統括の試み
ヤミカさんは結局、ペアーさんという元同僚のせいで犬の尻尾と耳が生えて、その日の講座は休むことになった。話を聞きつけたアキさんが降りてきて同じく尻尾と耳を確認して、二人ともうんざりした様子でため息をついた。私はヤミカさんの尻尾を触らせてもらった。なかなかにいい手触りの毛並みだと思った。
「ハロウィンならまだ分かりますよ?それでもこの年齢でやるのはちょっと…勇気要りますよね…」
「しかも動かせるし、感覚もあるんですよね…」
「あ、誰か来ます!隠れましょう!」
犬の聴覚なのか私では分からない足音を聞きつけて二人は慌てて二階に消えた。しばらくしてから本当に喫茶店のドアが開いて、入ってきたのはヒサメさんだった。
「おはよーなんかごめんねーって、あれ?いない?」
ヒサメさんは辺りを見回して首を捻る。シロガネさんが笑って二階に二人を呼びに行った。降りてきた二人を見てヒサメさんは、おーっと感心したような声を上げる。
「ギリギリかわいいところまでの波紋で止めてるじゃん、二人とも。絶対に顔までは犬になりたくないって意思が伝わってくるなぁ…」
ヒサメさんはヤミカさんの耳をくすぐる。ヤミカさんは一瞬とろんとした顔付きをして慌てて表情をひきしめた。
「気持ち良かったでしょ?犬の扱いは慣れてるんだよ。猫は難しいけどな。あーそれで今ペアーは病院の個室にがっつり閉じ込めてあるから、しばらくは大丈夫だよ。ただ…戻ってきて懲りてりゃいいんだけどさ、そういうタイプでもないだろ?変に図太いっていうか、その場のノリで流される奴だからさ…」
ヒサメさんはそう言ってカウンター席に座ると、ソファー席の隅でパソコンを開いて気配を消しているシグレ先生の方を振り返った。
「おはようシグレ。なに、無視してんの?挨拶くらいしたってバチは当たらないと思うけど?」
「あ、あぁ…執筆に夢中で気付きませんでしたよ…」
シグレ先生はわざとらしくそう言ってヒサメさんから目を逸らした。
「なんだよー昔は少しは可愛げもあったのに。シグレを大人のオトコにしてやったのは誰だったかなぁ…」
「わあっ!何を言い出すんですか!」
シグレ先生は立ち上がると早歩きでヒサメさんのところにやってきた。
「言っていいことと悪いことがっ!!」
「それ、後輩である研修生に聞かれちゃ困るやつってだけの話でしょ?恥ずかしいから!そ!だから、あえてこの話をして脅してんの。ねぇ、シグレ、警告文書いてくんないかなぁ?波紋がどれだけ怖いのかを理解してもらうためにもさ。軽々しく遊ぶなって釘刺してほしいの。で、正しい遊び方を推奨してくんないかな?」
「えっ…!?むむむ無理ですってば!そういうのは専門外なんですから」
「書かないとバラすぞ」
「酷いですよ!それにもうバレてるじゃないですか!人権侵害だ!!作家人生が!」
「お前の人生はすでに一回終わってんの、だから大丈夫!」
ヒサメさんは、テキストを開いて文章を読み出した。
「不特定多数の異性との不純異性交遊は控えることって早口言葉かよ?もっと単純明快に分かりやすく書いて入り口に貼っときゃいいんだよ!勝手に交際すんな!複数人と軽々しく遊ぶな!とかそういうやつだよ!視覚から入ってすぐに分かりやすいのがいいんだよ」
「それでしたら…いっそのこと交際も申請制にしたらどうでしすか?誰が見ても交際中と分かる印があった方が抑止力にはなるんじゃないですか?例えば…交際お試し期間も印をつける…その場合は一人に定めることとか…指導官に全てを任せる場合も交際中と同等の扱いとするとか…ルールを設ける」
シグレ先生の言葉にヒサメさんは眉を上げた。
「なんでもかんでも申請申請って、それは窓口が怒るだろ?いや…待てよ?でも一理あるのか?どう思う?」
ヒサメさんは近くで新聞を広げていたクロさんに声をかける。クロさんは少し考えてから言った。
「ないよりはあった方が効果もあると思いますよ?要するに私とマソホさんのような赤い糸を視覚化すればいい訳ですから…よほど自分に自信のある者でもない限りは糸で繋がった相手を誘おうなどという無謀なことは考えないでしょうし…要するに見えないから騙されてワンナイトならいいかと割り切って関係を持つペアーさんのような方も中にはいるのですよね?糸でなくとも交際中と分かる印のついた者を誘惑すると、その段階で減点されるようにしてもいいかもしれません。必死に点数を溜める時期だからこそ大幅に減点されれば、遊ぶこともできなくなるでしょう?」
「一応統括に打診してみるかなぁ。嫌な顔されそうだけど。あーそうなんだよ!クソっ!あの日だよペアーが抜け出したのは。あたしがクロさんたちと駅で会った日なんだ!しかもこっちに帰ってくる頃にはずっと家にいましたって顔して布団に入ってたからな」
ヒサメさんはシロガネさんの出したモーニングセットを食べながら悔しそうにそう言った。
「だからって鎖で繋いだら虐待って騒がれるし、コンプライアンスがどうとか、ほんと横文字ばっかりが増えて面倒ったらありゃしない。勝手に夜遊びする奴には首輪くらいつけてやりたいよ。前科持ちは軟禁可、くらいにしてもらわないとやってらんないな。こちとらお前を四六時中監視するほど暇じゃねーんだ!あ…」
そこでヒサメさんは口を閉じて胸の辺りに手を当てた。
「アシシ起きたか?あー待って、今出すからさ」
ヒサメさんの中からアシシさんが出てきて、とても気まずそうな顔をして辺りを見回した。
「…おはようございます…」
「なかなか起きないから収納して連れてきたんだよ。モーニングセットに珈琲ブラックでいい?」
「あ、はい…」
まだ半分寝ぼけたような表情のアシシさんにヒサメさんはキスをした。ヒサメさんは勝ち誇ったような笑みを浮かべてシグレ先生の方を振り返ると小指をかざして見せた。その小指に赤い糸が浮き上がり、それはアシシさんの小指に繋がっていた。
「どうだ!あたしにひれ伏せ!あたしに赤い糸なんて現れる日が来るわけない!って、あの日お前は豪語したよな?」
ヒサメさんの言葉にシグレ先生は今まで見せたこともないような、驚きとも落胆ともつかない顔付きをした。
「嘘…ですよね?」
「よーく見ろよ、嘘じゃないよ。って言ってもあたしも今朝見つけたばかりなんだけどさ」
「ええっ!?糸っ!?」
自分の小指に繋がった糸に一番驚いたのはアシシさん本人だった。一気に目の覚めた顔になって、それからぽかんとしてヒサメさんの顔を見つめた。
「なに驚いてんの?そりゃまーこうなることだってあるよ」
「えっ…嘘…俺…もうそろそろ…ヒサメさんに…飽きられるかなって思ってて…それで…」
「あーだから?なんかコソコソ荷物整理してんなって思ってたんだよね?あたしは、アシシの方が飽きたんだと思って…なんか…いなくなるのは嫌だなって思ってたんだよ…」
アシシさんは慌てたように言った。
「飽きるなんてそんな訳ないじゃないですか!ただ…あの日はペアーさんが絡んできて鬱陶しかったっていうか。ペアーさんに襲われそうになったんですよ俺…マジでしつこくて…それで振り払って十分くらい家出してコンビニに行って…帰宅したらいなくなってて…探したんですけど見つからなくて…自己中の構ってちゃんかよ面倒だなって思いながら統括に連絡したら放っておけと言われたんです…自業自得だって…」
「はぁ!?知ってて見逃したのかよ?統括は」
「すみません…あの…この先は実験的な試みだって…だからヒサメさんには報告するなと言われたんです…終わって結果が出たら話していいって…それもあって俺…気まずくて避けてたっていうか…本当にすみません…」
「あーいいよ。統括の指示なら仕方ないよな。で?なんの実験?」
アシシさんは困ったような顔をして遠慮がちに口を開く。
「最初から統括が目をつけた研修生は…わざと穴を空けて…規則を遵守するか破るかを試すって言ってました…二回破ったら養成講座から追放だそうです。追放された場合、十年は戻れないって言ってました。恐らく今日には発表する気なんじゃないかと…」
「わぁお!強気に出たな!ま、二回ってのが統括にしては譲歩した方だとは思うけど」
ヒサメさんはそう言ってサラダのキュウリをウサギのように高速でポリポリとかじった。
「誰でも彼でも在籍していれば死神らしく振る舞っていられるっていう生温い体制を終わりにしたいとも言ってました。今後は厳選するって…それで…この糸…何なんですか?ヒサメさんに繋がってますよね?」
「え?そこ?お前、分かってないの!?」
ヒサメさんは目を丸くしてから爆笑した。
「これは、この先もずっと一緒にいようって糸だよ。あたしとアシシは来世も繋がる…まぁ、しばらくは死神止める気はないけどさ。運命の赤い糸って言うだろ。ベタなやつだけどさ」
ヒサメさんはアシシさんの肩を抱いた。アシシさんは一瞬ためらってから、ガバっとヒサメさんに抱きついた。
「ほんとですか?良かった…俺…ペアーさんが来てから、なかなかヒサメさんとの時間が…取れなくなって…嫌だなって思ってました…子どもみたいな感情で…嫌になりますけど…独占欲丸出しで格好悪いなって思いながらも…少し苛々してました…」
「あーそれは悪かったよ。よしよし、だから昨日のあれが最後じゃないからな、安心しな」
ヒサメさんはアシシさんの頭を撫でる。シロガネさんがニヤニヤしながら、アシシさんの前にモーニングセットを置いた。
「ま、食えよ!良かったな、アシシ。めでたい日だな!」
シロガネさんが拍手をしたので、周りもつられて手を叩いた。私は手を叩きながらちらりとシグレ先生を見る。シグレ先生は両腕を組んで納得しないような顔付きをしていたが、途中から諦めたのかやがて手を叩き出した。
「これでどうかな?」
拍手が止むと突然シグレ先生はパソコンの画面にでかでかと表示された文字を見せた。その交際、ちょっと待った!!とそこには書かれていて、その下には、本当に付き合ってるのは自分だけ?他の人はただの友人?心配なそこのあなたは、今すぐ波紋の調査を!!その傷が深くなる前に、と書かれていた。
「…その交際、ちょっと待ったって、あたしたちにケンカ売ってんの?」
ヒサメさんの声にシグレ先生は首を横に振った。
「ケンカを売った訳じゃないですよ。ま、二人を見ていて思いついたフレーズではありますけど…」
「シグレはさ、その重たい束縛と執着気質をもう少し軽くした方がモテると思うんだけどね…ここの喫茶店には勘違いしてるファンはいないから大丈夫だと思うけど、シグレと付き合ったら監禁される覚悟が必要だからねーそこんとこは、ハイアオとあんま変わんないっていうか。シシュウもよく付き合ってるよな、あんな奴と」
後半はクロさんに向かって言ったのでクロさんは新聞から目を上げた。
「本人たちが好きでやってるんですから、口の挟みようもありませんよ。シグレ先生の特殊な性癖に付き合える方が現れるのを願うしかないですね」
「人を変態みたいに勝手に区分するのは止めてくれないかなぁ?まったく…」
シグレ先生は残っていた珈琲を飲み干して不服そうにそう言った。




