シグレ先生がパソコンに入力しながらそんなことを言うのが聞こえてきた。
「その腐れ縁とやらでいくと、ペアーも厄介だよね。あの考えなしの洋ナシちゃんもさ」
休憩中のシロガネさんの隣で休んでいたヤミカさんが、その声に嫌そうな顔をする。
「分かってると思うけど生前からの執着の方が厄介ってこと。じゃなければ、トウキに直接的に関わった訳でもないのに、犬の耳なんか生えないよ」
「ま、そりゃそうだな…」
シロガネさんは片手でヤミカさんの犬の耳を撫でながらフフンと笑った。
「これはこれで悪くないよ。時々ピクッとするんだよな」
シロガネさんはヤミカさんの尻尾にも触れる。腰の辺りに触れられたヤミカさんは、片手でシロガネさんの手を掴んでもじもじした。
「そこ…なんか…ダメです…普段よりも敏感になってるっていうか…」
「あー波紋の影響…感覚にも来てんのか…参ったな…トウキのやつ…もう犬になってるんじゃないか…人の理性を失ってないといいけど…他には?なんかある?いつもと違う感じ…」
「今のところは特には…音にはもちろん敏感になってますけど…あと匂いにも…」
ヤミカさんはそう言うとシロガネさんの匂いを嗅いだ。その仕草がやけに犬っぽくて私はドキリとした。シロガネさんも同じだったらしく、やや反応に戸惑っていた。
「く…臭いのか?」
「そんなことはありませんよ…シロガネさんの匂いです…いつもよりも濃いですけど…」
そこまで言ってヤミカさんは、ハッとしたように目を見開いた。
「私、何か変なこと言ってますね。すみません」
「いや、犬の影響だから仕方ないんだけどさ。身体が辛くなったら我慢しないで言ってよ?ちゃんと対応するからさ」
シロガネさんはそう言ってヤミカさんの頭を犬を撫でるような素振りでわしわしと撫でた。
***
やがてヤミカさんは眠ってしまったので、シロガネさんが抱き上げて二階の部屋に連れて行った。見送ったクロさんが言う。
「睡眠時間も影響を受けているかもしれませんね。普段ならこんな時間にヤミカさんは寝たりしないでしょう」
言われてみればそうだと思って私はアキさんの方を見た。一通り聞き取り調査は終わったようで、アキさんは今はクジョウさんの隣にいた。私がちらりとそちらを見ると、アキさんもクジョウさんの肩に頭を乗せてすやすやと眠っていた。
「こっちもです…眠っちゃいました」
「少し夢の領域を探ります…夢は…無限に広がる分どこと繋がるか分からないので厄介なんですよね。向こうとこちらが干渉しやすくなりますから」
クロさんはそう言って、静かにアキさんの額に手を当てた。
***
アキは気付けばどこか分からない道を歩いていた。さっきまで喫茶店にいたはずなのに、変だなと思った。それに、この道は何だか少し不安だった。薄暗いからかもしれない。周りの建物に人の気配はなく、無人の建物から流れ出た錆びた色合いの茶色い汚れが、乾いた血のように見えてどこか不気味だった。
(早く帰らなきゃ…)
そう思ってどこに帰ればいいのか分からないことにアキは気付く。足元を見ると自分の足は獣の毛で覆われていた。いつの間にか四つん這いになっている。アキは慌てた。
(犬になってる!?ヤダ…!どうしよう!)
アキは落ち着きをなくして走り出しそうになった。不意に何の気配もなかったその空間に無数のざわざわした人とも獣ともつかない影が現れてアキは悲鳴を上げそうになった。影はアキを目指して集まってくる。
(アキさん!こっち!!)
不意に無人の建物の一つのドアが開いて、少し慌てた様子のクジョウの姿が見えた。
(走って!早く!)
アキは後ろから追ってくる異形の影たちから逃れるように必死で駆けてクジョウの元に向かう。大きく開いた口にギザギザした歯が見えた。噛まれたら痛そうだ。
(クジョウさんっ!!)
アキはクジョウの胸に飛び込む。バタンと音がして後ろでドアが閉まった。同時にアキは目覚めて、ホッとした様子のクジョウと目が合う。クジョウは言った。
「…いきなり…クロさんに眠らされて…アキさんを連れ戻せって言われて…とりあえず…出来て良かったですけど…何なんですか、あの化け物の大群は。どこから湧いたんだ?」
「あれは…どちらかといえば、アキさんの心象風景にある恐れですね。それを視覚化したもの…とでも言えばいいでしょうか…。私が行くよりも縁を結んだクジョウさんの方が早いですからね。無事に取り戻せて良かったです。夢の中で食われたからと言ってどうにかなるものではありませんが…そんな悪夢は見ないに越したことはないでしょう…」
クジョウはたった今見た光景を思い出してゾッとした。口からよだれを垂らしながら大きな牙と無数の歯のある化け物がアキのことを追いかけていた。いや、正確には半分犬になったアキを、だ。
「あの…この悪夢…また…寝たら見てしまうんですか?」
アキではなくクジョウが言う。
「そうですね。絶対に見るとはいいませんが、また見る可能性はある、波紋の影響とはそういうものです」
それを聞いたクジョウは深く嘆息した。
***
私には何が起こったのか分からなかった。クロさんが穏やかにアキさんを迎えに行ってらっしゃい、と言ったらクジョウさんまで眠ってしまった。そこからは十分程度だったと思う。クジョウさんが顔をしかめたり、アキさんが小さな声を上げたりして、クロさんはアキさんとクジョウさんの額に手を当てたまま、静かに様子を見守っていた。そして、同時に二人は目覚めた。クロさんはホッとした顔をした。
「アキさんが眠ったらすぐにクジョウさんも夢の中に入れるように今日は少し繋いでおきます。クジョウさんで対応し切れない事態になった場合は私を呼んで下さい」
クロさんはどこからともなく筆を取り出すと二人の額に蝶の絵を描いた。描いた絵は一瞬光ると見えなくなった。
「番の蝶ですから、これで夢でも離れ離れにはなりません」
「な、何を書いたんですか?」
クジョウさんは慌ててトイレの鏡を見に行った。そして首をひねりながら帰ってきた。
「見えるようには残していませんよ。額の真ん中に文字を残していたら何かの罰ゲームかと思うじゃないですか」
言いながらもクロさんは同じ筆で額の真ん中に目と文字で書いた。
「え?さっきの蝶は丁寧だったのに、雑じゃないですか?」
思わず私が言う。クジョウさんも吹き出しそうになっていた。
「私は監視役ですから目と分かればそれでいいんですよ。蝶はきちんと描かないと夢の中を自由に飛び回れませんから」
私は納得したようなしないような気持ちで、クロさんの話を聞いていた。すぐに目の文字も見えなくなる。シグレ先生がクロさんを手招きする。
「なんでしょうか」
「その目…私にも描いてくれないかなぁ?」
「全く…野次馬ですね…」
言いながらもクロさんは丁寧に今度はまるで第三の目のように、シグレ先生の額に目を描いた。額の目は一瞬まばたきをしてから消えうせる。
「あーぁ、私も呪禁師だったら良かったのになぁ」
シグレ先生は伸びをしてぼやいた。
「言っておきますけど…呪禁師はろくな死に方しませんよ?」
クロさんが言うとシグレ先生はニコリと笑った。
「熱狂的なファンに宅配業者装って刺殺されるのと、どっちがマシかなぁ。あーでも刺された回数にしてみたら、マソホには負けてるんだよね」
「…別に競うものじゃないと思いますけど…あのニュースは衝撃的でしたから覚えてますよ…」
「ふーん、覚えてくれてたんだ。私のファンもその直後に自殺して…今は死神になり損ねて地下清掃係してんの。元々人殺しておいて死神になるのって倍以上時間がかかるから…さっさと諦めて欲しいんだけどねぇ。だからさ、これ見たら…激怒するんだろうなと思って…執着って厄介だよね…それは一番分かってるつもりだよ…」
シグレ先生は左手の指輪をかざして、いつになく真面目な口調でそう言った。




