弱み
悲鳴を上げてお兄ちゃんと言った方の女性は、その場にへなへなと座り込む。
「…トウキさんの妹…チセさんですか?」
「は…はい…」
「あなたは…えぇと…」
「…チセの婚約者のツキです。死んだ時から元々…婚約者でした。なのでトウキさんは…義理の兄です」
サギリは手に下げたコンビニの袋を見ていた。このアパートの目と鼻の先にあるコンビニだ。夜中でも行き来できるように、このアパートに以前住んでいた第三階級の死神が好意で安全な道を作ったらしい。だからこの時間帯になってもその道を利用する者がいる。サギリの視線に気付いたツキは勘違いをした。
「この時間帯に外に出たことについては謝ります。チセが兄がちゃんと食べているか心配だと言うので、買い物に行ったついでに自分たちの欲しい物も買っただけです」
「いや、君たちの外出を責めた訳じゃないよ。それにここは何十年も費やして一部に安全な道が敷かれているからね。見ての通りトウキは行方不明だ。これから捜索隊が動き出す…私たちは現場を調べていただけだ」
サギリは言ったが、チセは真っ青になってガタガタ震えていた。
「チセさん?チセさんは、時々、お兄さんにこうやって差し入れしてたのかな?」
サギリは口調を変えてチセの前にしゃがんで顔を覗き込む。
「えっ…はい…そうです」
チセは困惑したように頷いた。
「差し入れは…どんな風に?」
「えっ?兄は…だいたいすぐには出てくれないので…ドアノブにぶら下げてました…」
「なるほど」
「あの…それが何か?」
「いや、ちなみに今日も差し入れしようと思って来たの?今日来たのは初めて?」
「はい…私たち…一つ下の階に住んでて…だから…」
「そう、ありがとう。今日はもう帰った方がいいよ。ツキさん、チセさんについていてあげて。それからもう今日は外出しない方がいいよ。分かった?施錠して念のためにドアの内側にこれを貼って」
サギリは懐からお札を取り出した。黒い文字とも記号とも判別のつかない何かが記されている。
「仮に…君のお兄さんの声で開けてくれと頼まれてもドアを開けちゃダメだからね。闇に引き込まれるよ?こんな所で中途半端なまま消えたくはないだろ?君たちはやっとアキさんに頼らずに、遠回りでも着実に前に進もうと決めたところなんだから。違う?」
「違わないです…」
チセは少し悲しそうな顔をしながらもつぶやいた。
「お兄さんの声でも人ならざる魂の場合、このお札の文字が赤く光る。お兄さんだった場合は青く光る。その場合は…自分の部屋に戻るように伝えるんだ。いいね?絶対に二人の家に招き入れてはいけないよ」
彼は同じお札を部屋の内側に貼り付けた。途端に部屋の淀んだ空気が清浄になったように感じた。チセは目をしばたかせた。
「ツキさんも…君は思ったほどトウキさんの考え方に影響を受けていないようで少しホッとしたよ。第二のアキさんを生み出されるのは困るからね。ツキさんはチセさんを利用するようなことはしないだろう?」
「はい…しません。自力できちんとやるって決めたので…」
ツキはそれから迷いながらも口を開いた。
「あの…トウキさんのところには…よく女友だちが遊びに来て泊まったりもしてました…アキさんは止めて欲しいと言っていて…自分も何度か言ったんですけど、友だちが悩んでるのに夜に追い出す方が可哀想だろって…聞き入れてもらえませんでした…」
「悩みねぇ…で?その女友だちの名前は?覚えてる?」
念のためにサギリはメモを取り出す。ツキは六人の名前を出した。チセはあ然とした表情でツキを見返す。
「……そんなに!?どうして言ってくれなかったの!?」
ツキは苦しそうな顔をしてチセに頭を下げた。
「チセ…ごめん。トウキさんに弱みを握られてて…チセに言ったらバラすぞって脅されて…それで…言えなかった」
「弱みって何?」
チセは嫌な予感がしたのか恐る恐るといった様子で尋ねた。
「トウキさんの家に呼ばれたことがあって…行ったら王様ゲームが始まったんだよ。ゲームだから大丈夫だって…けっこう際どい内容で…それで…トウキさんが王様になったときに…チグサさんと…キスさせられた。帰るって言ったんだ。でも…帰らせてもらえなくて…気晴らしのゲームでいちいち騒ぐなって言われて…本当にごめん…」
「それで…なの。もう…私、怒らないから…いや、怒ったかもしれないけど…ゲームって先に設定するところが、ほんとお兄ちゃんらしい…!腹が立つけど、それだと多分、理論上は波紋は起こらない…あくまでゲームだから。あーっ!悔しい!!」
チセは頭を抱えた。サギリはメモした名前の中の一つに丸をつける。ビニール袋にこの名前はなかった。ペアー。つまりは洋梨だ。随分と皮肉屋なのかそれともたまたまなのかと思う。単に洋梨が好きだったのかもしれないが、用無しと考えてしまう自分こそが皮肉屋なのかもしれないとサギリは途中で思い直した。いずれにしろ少し調べてみる必要がある。
「チセさん、悔しかったらやり返してみるかい?ゲームの枠組みなど設定しなくてもランクAAの私は波紋は出ないよ?ツキさんも…断れなかったとはいえ、それを隠していた訳だからね。目には目を歯には歯を…唇には唇を…」
サギリはツキに向かって微笑むと、チセの顎を持ち上げて唇を重ねた。ススキが間抜けな声を上げるのが聞こえたが、サギリは無視した。たっぷりとチセの唇を味わってから、サギリは顔を離す。
「ツキさん、知ってるかい?婚約者の状態で亡くなったカップルが永遠にお互いただ一人の相手のみを求めてカップルの状態を維持できる年数…強い死神になるほど、皆、長続きはしないものなんだよ?どうしてか分かる?自分が強くなったら、もっと強い相手と付き合いたくなるから…婚約者だからと恩着せがましく一緒にいる必要はないんだよ。じゃあね、今のところは仲の良いお二人さん」
サギリは微笑んでチセの頭を撫でる。ツキは苦情を言おうと思ったのに、呆然とするチセの顔を見たら何も言えなくなってしまった。ランクAAの死神と聞いて急に恐ろしくなったせいもあった。歩き出したサギリを慌ててススキが追いかける。
「……大丈夫?チセ…」
ツキに言われたチセはハッとして唇をごしごしと手で拭った。
「大丈夫じゃない!何あの死神!?訳分かんない!」
チセは勢いよく立ち上がると、ツキに向かって言った。
「早く帰ろ!!」
***
「ちょっと待てってば、サギリ!」
ススキはサギリを追いかけて、思わず肩に触れてしまった。サギリは振り返ると、ススキの手を見る。ススキは慌ててその手を離した。
「なんだ?」
「なんだじゃなくて、それはこっちのセリフだよ!なにいきなりおかしな理論をこねくり回してキスしてるんだよ!!」
「あぁ…そのことか。あの子は別れた方が死神として早く成長できるんだよ。今は気付いていないだろうが、そのうち気付くさ。自分は婚約者などいなくてもやっていけると」
「他人の幸せを壊して楽しいか?」
ススキはため息をつく。するとサギリは心外だと言わんばかりの顔をした。
「幸せ?何をもって幸せと判断するんだ?ステレオタイプの男社会にいたススキには理解出来ないだろうが、女が三つ指をついて男を出迎えていた時代はとっくの昔に終わったんだ。にも関わらず、中途半端な男女平等などというからくりがまかり通る世の中になってもなお、男の深層心理には家事は女に任せたいという気持ちが根強く残っている。ツキもそうだ。本当はコンビニで買った飯ではなくてチセに作ってほしいと内心では思っているが、口に出して言う勇気がないから、今はそれで済んでいる。そんなに食いたいなら自分で作って相手に食べさせてみるくらいのことをしてもいいと私は思うんだよ?違うか?稼いだ点数で何かを買うのは男も女も変わらない。生前よりもよほど平等だ。なのに未だに一定数の男は生きていた頃のように女に家事をさせたがる、それこそどうかしているとは思わないのか?」
「ええっ!?どうしたんだよ、急に…まぁ、言ってることは分かるが、俺も外食しかしないから偉そうにツキのことは責められないなぁと…生きてた頃は、家事は一切してこなかった…あ!俺は今は自分で掃除はやってるぞ?」
「だろうな。お前はその世代だ」
サギリはガードレールに腰を下ろすと煙草を取り出して火をつけた。煙がゆっくりと暗くなった空に吸い込まれる。この煙には闇に潜む者を遠ざける力があった。吸い口が呪具になっている。サギリはタブレットを取り出して検索を始めた。やたらと長いパスワードをものすごい速さで入力すると、ススキの見たことのない画面が開いた。サギリはそこにペアーと入力する。
「…横から画面を覗くな。個人データの閲覧権限…ススキは持ってないだろ?別に見たところで…何点か減る程度だけどな」
だったらこんなところで堂々と開くなと言いたいのを我慢してススキは目を逸らす。
「わりと新しく入った女か。私の嫌いな生き物の典型。噂好き。他人を貶めるのも好きで、誰かしらに嫉妬する。は?ペアーは単に洋梨の方なのか。違う意味が付随するとも考えずにその名を選んだ頭の悪い女…イケメンに弱い…」
「やっぱり辛辣だなぁ」
ススキが言うとサギリは口元を歪めた。
「私の感想じゃない。これは統括のメモだ。統括の第一印象が書いてある」
「え?ほぼ悪口じゃないかよ!メモ?第一印象悪過ぎるだろ?何なんだ?」
「あぁ…なんでかって?それは、この女が過去にヤミカの同僚だったから…というのも少なからず影響しているのかな。さすがにトウキの家に泊まりはしなかったが、遊びに来たことはあった訳だ。ヒサメの不在を狙って出掛けたんだろうな。悪い女だ。確かに顔だけはイケメンだからな、トウキは」
「…ヒサメの目を盗むなんて…まともな奴ならする気も起きないだろうけど…夜遊びに慣れているのかもな。散々脅してもこれだ…先が思いやられるよ」
ススキはため息をついた。研修生が地下に引きずり込まれてから以前よりも外出に関しては厳しくなったはずだった。
「ススキ、押収品を預けたら、とりあえず飯でも食うか?」
「えっ?俺と…?」
「勘違いするな、統括もいる。お前にも今日の話を聞きたいから奢ると言ってるがどうする?」
「あーそれ、絶対に断れないやつだろうが…分かったよ」
ススキは諦めたように首を振った。一瞬二人きりの食事に誘われたのかと期待した自分が馬鹿だったとススキは思った。




